誕生
僕は2000年8月20日に都内の病院で産声を上げました。授けられた名前は「晃」で、「あきら」でも「わたる」でもなく、「ひかる」と呼びます(笑)。僕は自分で言うのもあれなのですがとても素敵な名前をもらったと思っています。眩しく、光るような存在になって欲しいと言う親の願いでこのような名前になり、いつもそのような存在になれるように頑張っています。
アメリカでの生活
幼少期に早速自分の人生の大きなターニングポイントを迎えました。それはアメリカへの引っ越しです。父親の仕事の転勤により、家族でアメリカのニュージャージー州に引っ越すことになりました。僕は4歳〜10歳までアメリカで生活を送り、小さい頃であるので記憶は曖昧ですがとても良い経験であったのではないかと思いました。月曜から金曜は現地の幼稚園・小学校に通い、土曜に日本人の学校に通っていました。最初に引っ越してきた時はもちろん英語は全く理解できず戸惑いながらも学んでいき、徐々に英語を話せるようになっていきました。アメリカの学校では米国人だけではなく韓国人、中国人、インド人などなど様々な人種の人たちが一緒の教室で学んでいました。当時は全く違和感を感じていませんでしたが、今考えると自分がいかに多種多様な場所で学んでいたのかに驚きます(笑)。自分の曖昧な記憶から思い出されるアメリカで好きだったものや特徴を並べると以下のようになります。
・広い家、庭、道路、公園
・空気が綺麗で、自然豊かな街並み
・小学校で実施される毎週火曜日のピザデイ、毎週金曜日のアイスクリームデイ
・ニューヨークに車で30分で行けた
・旅行先がアメリカの他の州やカナダ
これだけではないですが長くなってしまうのでこれだけにしておきます(笑)。
日本に帰国
自分が生まれた杉並区に戻り小学5年生の時に転入してきました。良い仲間やクラスメイトにも恵まれ、転校生の自分を昼休みのサッカーに誘ってくれたり、放課後の遊びにも誘ってくれたりしてすぐに生活に慣れました。小学校では野球部に入り、セカンドを守っていました。アメリカの野球と日本の野球は全然厳しさが違く、驚きました。アメリカでは存在しないサインを日本では複雑に行ったり、ほとんど芝であったアメリカとは違い日本ではほぼ砂であり苦難しました。返事や挨拶もアメリカとは段違いの厳しさがありました。自分が所属していた野球部は厳しいだけあり、地区大会で銀メダルを獲得したり、都大会の本戦に進むなど優秀な成績を残しました。自分は小学校のとき体がとても小さく手先が器用であったのかはわからないがバントがとてもうまく、卒業する頃にはバント職人と呼ばれていました。まぁ、ただ打てなかっただけなのかもしれないですけどね(笑)。
高校受験
中学校の時は主に高校受験に向けての勉強が多く小学校の時と比べ、遊ぶに行く回数はとても少なかったです。自分は慶應大学であるお父さんに憧れて中学校に上がる時から慶應大学の附属の高校に通いたいと決め、塾に通い詰めの日々が続きました。学校の勉強よりも塾の勉強の方が目標が明確化していたので気持ち的にも気合いが入り、頑張ることができました。僕の第一志望校であった慶應義塾志木高等学校(自分が後に通う高校)は英語、数学、国語の三科目の受験科目がありました。英語はアメリカに住んでいたためアドバンテージが少しありましたが最初は数学と国語がひどい様でした。中学数学は範囲が狭いため何回も解き直しを繰り返せば解法が自然と浮かび上がってくると塾の先生に言われ、課されたプリントを最低三周はするほど繰り返し解いていき最終的には得意科目にすることができました。国語はあまりにも酷かったので基礎的な読む力、書く力を鍛えるもう一つの塾も通うことによって平均レベルにまで押し上げることができました。中学三年生の夏は一日十時間以上勉強をし、結果的に第一志望に合格することができました。僕の受験を一言でまとめると努力の結晶であったかのように思えました。
テニス一本の高校生活
大学受験がない高校に進学した僕は勉強の代わりに熱中するものを見つけました。それは「テニス」です。両親がどちらともテニスをしていたので僕も小学校の時からテニスをかじっていました。しかし本気でテニスと向き合ったのは高校生になってからでした。そんなに厳しくないだろうと思って入部した庭球部は想像の遥か上を行く厳しさがあり、一年生の時は毎朝早く学校に行きコート整備をさせられ、何度も走らされ、階段降りるのが痛いほどトレーニングをやらされるなどとても辛い思いをしました。そんな辛い中で自分の支えとなったのがテニスと一緒に頑張ってくれる同期でした。僕はテニスが大好きだったのでトレーニング終わった後にコートで打てる喜びは尋常ではなくそれは同期のみんなも同じでした。どんなに辛い時でもテニスという大好きなモチベーションがありみんなで一つに向かうことが原動力になりました。先輩が引退し、いなくなってからも我々は自分たちで辛いトレーニングを課せて頑張っていました。自分たちは団体では埼玉県ベスト4、個人では全員が県大会本戦に出るという絶対的な目標を立て日々ボールを追っていました。最終的には団体では準々決勝で負け、惜しくもベスト8止まりで熱い涙を流しました。個人では自分はシングルス・ダブルス共に県大会本戦に進むことができ、一生味わうことのない達成感がありました。受験と同様、高校時代の部活は努力の結晶であり一生続く最高の同期もできました。
台湾国際交流
高校三年生の時、部活を引退し何もすることがなかった僕は高校が主催している台湾との国際交流プログラムに参加することにしました。このプログラムは台湾の高校生と交流するものでありお互いをホストファミリーとして受け入れる形で、日本で1週間、台湾で1週間過ごすというものでした。僕はこのプログラムのリーダーを務め日本で留学生を受け入れる際にいかに楽しませるかをみんなで考えました。会う前からそれぞれのパートナーと連絡を取り合い最終的には今でもつながっているような関係にまでなりました。フェアウェルパーティーではみんなが号泣するほど濃い2週間を過ごしたと思いました。台湾の高校生は僕たちと違って活気に溢れていました。授業を体験すると、ほぼみんなが手を上げたり、毎朝テストを行ったり違いに驚かされました。自分の環境を見直す良い機会になりました。小学生以来国際交流を行なっていなかったが、幼い頃のアメリカでの交流とはまた違ったものを感じました。高校生の自分はいかに違う国と交流することが楽しくて刺激のあるものなんだと気付き、良い経験をしたと思いました。
入学
僕は2019年4月1日に慶應義塾大学法学部法律学科に入学しました。自分が法学部法律学科を選んだ理由は簡単にいうと、将来自分に役立つものを勉強したいと思ったからです。安直な考えだと思われるかもしれないのですが、法律というのは我々が必ず関わってくるものであって、それを学び、理解することによって何か役立つものがあるのではないかと思い法律を学ぶことを決めました。弁護士になりたいわけではないのですが世の中の仕組みを理解することはとても大事なのではないかと思いました。
学生団体・サークル
僕は大学に入り、法律のサークル、テニスサークルそして国際関係会通称I.I.R.に入部しました。法律のサークルは単純な情報集めの目的で入ったのであまり行事には行かず、結局半年で辞めてしまいました(笑)。テニスサークルはやはり長年テニスをやっているだけあり、テニスが大好きなので大学生になってもプレイしたいという思いがあり、入りました。慶應志木高校の庭球部が歴代代表を務めており毎年5人ほど入っているテニスサークルで優しくて面白い人が多く、上半期はイベントや曜日練習などにたくさん参加していました。夏が始まるまではこのテニスサークルにずっとコミットしていくのかな、と思いながら過ごしていました。しかし、夏からは全く違う団体に完全に心が惹かれるようになりました。それが自分が現在、役員を務めている国際関係会です。
国際関係会(I I.R.)
僕がこの団体を知ったのは大学を入る前で姉の友達から教えてもらいました。何か良い国際交流の団体に入りたいと思っていた矢先にI.I.R.を知ったので新歓に行ってみると優しそうな人が多かったのでとりあえず入ってみました。そこでI.I.R.のプロジェクトの一つであるInternational Week Tokyoに参加し学生だけで外部のホストファミリー、新入生、留学生、部員、総勢100名を越える大規模なプロジェクトを運営しているコミッティーに憧れを抱くようになり役員になることを決意した。自分の役職は通信局であり、副局長を務めている。通信局は留学生が日本にくる前に連絡を前々からとり、同意書やVISAの申請などの書類を送っている。また必要な持ち物や日程表などのリストを作成し、留学生と日本人を繋げる第一人者としての役割を担っている。この役職は留学生からとても感謝されるのでやりがいをとてつもなく感じる。また、FUNという国際問題について考えるプロジェクトにも所属しており、自分が今まで考えたことのないようなものに興味を持ちながら活動している。この団体に所属している人はとても優秀な人が多く、面白い考えをもち、尊敬しかつ大好きである。最後まで悔いのないように学生らしく突っ走っていきたいと思っています!