多種多様、ないしは独自の形で視野の広がった考え方が目立つようになった世界では紋切り型のようなマインドはある意味時代遅れのような風潮がありますが、それでもこんな風に記録してまでマインドを言語化してこれから変えるとしても一時的にでも確定させることも同時に大切だと思います。
こう言うと視座(ここでは全と個)の違いが指摘されそうですが、要はわざとざっくばらんにすることも特定の事を規定することもどっちも正しいし、間違っています。大体どんな局面であってもそうです。
だからこそそんな世界に対して憂うのではなく、そんな世界との共存の意識を内的に持つことが必要なんだと思います。しかし、盲目的な形では好ましいとは言えません。そんな世界を見て自分がどう感じるのか、どう生きていきたいのか、どう変えたいのかを考え、他者の考えに耳を傾け、比較と発見によって自分の考えの居場所を確定・修正を行っていかねばなりません。
これは個と個でも個と全でも同じことをすべきです。昨今のSNSでの論争なんかがいい例です。非常にいいこと言ってるような人もいればかなり危ないようなことをいう人も中にはいます。とはいえこれらを白黒はっきりつけることはできません。ともなれば結局自分はどう考えてのかをある程度考えておかないことにはそれらの分別がつきません。
共存する一方で自分が進む先を考え続けることも必要です。これは発展と衰退という二分法ではありません。発展という形での進み方も選択肢として正しいですし、停滞や恣意的な後退も時には役に立つでしょう。とはいえ、人には決断が迫られる時が時として存在します。それこそが前述した内的意識に基づくものなのです。自分の立ち位置と照らし合わせて理性的に進む先を決めたり、可能性を感じられるのであれば飛び抜けたことをするのだって選択肢です。
人生はいわば先の見えない路線図です。先は続いていますが、それを確実に見透かすことはできません。また、何度も分岐点にぶつかって選んだ先で迷うこともあるでしょう。時折行き止まりに当たってしまうこともあるでしょう。時にはアクシデントで行く手を阻まれることだってるかもしれません。
そんな中でも自分でこの先をどう進んでいくかは常に自分で決められます。普通列車のように堅実に先へ進むことも、特急列車のようにピョンピョン動き回って身を様々な場所においてみることもできます。どこの分岐点で乗り換えを行うのか、乗り換えずにそのまま進むのか、どこかで止まるのか、それも自由です。
「レールに敷かれた道を歩きたくない」とよく言われますが、周りの環境はある程度定まっていたりする側面もあります。他人の指図に依存して進む道を進んでいたら確かにそうとも言えるのかもしれませんが、そのレールの上で自分はどんな速さで、どんな方向を進みたいのかを自分で望むことができれば必ずしも「レールに敷かれた道を歩きたくない」と思うことはないかなと思います。
しょうたさんのマインドに共感