競技との出会い~高校チャンピオンに至るまで

 幼少の頃から身体を動かすことが好きだった私は、小学4年生から自宅近くの柔道教室に2歳年上の次男と一緒に通う事に。柔道教室は毎週月・木曜18時半~20時半頃まで。帰りの道中竹藪を通り自宅前の空き家を通るのでめちゃくちゃ怖かった。怖がりの私を泣かせる為、毎回次男は、教室が終わった後走って自宅に帰宅。毎回泣きながら兄貴を背中を追って帰宅していた。柔道の思い出より、兄貴の背中を追って走る記憶の方が鮮明に覚えている苦い思い出である。

 そして、中学に入学。親父が甲子園球児という事もあり、野球部に入部しようか考えたが、頭の形が歪の為、坊主にするのが嫌で結局柔道部に入部。顧問がいるものの、基本的にキャプテンが練習メニューを決めていた。どうやって強くなれるのか全くわからなかったので、自宅庭にある柿の木に帯を着けて、もくもくと背負い投げの練習をしていた。その成果があったかわからないが、中学3年生の地域大会で、全ての対戦相手に背負い投げをかけて勝利し2位に入賞した。

 その中学時代、柔道部の活動が週3回程度しかなく、週末も練習がない中、週末違うスポーツをやってみたいと思っていたところ、地元の高校でレスリング教室が開校される話をきいて、早速申し込みレスリングを始めることとなった。柔道とは違い掴むところがなく、低く構える姿勢や掴みどころのない競技に難しい競技だなと感じていた。しかし、徐々に慣れ高校生からポイントを取れるようになりレスリングに魅力を感じるようになっていった。

 中学を卒業し、レスリング教室に通っていた新宮高校に入学しレスリングを続けようと思い受験することとなった。甘い考えでいた私は、ろくに勉強もせず「なんとかなるだろう」と思い受験したものの不合格となった。人生の転機はここから始まったと今でも、思っており、このことがきっかけで妥協しないところや、合格した同級生を見返してやろうといった気持ちを今でも常に持ち続けている。

 そして、地元高校受験に失敗した当日、父親が大阪で単身赴任していたが、私の不合格を聞いて、直ぐに帰ってきて、私に会うなり「茨城の霞ヶ浦高校でレスリングをやりなさい」と一言。同じ教室に通っていた一つ上の先輩がこの高校に入学しレスリングを続けている事もあり、また、その夜、自宅に新宮高校レスリング部の先生が来て「不合格にさせて申し訳ない」と謝罪。私が単純に勉強不足だったので大変申し訳なく思った。

 そして、先生は、霞ヶ浦高校レスリング部監督に電話し「新宮高校で獲得しようとしていた選手を不合格にさせてしまったのでそちらで取ってほしい」と。翌日には、霞ヶ浦高校を受験することとなり、受験し合格。3月下旬地元を離れて茨城に向かうことに。始発電車に乗るため新宮駅へ。駅にはクラスメートが見送りに来てくれて、同級生の為にも頑張らないといけないな思い、レスリングの世界で<i>成功</i>する事を誓い、地元をあとにした。

 そして、夕方霞ヶ浦高校レスリング部合宿所に入寮。当時霞ヶ浦高校レスリング部は、全国優勝はないものの全国トップクラスのチームであった。入部した時は、全くレスリングを理解しておらず、同級生はレスリングの全国チャンピオンや実力者が多く全く歯がたたなかった。とにかく練習に必死に食らいついていった。

 <i>地元を離れて3カ月が経過し、友達や家族、特に婆ちゃん子だったため、婆ちゃんにも会いたくなっていった。その理由は、私のように県外からきている生徒の日曜の晩御飯は大抵弁当屋で買うもので、県内出身の者は合宿所近くのファミレスで家族と外食。それがうらやましく思い実家に電話するとお袋が出て「毎週茨城にいける訳ないと」一言。愕然としたのを今でも覚えている。その電話の2.3日後家族から缶詰やお菓子と手紙が届き、その手紙に両親、長男は頑張れ的な一言。しかし次男は「ケツ割って実家に戻ってきたらタダじゃすまん」と。次男は私にとって親父的な役割であり、ガキの頃私が悪さをするとよくシバかれたくらい怖い存在。また、新宮高校でレスリングをしていた先輩でもあるため、その言葉は重くのしかかり「頑張るしかないな」と思った。</i>

 そして、徐々に実力がつき2 年生でレギュラーを獲得。春の選抜では後一歩で団体優勝を逃し、インターハイでは必ず団体優勝を目標とし強化練習として、1日4回8時間の猛特訓を開始。内容は、朝練習5キロ走ランニングやダッシュなどの基礎体力トレーニングを1時間。昼練習はウエートトレーニング40分。午後練習は実践練習を3時間半。夜の練習は2時間の「ぶち当たり」と言うマットに4・5名入りそこに1分おきにあたっていく練習。それを10ラウンド~20ラウンド、この練習がきつくてよく泣いていたのを今でも思い出す。しかし、このハードな練習により、どんなきついことでもやれる自信がついた。

 更に、夏のインターハイであるため、酷暑特訓として6月以降は道場内を締め切り、道場内の気温が38度になるまでボイラーを焚いていた。もちろん水分は飲めず、トイレを行くふりをして水を飲むので、入口を鍵までかけられてしまった。今では考えられない練習方法だが、その効果があり、岡山で開催されたインターハイでは、暑さは全く気にならずのびのびとレスリングができ、創部初めて団体優勝し、個人戦でも8 階級中6 階級を制し、まさに霞ヶ浦旋風を巻き起こしたインターハイであった。

手島智美
2021.07.29

本当に今では考えられないくらいハードな環境で戦って来られたのだと改めて敬服いたします。
小さい頃は怖がりだったという話では太田さんを身近に感じました。
お兄さんの影響が大きかったのですね。(私の姉はジャイアンみたいな存在でした・・・!)
厳しい愛情が人を育てるのだとも感じました。

太田 拓弥
2021.07.29

返信ありがとうございます!
そうなんですよ!兄貴のおかけで今の私がおります!

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