フェミニストとしてのジレンマ

私はフェミニストとしていろんなジレンマを抱えています。

「平等」に向き合う人なら誰しもが自分の排他性や加害性、もしくは理不尽を受け入れてきた過去の自分に気がつき、葛藤しているのではないでしょうか。

ジレンマの種はたくさんあるけれど、今日はジェンダーやフェミニズムに関する議論では常識のように議論される「特権」を種とするジレンマを書きたいと思います。シリーズ化するかも、、?

私は特権を持っていない

フェミニズムやジェンダー論における特権とは、単純に言うなれば「男性である」こと。それは、良い悪いの話ではなく、歴史的に「男性である」から享受してきた特権がたくさんあって、それが今も意識の中にも制度の中にも生きているという話です。ここで語ると特権の話で終わるので、これくらいのさっくりの理解で大丈夫かと思います。

そう、つまりフェミニズムやジェンダーの観点から見ると、私は生物学的に女として生まれてきたから、特権を持っていない方の人間です。私はフェミニズムやジェンダー、性に関心があり、その方面で活動しているため、特権がない方の人間として考え、発信することが多いのは当然のことでしょう。しかし、私が社会において弱者なのかと言われれば、そうではないでしょう。なぜなら

私は特権をたくさん持っているから

フェミニズやジェンダーの観点から見ると特権がない人間となるけれど、たとえば、中学から大学まで私立に通わせてもらえる家庭環境も、沢山の選択肢が自動的に与えられる東京に住んでいることも、大きな病気がなくいわゆる健常者であることも、自分でNGOを立ち上げるための情報網や自分用のPCや機器があることも、全部特権かもしれない。弱者と強者で二分化して議論するのはナンセンスかもしれないけれど、人は皆、弱者であり強者なのではないでしょうか。

特権はみんな持っていて、みんな持っていない

そういうものなのではないでしょうか。問題は、多くの人がそれに気づいていないことではないでしょうか。だから分断が起きて傷つけあう。

そもそも、自分の持っている特権は気付きにくいものでしょう。特権がある自分には起こり得ないことを、特権のない人が経験しているのですから、特権のない人が自分に起こり得ないことで困っているという話を聞かない限り、気づかないのです。洗濯物を畳みながら、「靴下ってなんでいつも片足だけなくなるのかな」って思うのは、左右共に無くしてしまったら無くしたことにすら気づかないのに、右だけ手元にあったら左がないことに気づくからでしょう。(ちなみに両方揃っている靴下に対しては何も思わずスルーですよね)それと同じで、「ある」と「ない」を両方同時に認識しない限り、自分の特権というものは見えてこないのです。靴下の例は私の世界観すぎたかもしれませんが、そういうものだと思っています。偉そうなことを言っている私にも、まだまだ気づいていない特権は沢山あるのでしょう。

森会長と特権

先日、東京オリンピック、パラリンピック組織委員会森会長の女性蔑視発言があり、今に至るまで大きな批判や議論を呼んでいます。森会長は自分の特権に気づいていないように思いました。というより、自分よがりの特権を振り回すことによって自動的に女性を排除し、あのような発言をしたように思います。政治は男性主体の場所であり、女性の意見はせいぜいたまに「役に立つ」くらいだという認識なのでしょうか。政治の舞台において圧倒的多数派の男性である、そして圧倒的権力がある、自分が中心であって当然である、という無意識下の特権意識。その特権を「口うるさい弁えない女性」という存在によって冒涜された不快感によってあの発言をしたのでしょうか。もしかしたら、完全に自分の特権を把握した上で、その圧倒的立場を使って特権のないその他大勢に圧力をかけているのかもしれませんが。本人にすらわからないことでしょうから、私の意見はあくまでも私の意見ですが、ジェンダーにおける特権や政治界における特権など、様々な特権が集まっているにも関わらず、それに関心を向けなかった一大人が信じられない発言をした。その大人を世界の代表とも言えるポストに置いている、そんな社会を含め、事実であることには変わりないのです。

特権のジレンマの正体

では、森会長(は極端すぎますが)のような人間にならないために、はどうしたら良いのでしょうか。それは私も知りたいというのが本音ですが、自分にある特権、自分にない特権を意識することによって、視野が広がり、特権がない人への配慮ができるようになると考えています。

しかし、特権を自覚することは難しいし、自分の加害性や排他性を自認せざるを得なくなる、というのも事実です。つまり、辛いのです。私はオンラインを中心とするNGOコミュニティを設立し、運営していますが、そこにアクセスできるのは一部の時間的余裕や機材を揃えられる金銭的余裕がある人なのです。前回のイベントには目の見えない方が参加してくださいましたが、その時私たちがワナワナしてしまったのは事実で、「属性によって理不尽を強いられることのない社会」を目指している私たちにとって、自分たちがそのような参加者に巡り会うまで、配慮をできていなかったと気づいた時は正直ショックで反省しました。これが特権のジレンマの正体なのです。

だからこそ、辛さを知っているからこそ、無理はしないで欲しいのですが、私が実際にやってきた「無理なく自分の特権目にを向ける方法」を書いてみたいと思います。私自身、自分の特権を全て認識している訳ではないと思うので、これが正解なのかは分かりませんが、実際にこの方法を自分で確立して以来、自分以外の人に対する考え方が広がった実感があります。

アタリマエを疑う。進学校で中高一貫私立に通う私にとっては、奨学金を受けるでもなく大学に進学することはアタリマエです。でも社会では3人に1人が大学に行っていない。そこから自分にとってのアタリマエがアタリマエでない人のことを②想像する、話を聞く。そして、初めて自分の特権を理解し、③特権を持っている身として、持ってない人に対して自分はどうできるのか考える。

これは優位に立っている自分が可哀想な人を助けてあげる、という発想ではなく、自分のさりげない言動に潜むチクチクを探すというイメージです

もちろん、先ほどイベントに目の見えない方が参加してくださって初めて、偶発的に気付けたというようなことも起こり得るのですが、上記の考え方は、手をつけやすいと思います。

「他者」という異文化とわかりあう

特権は誰もが持っていて、誰もが持っていないと書きましたが、つまり、特権は人それぞれです。みんな違うのですから、分かり合えなくて当然だと思います。それでも、自分の特権を認識し、ジレンマで辛くなりながらも向き合い、考える。その先に必ず自分自身の成長があると思うし、他者にも自分にも寛容に、優しくなれるのではないでしょうか。私はそう信じています。

多くの人が自分の特権に目を向け、理解はできなくても他者の立場を想像できるようになれば、今より少し、息がしやすい社会になると信じています。私も内省を繰り返し、向き合い続けたい。そんな抱負を抱えて、考えることを続けていきたいです。ここまで読んでくださった優しい皆さんが、無理せず、考えることを続けてくれれば、少しずつ、チクチクやトゲトゲが解けていくのではないでしょうか。