こんにちは😃
ジャパネクトのハリーです!
最近暑すぎて本当に辛いですね、、、
先週1週間地元の北海道に帰ってましたが本当に快適でした⭐️
北海道はご飯が美味しすぎるので、太っちゃいました、アスリートなのに、、、、本当に反省です泣
ただし、北海道は本当に最高なので皆さん是非一度はいらしてください🥰
では本題です!
読者のみなさん、今貴方は本当の意味で
『心の底から信じる』
ことが出来ますか?
前回の記事で、私たちが生きる目的について考えて頂きました。
答えのない問題。
しかし作られたもの全てに必ず目的があります。なので私は必ず生きる目的というものは存在すると信じています。
『信じる』ってなんでしょう?
そしてもし信じるものがあればそれは
『信じるものとして相応しい』対象
でしょうか?
今回も『太宰治』さんに登場していただきます。今回の名言は
「無垢なる信頼心は罪なりや」
これは太宰治の不朽の名作『人間失格』で主人公の大庭葉蔵の台詞です。
前回太宰治の生涯を書きましたね。
その生涯の要素のうちの一つに「道化」を挙げたのを覚えていますでしょうか?
その「道化」が今回の名言に密接に繋がっています。
太宰治も本当の意味で『信じるとは何か』についての解を見いだせていなかったのだと思います。
だからこそ他人の前で取り繕った自分、「道化」を演じていたのでしょう。
読んでいる方にもそういう似た経験ありませんでしょうか?
他人からの評価を気にしてしまって、人によく見られよう、よく見られようと背伸びをしてしまう経験などないでしょうか?
そしてそんな自分を客観視してしまった時に、「これは本当の自分ではない」「何をやってるんだろう」と虚無感に苛まれることはないでしょうか??
太宰治は幼少期からずっとそうだったのです。しかしそんな彼でも人を信じられる転機が訪れます。
主人公の大庭葉蔵は道化を演じて、人を信じることができず、その寂しさの拠り所を酒や女、薬に見出してました。
(正に太宰治の生涯そのもの。故に人間失格は自伝的小説と言われます)
あくる日遂に心から信じられる女性、ヨシ子に出会うのです。
その女性は容姿端麗でも経済的にも優れているわけではないですが、純粋に人を信じることができる「純真な信頼心」を持っていたのです。
大庭葉蔵(以下『葉蔵』で統一します)はそんなところに惹かれてヨシ子と結婚します。
暫くの生活は順調で幸せでしたが、ある日音を立てて崩れ落ちます。
ヨシ子は家に招き入れた男に犯されてしまいます。
しかも葉蔵はその現場を目撃してしまいます。
そして後になり、そうなった経緯をヨシ子に問いただすと、
「何もしないって言うから」
と言ったそうです。
その出来事は、ヨシ子の
『人を疑わない純真な心』
故に起きてしまったのです。
その時に葉蔵は思いました。
『無垢なる信頼心は罪なりや』
それから一点の曇りなく信じていたヨシ子の信頼心が汚れたことをきっかけにヨシ子の葉蔵に対する態度が急変しました。
そして葉蔵もその信頼心が汚れたこと酷く落ち込み薬で自殺を図ります。
結局未遂で終わりますが、薬で体が蝕まれ容姿も朽ち果ててしまいました。
私がここで言いたいのは「人を信じるな」と言うことではありません。
「人は本当に信じることに相応しいのであろうか、そしてそれを自分の生きる評価軸にすべきなのであろうか」
と言うことです。
人の性質を鑑みるに、人はあまりにも流動的で変動的です。しかも肉体があるが故にいつかは滅びます。永遠に生きることは不可能で、永遠に不変であることも不可能な存在であるのに、それを信じてそれを拠り所に生きることは、いつ崩れるか分からない崖の上で生きるようなものではないでしょうか。
葉蔵も遂に信じることができた女性にひどく信頼を寄せていたからこそ、打ち砕かれた時の衝撃、ダメージが大きかったのです。
本当に信じられるものは何なんだ。
なにを信じていいんだ。
そして何を信じて生きていけばいけばいいんだ。
信じることで報われることなんてあるのか?
むしろ信じることは罪なのか?
そういった課題を強烈に私たちに「人間失格」を用いて打ち付けました。
この作品は今も尚名作として残り売れ続けています。
本当に信じきれるものはなんでしょうか?
これはある種私たち日本人に向けられた大きな課題かもしれません。