お久しぶりです。
数日前に記事を書いてたのですが、下書き保存出来てなくて全部飛んだのでもう、失意の中で投げやりになりそうながら、でも我慢して書き直してます。
あ、念のため自己紹介すると株式会社カタルシスの創業者の一人のまさなりです。実は大学院生になりました。
しばらく見ない間に、今は修士一回生です。何を研究しているかというと、広く社会思想や経済思想なのですが、1番の関心にあるのは「疎外」という問題です。
「って何?」ってなる方が多いかもしれませんね。
これは、さまざまな解釈があるのですが、私は
「自分の人生の手綱が奪われること、主体性が奪われて生きることを強要されていること」
だと考えています。
いつも通り話が小難しそうになりそうなので、簡単な質問を一つすると
「服の値段のうち、材料費などにあたる原価は何%ぐらいだと思いますか?」
考えたこともないかもしれません。逆に、「これ、原価率いいからこの服買おう」みたいに普段考えてる人がいればちょっとビックリします笑
答えを言うと、もちろんファッションブランドによってバラバラなのですが、例えば某大衆向け衣料品店によれば70%ぐらい。一方、百貨店にあるようなハイブランドはと言うと20%ちょっとぐらいなんです。
えっ!?なんで50%も差があるの?って思われたことでしょう。70%は分かるけど、20%の方は残りなんなん?って話になりますよね。もちろんそこには、倉庫で管理するためのお金とかがあるんですが、その中で注目すべきは広告費。実は多いところは20%ぐらい広告やマーケティングにお金を使っていたりするのです。ここでお気づきの方もいると思いますが、原価と広告費があんまり変わらないこともあるってことです。
あれ、ちょっと不思議ですよね。原価は作るための材料として商品そもものを生産するために必要なのは分かり訳ですが、広告費は価値として何を産んでいるのでしょうか?
私たちは商品の物としての物資的な材料とそれを作るための人件費や設備費の他に、何にお金を払っているのでしょうか?
答えは、「記号」。
ある哲学者は、消費活動を「記号論的実践」といいました。これは、商品を消費する中で、ただ単にものの機能的な側面だけでなく、そのものが持つ意味を消費することで、自己表現していると言うのです。例えば、最近インスタ映えのスイーツとか流行ってますよね。多くの人はただケーキの美味しさを楽しむためだけでなく、おしゃれな格好して一緒に写真をインスタにあげるところまで含めて楽しんでいる訳です。つまり、ものが持つのはおいしさなど機能性という側面だけでなく、おしゃれな生活などという「記号」を持つという側面があるのです。
つまり、私たちは「記号」を消費する割合が増えてきた。
例えば、生きるための基本的なニーズが満たされ、ものが売れない時代において、人がものを欲しがるようにするには、この「記号」を作ることで、その「記号」を消費する生活が羨ましくなるように設計する。
では、さてこの「記号」は誰が作ってるんでしょうか?
そうです。これがブランディングや広告といった企業の努力の成果であり、広告費の成果なのです。
そう考えると、私たちがものを買う時、企業が形成したイメージをその値段に折り込み済みで商品にお金を払っているのです。
私はこれを知った時、どこか虚しい感じがしました。
私なら、記号は要らないからもっと安く売ってくれと思います笑
(例えば、無印良品とかはその反動として生まれたものかも知れないですね)
私たちは、もはや自分たちが本質的に求めているものだけを自覚的に買うことはできないのでしょうか?
そして、できるなら、その「記号」とやらを、もっと私たちが本当に必要とする方向に向けることはできないのかと。
この「記号」は企業によって形成される反面、私たちが自覚的になれるなら、自分たちで選びとってつけることもできるのかも知れないというということを同時に感じさせます。ここに可能性があるように感じます。
だから、私は今の経済活動に代わる、消費活動の仕方、新しい選択肢の提示のためのサービスを構想してます。
私たちが何を買って、何を次の世代に残すのか、経済活動をそれぞれの個人の主権に取り戻すため。
またサービスの詳しいことや
消費と対になる「生産については、じゃあどうするのか?」は、また改めて。
読んで頂きありがとうございます。