筋を通すってなんだ。


僕は一貫性のない人が嫌いです。薄っぺらな信念を誇示しいざとなった時に曲げる人が特に嫌いです。

僕にとって筋を貫くということは、それ自体が曲げられないポリシーの1つであるのです。

しかし、僕も人間ですのでそのポリシーは時として揺らぎます。

自分のポリシーと利得との衝突があったときです。

それは本当にピンチになった時やあからさまな誘惑が目の前にある場合によく現れます。例で言えば自身の汚職であったり、浮気しそうになるときですね。

そんな状況でポリシーを曲げないと断言できるかと言われると正直難しいです。自己保身やら欲望の充足に走る可能性は常に孕んでいるのが正直なところだと思います。

ただあなたがそこでポリシーを曲げるかどうか、筋を貫けるかどうかは以下の2点にポイントがあるのではという仮説があります。

今日の記事はこの2つの論点を持って帰ってもらい、自分はどうか、どうすれば筋が貫けそうか考えてもらうのが目的になります。

1点目、人生観に大きく左右される説。
そこで想定する人生観は2つ。

人生は個人の中で完結し良し悪し快不快で決めるとする派

はたまた、他人との関わりや営為こそ人生の価値を決めるという他人ありき派

このどちらのスタンスを取るかどうかで判断は変化しうるのではないかと。

個人派の中に2パターン
個人のポリシーを重視して利得を放棄するパターン
自分のポリシーを「柔軟に」変化させて納得させ利得を取りに行くパターン

他人ありき派で2パターン
他人からの信頼損失を恐れて利得を放棄しポリシーを守るパターン
自分しか事実を知らないと考えポリシーを捨て利得を得にいくパターン

こちらの仮説では思考と行動を組み合わせて人によって4パターンあると思っています。

2点目、ポリシーの質や価値の突き詰め具合の深さ加減に左右される説。

そもそも守ろうとしているポリシーが1分くらいで思いついたような、
もしくは誰かさんのパクリならすぐ消し飛びます。カッコつけて言うてるものならなおさら。

ポリシーは自分の経験から学びそこから発せられる自分だけの言葉で形成されるべきものではないかと思います。

ポリシーをあえて過酷な状況に置き、自分の言葉はどれほど「本物」か試してみる必要はあります。

例えば、
自分だけがポリシーを守った結果、他人が不当な利益を得る場合は?
被る損害が非常に大きいものである場合は??(積み上げたものが崩れ落ちる時とか)

そこでも残ればまあそれなりのものでしょう。本番にならないとなかなか分かりませんが

以上見てもらった通り、筋を貫くのは難しいです、脆弱です。その人の人生観によっても分岐します。

筋を貫かない人が嫌いと言いましたが、完全な悪ということではありません。ただ、僕は不合理を超えてポリシーを貫ける時にその人の人間の真価が現れると思います。

もしかすると我々にとって大事なのは、筋を貫くことではなく、貫ける筋を持つことなのかも知れません。

今回の話を参考に考えてみてもらえると嬉しいです。最後に僕がカイジの中で好きなセリフを置いて締め括りたいと思います。

「人は仮になど生きていないし、仮に死ぬこともできぬ。
問題は、その当然に気が付いているかどうか。真に覚醒しているかどうかだっ…!」利根川



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