「なぜ」に向き合う

この記事投稿を始めてよかったことは、自分の中にある「なぜ」への答えが少しずつ見えてきたことです。

正直なところ、私は「なぜ実行委員会に入ったのか」「なぜこれまで実行委員を続けているのか」、いまだによくわかっていません。1年生の夏合宿で先輩から聞かれた時、他の同級生は「高校の時から憧れていた」「法被を着たかった」と目を輝かせて語っていましたが、私には思いつく理由がなく、後ろめたさを感じた覚えがあります。もともとお茶大が第一志望ではなかった私は徽音祭に来たことがなく、徽音祭の読み方も法被の存在も知らない落ちこぼれの実行委員でした。

それから3年間、事あるごとになぜ続けてきたのか分からず、加えて「なぜ徽音祭をやるのか」「徽音祭の価値とは何か」という疑問まで生じ、迷い悩んできました。特に今年は、中止という選択肢があった中で、徽音祭を開催する意義や必要な熱意について常に考えてきました。

その中で、このPandoに記事を投稿することは、自分の中にある「徽音祭への想い」に向き合う機会になりました。

「私は、徽音祭が好きだ。」

Pandoの記事を書きながら、そして仲間の記事を読みながら、ふとこの想いに気づきました。加えて、中止と判断した他大学の実行委員の想いに触れる機会がある度に、その熱意に胸を打たれ、この自分の想いに気づくことがありました。今はまだ、多くの「なぜ」に明確な答えを出すことはできませんが、「好きだ」という想いがその答えにつながると信じて、徽音祭に関わる全ての時間を大切にしていきたいと思います。

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