【復習】ジェンダー単元
◎講義の内容
講義の中で特に印象に残った話題
【1】公平と平等
事前予習のMTG内でも、男女平等とはいったい何をさすのか、といった問いがでました。それに対する答えの1つが、この「公平」という考え方ではないかと思います。平等は字のごとく、誰に対しても同じであること。しかし、生物学的な要素や、これまでの歴史の中で生まれた決めつけや慣習などで、男女が同じスタートラインに着くまでに通る道に大きな差があるのだと思います。それが決して自己責任で済まされるものだけではないというところがポイントだと感じました。自分ではどうにもならないところを、社会の制度や仕組みによって「公平」にし、同じ苦労で同じスタートラインに立ったところから競争を始めていく。それが真の意味で「健全な競争」、「健全な社会」といえるのかもしれないと思います。「公平」な措置をとって「平等」にしていく。これが今後求められることであるように感じました。
【2】「誰」にとっての問題か
ジェンダー不平等は、個人でも、経済でも、政治でも、日本社会でも、地球全体でも、あらゆうる面においての問題であるということをひしひしと感じました。特に政治の面における不平等は顕著であるように感じました。講義の中で紹介があったような、男女平等に限りなく近い形になっている国もいくつかはありますが、データからみても世界全体で政治への女性の参入というのは依然として課題であることがわかりました。それらの課題は、個人の考え方や感覚の問題であると同時に、社会の制度や仕組みの問題でもあると思います。決してどちらか一方の面での議論で解決できるわけではないということが今回でよくわかったので、この「誰」にとってのという視点は、いずれの課題においても持ち続けなければならない問いだと感じました。
◎講義やリフレクションを受けて
講義を聞く中でいろいろなことを考えましたが、その中でも特に自分の中で大きな問いとして残った2つの視点をまとめたいと思います。
【1】意思と経済合理性
他の班の発表の中で、私たちが目指すべきは「自己選択ができる社会」だというような意見がありました。そのお話の中で出てきた「経済合理性」という言葉が、私は妙に心にひっかかりました。ジェンダー平等になることは、経済合理性にかなっているのでしょうか。本当にただの効率性だけを求めるのであれば、生物学的な要素から見て力もあり、生理や出産などで仕事から離れることもない男性に経済活動を任せた方がいいのではないかという理論になりかねないと思います。その点で言うと、公平になるように保障をしつつ、完全な男女平等にしていくことは、もしかしたら非効率的なのかもしれません。
もちろん、生物学的には一応女性とカテゴライズされる身としては、先天的に決められた要素によって社会参画が阻まれることは非常に遺憾です。しかし同時に、それが経済にとって真に生産性があることなのかというのは疑問です。自明の権利として、社会に参画していく権利が保障されてほしいと思う反面、その社会自体を豊かにしていくためには、ある程度経済合理性も考えなくてはならないと思います。効率か平等か。どちらをとることも難しく、またどちらかによることも是ではない視点であるように感じました。
例えば、全員が全員、自分の意思で自分の好きな職業に就くことができるとなった場合、果たしてそれは豊かな社会なのだろうかとも思います。おそらくほとんどの人がきつい仕事(3Kの仕事など)に自由意志でつきたいとは思わないのではないかと思います。ですが、社会が成り立っていくためには「やりたくなくてもやらなくてはならない仕事」が必要だと思います。ただ、その点を解決するのが一種AIのようなコンピュータなのかも知れないとも思いました。できるならばやりたくない仕事は人間でないものに任せて、真に自己選択が自由な社会にすることも、もしかしたらできるのかもしれないと感じました。
いずれにせよ、自由意志と経済合理性はジェンダーの面でも考えなければならない視点であるように感じました。自由意志の尊重という面にばかり視点が当たりがち(当てることも、もちろん一番に重要なことだと思いますが)ですが、自由意志が尊重される社会にするためには、経済的に余裕のある社会にする必要もあると思います。この点は自分の中で抜けていた視点だったので、ぜひこれからも考えていく1つの視点にしたいと思いました。
【2】「みんなの」問題
講義の最後の方で話題にあがった「みんなの生理」という運動も、個人的にはとても印象深かったです。活動自体の斬新さももちろんですが、それを「みんなの」問題として表明している点が非常に興味深く感じました。ご紹介の中でもあった通り、活動においては「みんなの」であることに、とてもこだわってらっしゃいました。自治体へお願いに行ったときに言われた言葉ランキングからもわかる通り、根本に当事者意識の欠如、悪意のない無理解があることが、問題に繋がっているのだと思います。その点において、「生理」という現象を、女性の内部だけにとどめるのではなく、全員で考えていかなければならないのだということがよくわかりました。
しかし、それと同時に感じたのが、これが本当に「みんなの」問題となり得るのかということです。例えば、生理をみんなの問題だとしても、最終的には、生理を経験することはないという点で、身体的に男性である人は本質的な意味での当事者にはなり得ないと思います。「みんなの」問題だからといって、生理の問題を主張する団体が男性ばかりだと、我々はどうしても違和感を感じざるを得ないと思います。そういった意味で、真に「みんなの」問題としていくためいにはどのような取り組みが必要なのだろうということを、講義がお終わった後もずっと悩み続けています。真の意味で当事者ではない人を、惹き付けて「自分事」にしてもらうためにはどのような働きかけが必要なのか。これは生理だけでなく、ジェンダーにおいても言えることだと思います。結局のところ、男性/女性というカテゴリを超えることができない以上、お互いがお互いの当事者となって、「みんなの」問題にしていくためにはどうしたらよいのか、という問いがずっと心に残り続けています。
この問いは私の卒論の中でも扱うつもりだったので、まさかここで同じ問いに出会うとは思ってもいませんでいした。私は卒論の中で、性的マイノリティの運動においてAllyという本質的に当事者でない人々が、なぜ運動の中で登場してきたのか、どういう役割を果たしているのかというのを考えていくつもりです。当事者とは何か。自分事にするとはなにか。これから半年ほど悩むテーマだと思います。もし同じようなことに関心をもってらっしゃる方がいればぜひお話ししたいです。