『意識と本質*』という本は、実にルービックキューブでした。
どういうことかと言うと、
ルービックキューブで色の面を一色に揃えるとき、
「あと、もう少しで緑の面がそろう!」とテンションがあがっても、
揃えるために動かしていくと、そろうまでもう少しだった緑の面が逆にバラバラに…。
そんな経験ないですか?
これと似た体験を『意識と本質』という本を読む中で、私は経験したのです。
例えば、「表層意識」と「本質」の関係性について書かれている箇所があるのですが、
『全く言いたいことが分からないレベル』から『表層意識の意味は理解できるレベル』になっても、
次にくる「本質」の概念が難しすぎて、納得できたはずの「表層意識」の概念がまた分からなくなる。
このような紆余曲折が、ルービックキューブの面を揃える過程と似てるなと、感じました。
しかし、言葉の意味を理解するだけで疲れてしまう『意識と本質』の中でも、ありました。
\\\唯一共感できた箇所が!///
本日は、それについてご紹介します!
共感できた箇所とは、「人間のお喋りな面について」です。
『意識と本質』によると、
「禅の立場からすると、人間は無駄なことをしゃべりすぎる動物である」とのことでした。(p.407・一部省略)
この箇所には、私も共感しました。
私自身、喋りすぎたことで、後悔した経験はあるためです。
そこで、以下は
「『人間のお喋りな面』において宗教がどう働きかけているのか」についての私の考えです。
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人間は喋りすぎる側面がある、これは事実です。
そこで、『宗教』は、「人の口と心」にブレーキをかけて、法に触れてしまうことや、その宗教が大切にしている価値観に背くそうなことをしないようにする働きがあると思います。
例えば、ついつい話過ぎることで、
・信頼を失ったり、
・時間を無駄にしたりしてしまうこと…ありますよね。
そこで、ある宗教を信じることによって、そのようなことをするのを防げる可能性があると思います。
一方で、ある宗教を愛しすぎることで、「愛」が「暴力」に豹変し、 逆に法に触れることをしてしまうケースもあると考えてます。
しかし、私自身、あるキリスト教の言葉によって自分の危険な行動を抑止することができました。
私は父親からDVを受けたことで、彼に対しての「恨み」で頭が爆発しそうなとき、このようなことを考えたことがあります。
「(現在、私は一人暮らしであるため)実家に行って、窓ガラスを割ってやろうか…野球バットを持ってあいつの頭をかっ飛ばしてやろうか…父親の部屋にあるものを荒らしてやろうか…」など、本当にしてしまうと私が『加害者』になってしまうことを、想像してました。
でも、ある言葉を思い出すことで、私はそれらをせずに済みました。
それは「決して自分で復讐してはいけません。復讐は神に任せなさい。」という聖書の一句です。(ローマ人への手紙 12:19)
復讐したい気持ちはあるけど、神様のタイミングでいずれ父親は復讐をくらうから、私は手をつけるまい。
と、一時的に犯罪から身と心を離すことができました。
よって、『宗教』は、「人の口と心」にブレーキをかけて、
法に触れてしまうことや、その宗教が大切にしている価値観に背くそうなことを
しないようにする働きがあると思うのです。
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みなさんは、『人間のお喋りな面』において宗教は、どう働きかけていると思いますか。
ぜひ、お聞かせください!
*『意識と本質 精神的東洋を索めて』 - 井筒俊彦 著
ご自身の経験の部分でものすごく大変な思いをされたのだと感じました。
神様はみているということがこのことからわかりますね!
あけましておめでとうございます!!!
今年もPandoをよろしくお願いいたします!!!
つい話してしまうこと、私もよくありますね。それが故に話し手のことをよく聞くことができずに損してしまったなと思うことあります。
人間関係でも、悪に対して悪で対抗しても何も良いことが起きないのが本質だと思います。
だからこそ、私も「自分が変わることで相手を変えてやる」という意識で行動しています。