地元の小売店の今と将来のおはなし

小学校の頃に、制服や指定シューズを買ってきたあのお店、みなさん覚えていますか。
薄暗い店内に、くじ引きのスーパーボール、いつから置かれているのかわからない袋菓子、大きな声をかけるとのっしりと出てくるおばあさん。突き放されているようで受け入れられているような、そんな不思議な地元のお店がわたしは大好きです。

話は変わって、世間はグローバル化の一途をたどっています。SNSは爆発的な普及を見せ、ユーザーの超若年化が社会問題として取り上げられるほどです。かくいうわたしもSNSユーザーなのですが、先日少々心にひっかかるつぶやき*1を見かけました。「公立の小中学校で必要な物を地元の小売店でのみ売るの辞めて欲しい。よそで気持ちよく買わせてほしい(一部抜粋)」というものです。これを見たとき、わたしは息を吞みました。過去の美化もあるでしょうが、わたしの奥で大切に光り輝いていた「地元の小売店」という思い出をがしゃーんと砕かれたような、そんな気がしました。

たしかに、このつぶやきの主が言うように、6年または3年間着続ける制服や運動着の試着ができなかったり、開店時間がわからなかったり、道が狭くて行きにくかったり、この時世に反して現金払いのみだったり、怒りたくなる気持ちもわからなくはないです。そして、
これに対して、地域側のこれは地元の産業を延命するためだという言い分も十分に納得できます。

さあ、困りました。これはどうすればいいのでしょうか。

どうするかを話す前に、いったん、つぶやき主をはじめとする消費者の心理を考えてみましょう。昨今は、前述の通り、グローバルに情報が飛び交っています。わたしは、ここに今回の歪みの原因が潜んでいると考えているのです。消費者は、合理的な選択のもとによりよいものを買い求めます。つまり、「他」よりもいいものを買い求めるのです。そして、現在、グローバル化によりその「他」が上振れしているとわたしは思うのです。

下の図を見てください。現実世界には知ってる情報と知らない情報が存在します。そして情報には優劣(ここでは情報の持つ価値の高さ低さ)が存在します。例えば、きらきらな女子大学生にはおしゃれなカフェの情報は価値が高いけれど、競馬や麻雀の情報はさほど価値がないといったようなイメージです、個人差はあれどね。一般にSNSには、「自分の興味のある」「みんなが高評価している」「流行っている」こんな情報ばかりが流れています。図の左側のピラミッドの点線の部分ですね。そして、これを見た人々の世界は優れた情報で満たされていきます。これが右側のピラミッドの状態です。


先ほど、消費者は、合理的な選択をもとに、「他」よりいいものを買い求めるといいました。図にあるような認知世界の変化は、この「他」の水準をぐんと高くしてしまうのです。その結果、今までの世界では相対的に優だったものが、劣になってしまう。今までは疑問にも思われてこなかった地元の小売店が非難の対象へなってしまうのです。逆に言えば、余力のある企業は劣にならないようにどんどん巨大化、均質化していくのです。

さあ、現代の消費者の心理を見たところで、今後、地元の小売店はどう生きていけばいいのか考えてみます。先ほど話したSNSによる認知世界の変化にともない、現代日本ではノイズや遊びが避けられるようなそんな風潮があるとも感じています。均質化はその最たる例です。好き嫌いがわかれるものは避ける、無難をいく、一億総中流を自ら求めるかのようなこの動きに地元の小売店は逆行しています。コンビニのおにぎりは求められる一方、おばあちゃんがにぎったおにぎりは嫌悪される、そんな世界です。まあ、知らないおばあちゃんのおにぎりを食べろと言われたらほとんどの人は食べないでしょう。でも、例えば、そのおばあちゃんがおにぎりを作る様子を動画で見て、おばあちゃんとビデオ通話をつないだ状態ではどうでしょう?みんな食べるんじゃないですかね。罪悪感とかはあるだろうけど、顔が見える、過程が知れれば、つまりノイズがノイズである由縁さえわかれば、それは魅力になりえると、そう思うのです。

それを地元の小売店に昇華させると、どうなるでしょうか。わたしなりの答えは、「もっと地域と、地域の人々とかかわりを持て!!」です。登下校の時間に店先で挨拶する、季節のお祭りを開く、学校の地域探検に積極的になるなどなど、その地域の「日常」になる。地元の小売店のノイズをわかってもらう、あばたもえくぼと言いますからね、このような動きがこれから大事になっていくんじゃないかなって思います。そして、その一翼をわたしが担っていければしあわせですね。

*1:https://x.com/caerusienne/status/1757204071671607674?s=61


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