筆者信仰の落とし穴 ~読解の本質~

 こんにちは、学習サロンPompadourの永田です。今回は友人と話していて気づいたことを書いていきたいと思います。テーマは”高校と大学における読書の違い”です。

 ある日友人が、私にこんな話をしてきました。(少々長く難解ですが、ご容赦を)

「宇宙に地球っていう生命が誕生したのを偶然と考える人と必然と考える人がいるでしょ?偶然だと考える人は、ビッグバンから始まって様々な出来事(ハビタブルゾーンに地球があったこと、そこにジャイアントインパクトが起こりマグマオーシャンが形成されたことなど)が重なり合って今の地球環境が整ったのだから、一つ一つの確率が奇跡的に当たったと考える、つまり科学的思考の下に判断している。逆に必然だと考える人は、例えば宝くじが当たったのを神様が今までの自分を見てくれてたんだ、って考える人と同じように、何かしら神(運命)ともいえる存在を仮定して、地球という環境を整えてくれたと考えている、つまり宗教的思考の下に判断しているんだって。」
(ちなみに読んでいた本は、更科功の「宇宙からいかにヒトは生まれたか」

 これを聞いた時、私の中には一つの明確な反論があった。かねてより私は”地球誕生の遇必性”というテーマに対して、理論的に考えて「必然である」という自分なりの答えを持っていた。加えて、逆にこの話を聞いたときに私としては地球の誕生を奇跡だと考えることこそ神の存在を必要とする宗教的考え方だと感じたのだ。(ここでは科学的思考と宗教的思考の優劣の話をしているのではなく、あくまで地球誕生の遇必性というテーマにおいてどちらの考えがどちらに近いかに焦点を当てたものである)


その旨の反論を根拠と共に友人に話すと、友人は考え込んでしまった。後から聞くと、「学術的な文献の正しさが分からなくなってしまった。」とのことだった。


 私はここに、”高校と大学における読書の違い”の本質があるように感じた。


筆者信仰
 高校で受験国語(センター試験でも二次試験でも)を学んだ人ならば、このように言われたことがあるのではないだろうか。

「国語の試験を解くときにあなたの考えは必要ない。答えは本文のなかにある。」

 
 これは、きわめて正しい事実である。大学入試の国語の回答において個々人の感情は考慮されず、筆者(または作問者)の述べたいことを忖度し、理解し、その通りに記述する。その能力があの試験では問われている。これはある種、『筆者信仰』という考え方であり、受験においては必須の考え方だといってよい。では、大学においてもそうだろうか

 大学で読む学術的な本においてその整合性というのは定かではなく、それは最前線の分野になればなるほど不確定である。大学の講義で学ぶことですら一仮説でしかない場合が多い。このような環境の中では、先述の筆者信仰は思考の幅を狭めてしまいかねない


読解の本質
 大学以上の場で求められている能力は、あらかじめ与えられている答えを見つけることではなく誰も答えを知らない問題に自分なりの最適解となる仮説を生み出すことである。筆者信仰をしていては、筆者の考えにうなずくだけのイエスマンとなる。筆者の考えを読み解き、理解する努力は必要である。しかしその後はその答えを盲信するのではなく、自分なりに検討し、批判的に思考する。その上で筆者の考えを正しいとするならば、それはあなた自身の考えとなる。


 つまり、私がこの記事を通して伝えたいことは、
高校までの読解法に加えて、大学ではそこにもうひと段階加えた思考にステップアップする必要がある
ということだ。



 

ここまで読んだ皆さんは、この記事をどのように感じただろう。批判か、肯定か、あるいは無反応か。

くれぐれも、本記事を盲信することだけはしないよう心掛けていただきたい。

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