メディアについてふれたところで、今度はメディアが社会、とくに国家に与える影響について見ていこうと思います。ベネディクト・アンダーソンは近代の国民国家を形成したのは2つのメディア、つまり小説と新聞であると考えました。国民、つまり国の主権者としての民という存在は近代になってはじめて登場したわけですが、彼によると国民というのは一般的な共同体の目に見えるつながりを超えた広がりをもつ、いわば「想像の共同体」であると。ではその「想像の共同体」という概念がどのように登場したかを考えると、近代に登場した新聞と小説がメディアとしてもつ力が現れていくというわけなんです。
新聞というメディアを例に取ると、新聞に記される日付は進行する均質な時間を提示しています。つまり、新聞の読者は誰もが同じ日に同じ新聞を買っているわけなんです。これはもちろん新聞を手に取る個々の読者に目に見えている事実ではないんですが、目に見えない世界のあらゆる情報が新聞に載り、毎日自分の地域に運ばれてくることで、新聞を同時に消費する共同体への確信が生じました。
これが国民国家を形成する前提条件になっているわけです。国民というその構成員の誰にも全容を把握することが不可能な存在は、それを結びつける情報媒体によって本来知らないはずの遠い場所の出来事を知る仕組みがないと、イメージすることが困難なものです。新聞もそうだし、小説も多くの読者に読まれることで人と人の架け橋となり国民という存在の成立に関与していたことが言えると思います。
ではそのような小説と新聞というメディアの時代を経て、近代以降は新しいメディアが次々と生まれてきました。ラジオ、テレビ、そして現代ではインターネットの時代ですね。たとえばSNSを例に取ると、TwitterやFacebookといったサイトの投稿にはそれが投稿された時刻が表示されているわけなんですが、その時刻がなぜそこにあるのかについて考えていきましょう。
小説や新聞と行ったメディアでももちろんそれが発行された日付というのが必ず記載されているし、それが両者の大きな構成要素になるのですが、一方でその2つの内容、小説のストーリーであったり新聞の記事であったりの内容面というのもかなり重要ですよね。というよりそれが価値のある中身でなければ、わざわざお金を出して小説や新聞を読もうという人は現れません。ところがSNSでは、はっきり言って中身は大したことのない情報も多い、というよりそういう情報ばっかりです。それどころか中にはフェイクニュースなんていう嘘情報がたくさんあるし、それに対してSNSのユーザーも日常的にキレるようなことはなく、ああまたやっているよというような、なんだか諦めにも似た気分で使っていますよね。こういう違いはどこで起きたんでしょうか。SNSの投稿は無料で読めるからだといえばそれはそうなのですが、それよりももっと重要な事実にこの記事を読んでいるみなさんなら気づくと思います。それは「時間」です。
マクルーハンはメディアはそれが伝える内容ではなくメディアの形式であると述べました。SNSについても、そこで表示される情報において重要なのは、その内容なんかでは全くなく、それに表示される日付です。私はSNSとして主にTwitterを利用していますが、Twitterでは拡散性の高いツイートはバズツイと呼ばれて投稿された日のうちにまたたく間にリツイートで拡散される一方、そのツイートの内容も含めてほとんどのツイートはツイートされた日から3日もすれば埋もれ、それを目にしたほとんどのユーザーもその内容を忘れてしまっています。小説や新聞と対比してみると、小説では文豪と呼ばれている書き手の存在が重要だったり、新聞ではそれを出版する新聞社の信頼性が重要になっていました。つまりこの両者は多分に権威を重視したメディアであったといえます。一方でSNSで重要なのは拡散性です。
この違いからこんなことを指摘することはできないでしょうか。人々はもう、メディアに権威を求めていないのだと。メディアはもはや情報を伝える存在であればよく、それの伝える内容がどのくらい信頼できるかはどうでもよいのだと。これは人々の価値観の変容としても言い表されると思います。国民国家が成立した19世紀において、人々にとって外の世界は全く未知のものであり、外から流れ込んでくる情報には懐疑的でした。そこではおそらく、なるだけ信頼性の高い情報が求められていたのではないでしょうか。しかし社会がオープンとなり、国内だけではなく世界のあらゆる情報が手に入るようになった現在、もはや情報の客観的な信頼性は重視されておらず、自分の選球眼、情報を正しいと思える自分の存在さえあればネットサーフィンは可能なわけです。
すると、国民国家、これは小説や新聞にその成立を支えられているし、国民国家自体も権威が重視されている存在なんですが、これの権威というのも低下しないでしょうか。もはや人々は情報の基盤としてのメディアと同様、生活の基盤としての国家に対してもその権威というものを当てにしていないのではないかということが推測されるわけです。このような状態では国家というものの存在が現在のまま続くのでしょうか。情報社会の発展がさらに続けば2、30年後にはかなりあやしいような気さえしてきますが、それはあなたの想像と、これからわたしを待ち受ける未来そのものに委ねることにしましょう。
ということで、学問系の話に見せかけたただのエッセイでした。しかしこの記事を読んだみなさんの知的好奇心をそそる内容になっていればぼくは嬉しいです。それではまた。
出典:ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」増補版、白石さや・白石隆訳、NTT出版、1997年