愛と名付けるには罪深い

 個人で販売している自作小説「青春被害者の会 議事録 第二回「被害者達」」に収録されている小説です。​https://maitakemaitakem.booth.pm/​​​





 創作家として一番重い罪は盗作で、なら人間として一番重い罪は嘘だと思う。
 だから、その両方を犯した私の罰は生半可なものでは済まないだろう。二回死ぬくらいでやっと贖われるだろうか。
 一方で、その両方を犯さなかった人間が天国に行けるかと言われるとそれも分からない。私の母は真っ当な創作家で正直な人間だったが、その死に際はとても幸せそうなものには見えなかった。
「全てを創作にしなさい。創作以上に価値のあるものなんてこの世のどこにも無い」
 小説家になり切れなかった小説家、それが私の母だ。どこにも出さない、誰にも読ませない作品を延々と書き続けていた。私が高校二年生の冬に病死するまで、どこまでも孤独な創作家だった。
 母はどうあっても私を創作家にしたいらしかった。独学で身に付けた小説の書き方を端から端まで全て教えてくれた。物語を作る事は嫌いではなかったし、それを苦に思った事はない。だから、創作家としての彼女は好きだった。
 でも一方で、親として与えるべきものを貰った記憶が無いのも事実だ。服や化粧品の選び方、野菜を炒める順番、涙を止める方法。褒められた事も叱られた事も一度だって無かった。だから私は、自分の事も他人の事も、世界の事も、何も知らない人間に育った。そういう面で、私は母が憎かった。
 ベッドの上で瞼を開ける事すらままならないまま死のうとしていた時だって、彼女は信じられないくらいの握力で私の手首を握ってこう言った。
「私の全てを創作にしなさい。人が死ぬとはどういう事か、よく見ていなさい」
 母の手からゆっくりと力が抜け、圧迫されていた手首に生温かい血液が流れる感覚を覚えながら、私は至って冷静だった。人として興味のない人間の死に、何の意味があるんだ。愛されなかった私は愛し方も分からなかった。愛せない人間の死が、強い創作に繋がるとは到底思えなかった。
 彼女が死んで、人間らしい生き方みたいなものを知らなかった私は途方にくれた。これからどうやって生きていけばいい。誰に生き方の教えを乞えばいい。これ以上はもう、創作家としてすら学ぶ方法がない。創作家として死んで逃げた母を初めて憎んだ瞬間だった。
 それから数日後、母の遺品を整理していた私は数々の書類を見付けた。入院案内、薬の説明文書、診断書。これもまた、私の創作の種になるならと彼女が取っておいたものだ。話が広がって書類の改竄方法という法律の犯し方まで教えてもらった事もある。
 舌打ちをして紙を引き裂こうとする寸前、私はふと思った。
 私は、創作の方法しか知らない。生き方を知らない。なら、生き方そのものを創作にしてしまえばいい。人生を、作品にすればいい。
 母の使っていた書斎を見渡す。ここには、彼女が生涯を費やして書いた小説が人の数ほどある。全部全部、創作であると同時に人生のサンプルだ。次に私に何かを教えてくれるのは、紙に綴られた言葉達だ。
「私の全てを創作にしなさい」
 やってやる。あんたの全部を食い散らかして、私という一つの物語に集約してやる。盗作も嘘も、両方の罪を犯して生きてやる。
 私という人間を一度殺す。そして明日から、やっと一ページ目にペンを落とした私になれるのだ。
 高校三年生になろうとしていた春先。虚崎夏澄(きょうさきかすみ)という私が、一度目の死を迎えた。
 
*  *  *  *  *
 
 虚崎夏澄。高校三年生の十八歳。耽美主義、または創作至上主義。
 小説を書く為なら何事も厭わない。それ以外になにもいらない。全てを犠牲にする。全てを投げ打つ。全てを、小説という概念に捧げる。
 母の小説の登場人物を平均化した時、漠然とこんな人間が出来上がった。まあ、母の人間性を考えると自然な事のようにも思える。ともかく、転校した瞬間から、虚崎夏澄はそういう人間だった。
 そう、高校三年生になろうというタイミングで私は転校した。転校に必要な手続きの方法も母から学んだ事があったから、それを利用した。新しい私を生かすなら、新しい環境へと行く必要があると思った。虚崎夏澄という人間を知る人間が、誰もいない場所へと。私が死ぬとはそういう事だ。
 高校生活一日目。私は誰もいない文芸部へ入部届を提出すると同時に、母が書いた一編の小説をコンクールへと応募した。言わずもがな、盗作以外の何物でもない。でも、それ以外に虚崎夏澄を完成させる方法は無かった。私はもう、私ではないのだから。完璧に自我と自意識を殺したのだから。強いてもう一つ加えるなら、誰も読んだ事のない母の小説が、他人にどう受け取られるのかを少し知りたかったのもある。
 その次にやった事は、環境の構築だった。私しか使わない文芸部の部室を、誰がどう見ても私の部屋と思わせる場所にする必要があった。具体的には、母の書いた小説に出てくるネタや道具を、部室に揃えた。
 母の小説に登場するものならなんでもよかった。ボロボロのフライパンや穴の空いたビニールプール、どう見ても狂っている置時計、小綺麗な麦わら帽子と少し値段の張る香水。そういうものを廃材置き場から持って来たり、あるいは自費で購入したり。一見すれば本当に物置にしか見えないだろう。だけど、全ては私にとって必要なものだった。
 一つ厄介だったのは、創作至上主義を銘打って置きながら、母の書く女子高校生はそれなりに容姿が整っている場合が多かった事だった。私自身を客観視した時、「美人」とか「可愛い」とか、そういうところにカテゴリーされない事くらいは自分でも分かった。だから、極端な食事制限と手探りの化粧でそれを何とかごまかした。香水を振るようにした。髪を短くして茶髪に染めた。すると、転校当初には誰も話しかけてこなかった私に、クラスの男子がたまに声をかける事が増えた。私はそれに、「一見すると愛想はいいが興味がない」という自分を創って応えた。それが虚崎夏澄としても義務だった。
 桜の花弁が散り、葉桜へと変貌する五月。私の基盤は完成した。どこか病弱そうな美人。儚げな人間。でも、踏み込めば見えてくる、怖いくらいの小説への忠誠心。それを証明するかのような部室の雑多具合。散らばった書類や積み重なった小説達。誰が気にしているわけでもないのに、私は「私」を完璧に創り上げた。
 
 その日は、夏のような青空を塗り広げた五月の中旬だった。私は廃材置き場から部室へと、細長い姿見の鏡を運んでいた。これももちろん、虚崎夏澄を構築させるものの一つだ。とある小説に、太陽の光の反射を見て過去に戻るという設定のものがある。実際は本当に過去に戻るのではなくただの追体験だったりするのだが、そこら辺はどうでもいい。とにかく、その小説を私が書いたのだと思わせる説得力が必要と考えた。
 日焼けをしたくない、というか創り上げる虚崎夏澄の外見上日焼けできない私は、校舎を出る時は麦わら帽子を被っている。首元を伝う汗が鬱陶しくてしょうがない。虚崎夏澄になるという事は面倒くさいなと、鏡を抱えながら真夏のような気温に苛立っていた。
 校舎に入ろうとした時、正面から一人の男子生徒がすれ違おうとこちらに向かってきた。身長が高く、目にかからないくらいの黒い髪。不思議だったのは、こんな暑さにもかかわらず学ランを着込んでいた事だった。彼は私と目を合わせ、そしてすぐに逸らした。
 私には分かった。私とすれ違うまでの僅か数メートルで、私を手伝うべきかどうかを迷っていた事を。分かりやすい表情と目をしていた。
「あの」
 低い声だった。私は振り返ろうとして、でも鏡をあちこちぶつけそうだったから首だけを頑張って振り向かせた。頭一つ分高い位置にある顔が、視界の端に入る。
「手伝いましょうか」
 私はそれに少し迷った。こんな時、虚崎夏澄はどうするべきだろう。
 根本的に人に興味がない。興味があるのは小説だけ。でも、必要と思えばそうするべきだ。華奢な私は、ここで彼の手を借りるべきだ。
「じゃあ、お願いします」
 明るく、受け入れやすい声色と顔色を創る。彼は何も言わず、姿見の端を持ってくれた。彼が高い位置で持つせいで、一人で持つより余計に重くなったような気がする。それにもまた見当違いに苛立っていた。
 一階廊下の奥にある部室へと辿り着く。建付けの悪い扉を開け、二人で部室へと入る。「ここに」と言って、部室の隅に姿見を置いた。
「ありがとうございました。助かりました」
 麦わら帽子を取って、頭を下げる。彼は口から何も発さず、手振りで「いえいえ」と言いたげにした。
 彼は部室を見渡し、少し眉を寄せた。なんだこの汚い教室は、とでも思ったのかもしれない。私は困惑の混じった表情を創り、彼の顔を見ていた。
「もしかしてここ、文芸部ですか」
 文字通りに私を見下しながら、彼が訊ねる。私は彼の瞳を見つめながら少し頷いた。すると彼は逆に目を逸らした。どういう意味でも人間を人間として見ないのが私だった。
 彼は少し考えるような表情を見せた後、ポケットから八つ折り程にした一枚の紙を取り出す。それを広げて、私に見せた。
「あー……」
 さも興味の無さげな声で私は呟く。結果になんか興味が無いのが私という人間だったから。
 そこにはこの学校の名前、私の名前、母の書いた小説のタイトルがある。そう、転校初日に出したコンクールの結果だ。母の小説には「最優秀賞」という仰々しい冠が被されていた。
「知らなかったんですか?」
 私の反応に、彼は少し驚いたように言った。私は「まあ、はい」と素気なく答えた。
「自分でコンクールに出したのに、気にならないんですか」
「コンクールに出したのは、文芸部としての体裁を守る為でしかなかったので。だから結果はどうでもいいというか」
 少し苦笑いをしながら、麦わら帽子を机に置く。それに彼は何も言わず、その場に突っ立っていた。何をしているんだろう。早く出て行って欲しい。
 場違いに置かれた机の上にパソコンがある。椅子に座り、パソコンを立ち上げてパスワードを入れたところで、「あの」と彼が声を上げた。
「俺、文芸部入ってもいいですか」
 パソコンから顔を上げる。彼が黒い瞳でこちらを見ている。あまりに脈絡の無い言葉に、私は「はい?」と言った。
「文芸部に入ってもいいですか」
 私の「はい?」を聞き取れなかったと解釈した彼が言った。
「どうしてです?」
「俺、この小説読んだんです」
 コンクールの結果が書かれた紙を見せつけて言う。私は何を言うべきか分からず、ただ「はあ」とまた興味の無い声で言うしかなかった。
「あの、この小説本当に凄いと思って、それで、僕も先輩みたいになりたいって思って」
 しどろもどろに彼が言った。そこでようやく、彼が後輩なのだと知った。
「私みたいな小説を書きたいって事、ですか?」
 抜けきらない敬語で訊ねてみる。
「もちろんそれもそうですけど、先輩みたいな人間になりたいです」
「……どういう意味?」
「いや、俺もあんま分かってないですけど」
 そう言って部室の後方を眺める。そこには、私が揃えた様々な道具が倉庫のように積み重なっている。姿見もそこに加わった。
「小説に全てを捧げられる人間、傍から見れば突飛過ぎる行動をする人間。でも、そこには確かに自分の信念がある人間。そんな、先輩みたいな人になってみたいです」
 そこで私は「それだけ聴いたらただの変人じゃん」と軽く笑ってみた。彼もそれに「多分そうです」と愛想笑いを浮かべた。
「変人になりたいんだと思います。誰にも読めないというか、誰にも理解されない人間に」
 数分前に会った彼にここまで言われるのだから、虚崎夏澄のブランディングは順調なのだなと感じた。
 彼が見ているのは、彼が憧れているのは、どこまでも創られた私だ。誰も本当の「私」なんて知らない。一度殺したのだから当たり前だ。
 そこで私は、ふと思った。彼は、私の物語に必要な役回りになってくれるのでは、と。
 前を向いてどこまでも小説に身を捧げる私と、そんな私に憧れて私の背中を追い続ける愚直な後輩。これが物語でなくて一体なんなのだろう。
「俺は、貴女になりたい」
 ああ、こんなにも傲慢で美しい告白があるだろうか。
 彼はこの物語に必要だ。彼は虚崎夏澄に必要だ。彼を、利用するべきだ。
「私、三年の虚崎夏澄」
 椅子から立ち上がり、彼の顔を見つめながら言う。彼はすぐに目を逸らした。あんな告白を平気でするくせに、私の目を見つめ返すのはできないらしい。
「一年の笹木怜雄(ささきれお)です。よろしくお願いします」
 虚崎夏澄という物語に、彼の名前が記される。
 
*  *  *  *  *
 
 断続的に降り続けた雨は葉桜を打ち続け、それを受けて緑は一層に生い茂っている。そうやって梅雨が過ぎ去る頃、私達の元にも夏がやってきた。
 とある日の放課後。私は部室の椅子に一人で座っている。笹木君はいつも少しだけ遅い。彼には何か放浪癖のようなものがあって、まっすぐに部室へやって来る事は稀だ。
 机の上で開かれた雑誌には、太陽光が差して白く光っている。でも、「最優秀賞」という文字列だけは妙にはっきり捉える事ができた。言い様も無く、目の前に罪をぶら提げられている感覚になる。
 私はひと月に一度、母の小説をコンクールに提出する事を義務付けた。四月から始まり五回、一度も賞を逃した事はない。それでいい。それが私だ。それに、当たり前のような顔をしてなんでもないように振る舞うのが私だ。
 今回冊子に載せられた小説は、愛という概念についての物語だ。誰も愛してこなかった人間が書く愛の物語なんて、何の価値も意味も無い。あまりにつまらない。それでも、結果はある。小説なんて大したものじゃないなと笑いすら込み上げてくる。
 冊子を照らす光の先を目で辿る。直射日光と思っていた光は、この前持ってきた鏡が陽光を反射させているせいだった。何か布のような物を被せた方がいいかもしれない。
 そう言えば、鏡をキーアイテムにした小説をまだ形にまとめていない。あれをいつコンクールに出そうか。
 こうやって次の小説の事を考える度、私は少し怖くなる。もし、賞を取れなかったらどうなるか。虚崎夏澄なら、賞を逃した時どうする? 悔しがる? 泣く? それともやっぱり、興味は無い? いや、そもそも虚崎夏澄が賞を逃すなんて事、あってはならないのだ。それだけは譲れないものだ。
「……んぱい」
 万が一、そんな時が来たら。それは多分、虚崎夏澄が死ぬ瞬間だ。もうどこにも行けない。あるいは、どこか遠くで死ぬべきだ。そのくらい、虚崎夏澄は絶対なのだ。
「先輩」
 目の前から聞こえた声に少し驚く。そして、それを誇張する為に「びっくりした」とわざとらしく目を見開いた。
「先輩、どうしたんですか? 心ここに在らずって感じでしたよ」
「いや、なんでもない……よ」
「無理やり作ったような笑顔」を創って応える。あまり人に踏み込まない笹木君は、それ以上何も訊かない。少しだけ眉をひそめたが、すぐに「あ」とスマホを取り出して操作した。
「そういえば前言ってた新譜、よかったら、一緒に見に行きません? 俺週末空いてますし——」
 そう言いながらスマホの画面を見せるのと、彼が机の上に広がっていた冊子の存在に気が付くのはほぼ同時だった。スマホの画面には、最近彼と私が気になっているアーティストのアー写が映し出されている。
「これ、八月分のコンクールの結果ですか」
「そうそう。私もさっき見た」
「結果は……、なんて、訊くまでもないですかね」
 彼の言葉に、私は破顔して無言という形で肯定した。それを見た彼は、どこか恍惚とした表情でスマホの画面を落とす。
「やっぱり、先輩って凄いですね」
「そうかな」
「そうですよ。作品を出す度に賞を取って、それを自慢げにひけらかさない。それどころか、それがもう当たり前の事になってる」
 彼の言葉を聴き、私は安堵していた。彼の中に、私は正しく在る。それが確認できた。
 同時に、彼に訊きたくなった。「もしも、私が賞を取らなかったらどう思う?」と。でも、一瞬頭に過っただけで口には出さない。彼の知る私はそんな事は訊かないだろうから。
 話題を逸らすように、私は「もっと凄い事教えようか」とほくそ笑む。笹木君は「なんですか」とまた眉間に皺を寄せた。
「笹木君が書いた作品、優秀賞に選ばれてたよ」
 その言葉に、ワンテンポ遅れて彼は「は?」と声を漏らす。私はそれに少し笑った。
 雑誌の違うページを開き、彼が文字を読める方向に向きを変える。そして、「笹木怜雄」という文字列を指差した。
「おめでとう。初めての賞だね。一年生のうちから賞を取れるのは凄いよ」
 彼はしばらく、信じられないような目で自分の名前を凝視していた。ふと、太陽の位置がズレて鏡に反射しなくなったなと、私がそんな事を思った時にやっと「マジですか」と呟いた。
「どう? 嬉しい?」
「……いや、そりゃあ嬉しい気持ちはありますけど、でもなんか」
 彼はそこで言葉を止める。私は「なに?」と首を傾げた。
「でも、先輩はもっと先にいます。ずっと僕の先にいて欲しいのに、並びたいって気持ちもある。自己矛盾もいいところですよね」
 彼はどこか諦めたように、あるいは寂しいように言った。
「だって、笹木君はまだ一年生だもん。そんなに生き急がなくていいよ」
「僕もそう思います。でもやっぱり、どうしても僕は先輩になりたいんです。なれないかもしれないけど、でも、なりたい。先輩みたいな人間に」
 強い瞳でそう語る彼が見ているのは、私であって私ではない。
 私らしく振る舞う為、誇張して「びっくりした」とわざとらしく目を見開く事とか、何かを隠して秘密めいた私を演じる為に「無理やり作ったような笑顔」を創って応える事とか、興味も無いアーティストを気にして彼との共通点を創る事とか。
 感情を知らない私が破顔する事も、ほくそ笑む事も、少し笑う事も、「生き急がなくていい」と思ってもいない言葉で慰める事も。全部嘘だ。嘘で、盗作だ。
 彼が憧れるのはこの世に存在しない虚崎夏澄だ。憧れられて、執着にも近しい呪いを人に植え付けるのが虚崎夏澄だ。それが完璧だ。それでいいはずなのだ。なのに、なんだろう。
「先輩が卒業するまでに、先輩の心に爪痕残しますから」
 あの憎い母がいなければ、母の小説をコンクールに出さなければ、彼はもうとっくに私を見える結果で越している。だって彼は、確かな自分の実力だけで賞を取ったのだから。
 もし、私なんてどこにもなくて、小説も全て盗んだものだと教えたら、彼はどんな反応をするだろう。気にならないわけではない。
 そこまで考えて、邪念だなと嫌気が差した。そんな事を考えていたら、文字通り人生を懸けたこの物語は破綻する。何より、目の前の彼を利用するともう決めた。
「よし、先輩が先輩らしくお祝いしてあげよう」
 鞄を持って立ち上がる。笹木君は「なんですか」と驚いたように私を見上げた。
「新譜、見に行くんでしょ。週末とか言わないで今から行くよ。買ってあげるから」
「え、いや」と取り乱す彼を残して部室を出て行く。私は知っている。そうやって彼を置き去りにすれば、否が応でも彼が私に付いてくる事を。私と彼は、そういう関係性だと定められている。
 
*  *  *  *  *
 
 空は嫌いじゃない。何も無いから。全てを許すから。全部忘れていい気がするから。
「綺麗」としか表したくないような青空を見上げている間だけ、私は私を忘れられる。私は私ではなくて、何者でもないのだと思える。そこに区別も優劣も何も無い。
 こうやってたまに、屋上と足を運ぶ。できることなら、ずっとこうしていたいと思う。でも、頭のどこかに私の名前の四文字がチラつく。「虚崎夏澄」は屋上が好きだ。だから、私がここでこうやって寝そべっている事は、決して不自然じゃない。そんな風に言い訳じみたものを脳内で再生する。
 しばらく瞼を瞑っていると、奥の方から眠気が迫ってきていると直感した。それが本格的に姿を現す前に身体を起こし、手元の書類を鬱屈な目で捉える。次に出す小説だ。もちろん、私が書いたものではない。だけど、これを書いたのは私という体になっている。たまにこうやって作業をしているフリをしなければならない。
 こんな事を繰り返すと、たまに我に返りそうになる。一体誰の為につき続ける嘘なのだろう。こんなやり方でしか生きられない自分の為だろうか。それとも、たった一人の後輩の為だろうか。あの子がいなければ、私は嘘をつかなくてもよかったのだろうか。そうやって我に返りそうになる前に、盗んだ私の「我」に返る。違う。その「我」は一度殺したものだ。私はただ、虚崎夏澄だ。
「ここにいたんですか」
 訊き馴染んだ声がした方を振り向く。彼は夏場でも変わらず、長袖を着込んでいる。
「ずっと思ってたんだけど、暑くないの?」
「肌が弱いんです。日焼けできなくて」
 夏が近付くほど、太陽が近付くほど、服を着込むなんて可哀想な話だ。私は「大変だね」と言うだけに留めて置いた。
「屋上って初めて来たんですけど、いい場所ですね」
 笹木君は屋上を囲うようにして取り付けられた柵に肘を乗せた。そこからは、この学校の景色が一望できる。
「景色と空が好きなの。悪くないでしょ」
「いつもここにいるんですか」
「たまに来るくらいかな。好きな食べ物は毎日食べるより、たまに食べるくらいが丁度いいでしょ」
 そう言いながら立ち上がり、彼の隣に並ぶ。笹木君はとにかく身長が高い。入学当初は百八十三センチと言っていた。私が百五十三センチくらいだから、ざっと三十センチの差だ。
「私の大切な場所なんだ」
「それは部室よりですか」
「そんなの比べられないよ」
 わざとらしく笑いながら言う。これも嘘だ。部室なんかよりよっぽど屋上の方が好きだ。とどのつまり部室は、私が最も強く虚崎夏澄でいなければならない場所になる。屋上とは真逆だ。
「ここで何してるんですか」
「次に出すやつの推敲」
「昼飯も食べずにですか」
「それは笹木君も一緒でしょ」
「元々僕は小食なので」
「だからだよ。一緒だよ」
 隣の彼に向かって言う。彼が「おんなじですね」と少し嬉しそうな顔で言う。その表情が、つまり何を意味するかという事くらい、私にだって分かる。
 屋上には夏の終わりを象徴する、少し涼し気な風が吹いている。この夏、私達はあまりに濃密な夏を過ごした。作品を完成させる為に学校に寝泊まりしたし、ネタ探しという名目で夏祭りにも行った。短いけど濃い夏。完璧な「私」を演じ切った私に、彼がどんな感情を抱くか。少し考えれば分かる事だ。
「次、どんなの書くんですか。楽しみで仕方ないです」
「こんなので良いなら持っていっていいよ。まだ途中までだけど」
 手にしていた書類を笹木君に手渡す。彼は「マジですか」と嬉しそうに受け取った。
 私も彼も、何かが壊れるのを極端に恐れていたと思う。だから、決定的な言葉は吐かなかった。全てに見知らぬふりをしていた。
 選択権は私に無い。彼にある。彼がいつ、その見えない一線を踏み越えてくるのか。私にはそれが恐ろしい。そうなった時、虚崎夏澄がどんな行動を取るべきなのか分からない。母のどの小説にも、そんな場面は無かった。母の中で、登場人物が恋していたのはいつだって創作という概念にのみだった。
 私は未だ、虚崎夏澄がどんな人間なのか分からないままでいる。
「先輩って変な人ですよね」
「は?」
 心の内を読み取ったかのように、彼が呟いた。彼は失言と思ったのか、どこかばつが悪そうに「いや、悪い意味じゃなくて」と弁解する。
「まあ、部室に突然鏡持って来たりするのは変人なのかもね」
「そうじゃなくて、いや、それもですけど」
 初めて、彼の言葉の先が気になった。私が完璧に創り上げた虚崎夏澄という存在。それを否定して、一体何が変だと言うのだろう。
「言葉にするのが凄く難しいんですけど、なんていうか、先輩って分かりやすいのに何も分からないんです」
 彼の言葉の意味するところを思案する。彼も自分で口にしてから、それを考え始めたらしい。屋上にはしばらく、どこか遠くから聞こえる生徒達の喧騒だけが優しい風に流されていた。
「誤解を恐れず言いますけど、本心が見えないんです」
「私はいつも本心にだけ従って生きてる」
「はい、それも分かってます。でも、そうじゃない」
 彼は頭を掻きむしった後で、結局「何でもないです。忘れてください」と苦笑いをした。私もそれに何となく無言で応えた。
 一線を踏み越えられたわけではない。それでも、彼は少しずつ、核心に近付こうとしている。これ以上は駄目だと直感する。彼は、虚崎夏澄という物語のイレギュラーになりつつある。彼を突き放さなければ。そう思う。
「あ、そういえば新曲聴きました? 中々良い曲ですよ」
 笹木君がスマホを取り出しながら、わざとらしく話題を変える。私はそれに甘える形で「新曲出したんだ」と興味ありげな声色を出した。
「海をテーマにしたバラードですね」
 向けられたスマホの画面には、新曲のモチーフとでも言うべきイラストが映し出されている。特に取り立てて特徴の無い、味気ない海のイラストだ。
「笹木君的にはどんな感じ?」
「バラードですけど、ロック感はちゃんと残ってて僕としては耳に馴染みますね。あと韻の踏み方と歌詞の音ハメが気持ちいい」
「へー。今度聞いてみよ」
「ただ、歌詞を重要視する先輩としてはあんまりハマらないかもしれないです。今回は特にメッセージ性が強くて、人によってはくどく感じるかも」
 彼はとても嬉しそうに私の事を語る。私の事を一番知っているのは自分だと疑わないように。
 いい加減、終わらさなければ。全てが台無しになってしまう前に。破綻してしまわないように。分かっているのに。
「今聴かせてよ」
「あ、流します? でもどうせならイヤホンで聴いて欲しいですけど」
「だからだよ」
「はい?」
 笹木君の右ポケットを指差す。そこには、いつものように有線イヤホンが突っ込まれている事を、私は知っている。
「一緒に聴いてよ」
 
「先輩って香水使ってるんですね」
 イヤホンをポケットにしまいながら、笹木君が何でもないように言った。
「匂いきついかな」
「いえ全然。むしろ僕は、好きですよ」
 変な場所に句点があったのは、一瞬躊躇したからだろう。それが微笑ましく感じると同時に、少し悲しくなる。
「髪が短いから、匂いが特に強く感じるのかも」
 私の髪形は、首元が露わになるくらいのショートボブで切り揃えている。香水は基本的に首元に付着させるものだと思うから、必然的にそうなる。
「欲しかったら探してみるといいよ。ノーヒントだけど」
 私が冗談めかして言ったタイミングで、五限目が始まる五分前を知らせるチャイムが響いた。笹木君は当たり前のように立ち上がるが、私はその場から動かない。「先輩?」と首を傾げる笹木君の表情は逆光になっていてよく見えなかった。
「まさか、サボりですか?」
「金曜のこの時間にサボる馬鹿は見捨てて早く行きなされ、少年よ」
「三年生なのに。知りませんからね」
 優しく諭すような言葉だけを置いて行き、彼は屋上から出て行った。
 授業をサボるなんて初めてだ。いや、虚崎夏澄は変人で自由奔放らしいから、たまにすっぽ抜かすくらいはいいかもしれない。彼があまり驚いた様子を見せなかったのは、その姿が腑に落ちたからだろう。それが何よりの証明だ。
 まずはっきりと断言するが、彼が抱くような感情を、私は持ち合わせていない。人が人に対して抱く感情が全て恋だったなら、世界はもう少しシンプルで生きやすかったのかもしれないけど、実際にはそうではない。彼の存在は明確に私の物語に邪魔だ。このままでは、前の「私」を殺してまで創り上げた「私」の化けの皮が剝がれてしまう。
 それでも、彼が差し出してきたイヤホンの片方を耳に刺したのは。線で繋がれた彼の困惑と恥じらいの表情を覗き見てしまったのは。一体どうしてだったのか。
 それが分かるのは、虚崎夏澄がはっきりとした「死」を迎える直前の事だった。
 
*  *  *  *  *
 
「すいません教室まで来てもらっちゃって」
 笹木君が教科書類を鞄にしまいながら言った。私は特に何も言わず無言で肯定するだけに留めて置いた。放課後に部室ではなくて彼の教室まで出向いた理由。「何となく」だ。その一言で全部済ませる事にした。突拍子のない行動を取るのが、虚崎夏澄の役割と気付いたから。
 最近になって、ふと母の存在を思い出す事が増えた。どうしてかは分からない。創作の事以外には何も考えるなと、そういう姿勢に自然とあの人を重ねるのかもしれない。ただ、この呪いは永遠に解呪できないものだろうし、私は母を心の底から憎んでいる。それだけが確かだ。私という存在は、あの人が創り上げたものだから。
「先輩……?」
 目の前に、上目遣いでこちらを覗き見るような笹木君の顔がある。彼の顔は客観的に見ても充分に整っている。なんというか、綺麗な顔だ。
「……いや、何でもない何でもない」
 私は少し首を横に振った。笹木君はやはりそれ以上は何も訊かず、鞄から書類を取り出す。彼の書いた小説だろう。私もそれに倣って、自分の鞄から小説を取り出した。
「そうそう、今日ずっと楽しみだったんすよ。この間の作品の続き見れるんで」
 私の小説を見つめながら、彼が嬉しそうな声色で言った。別に彼に読ませる必要があったわけじゃない。ただ、この前に中途半端なところまで読ませたから、続きを待っているんじゃないかと思った。
「太陽の光の反射見て過去に戻るってどんなもの食べてたら思いつくんですか。しかもそれが本当に過去に戻るんじゃなくて追体験っていうのが俺は好きですね」
「ありがとう。設定はともかく、メッセージ性を極力減らして美しさに注視したつもり」
「つまり、先輩らしさ全開なわけですね」
 私らしさ。ある意味では百パーセントそうだ。でもある意味ではゼロパーセントだ。これが本当に私の書いた小説だったなら、何か違ったのだろうか。そんな意味の無いifを想起する。
 私は私だ。私は虚崎夏澄だ。そして、虚崎夏澄を完璧にする事が人生だ。創作だろうと盗作だろうと、そこは揺るがない。でも。
「じゃあ、どうして生きてるんだろう」
 ピシッ。
 音がした。表面に罅が走る音だ。
「……何の話です?」
 私のか細い声を拾った笹木君が、怪訝な顔つきで訊ねる。私の口は、無意識に開いていた。
「前に言ってた、分かりやすいのに分からないとか、本心が見えないとかの話。覚えてる?」
「そりゃあ、まあ」
「あれ、もっと詳しく聴きたいかも」
 それから彼は黙りこくってしまい、頬杖をついて窓の外の景色を眺めていた。多分、自問自答を繰り返している。いくら時間がかかっても、私は待つつもりでいた。
 夏が終わった空の夕刻は早い。少し前なら青空だった景色が、茜色の橙色に上塗りされている。嘘とは、こんな赤色をしているのだと思う。私なら、秋の夕空を見上げて「真っ赤な嘘」なんて言葉を思い付いただろうから。
「誰に対してだって、隠し事があるのは普通です。嘘をつく事だって普通です。それが人間ですから。誰かに対しては嘘をつき、誰かに対しては本音を語る。そういう絶妙なバランスで人は生きていくんです」
 瞳の中に赤色を映しながら、彼が寂しげに言う。まるで、自分に言い聞かせるような言い方にも聞こえた。
「でも先輩は、どこまでも百パーセント『本当』に見えます。だからこそ、変なんです。もし、その裏側に何か在ったら。まるで、一生役の抜けきらない俳優みたいで」
 これは、断罪だろうか。
 何よりも崇高にしていた、虚崎夏澄の全てを否定されている。
「でも、私は私だよ」
「その『私』を、僕は疑っています」
 それとも、まだ間に合うだろうか。まだ立てるだろうか。
 少し涼し気な気温になったこの世界に、彼の学ランはよく似合っている。
 夏が近付くほど、太陽が近付くほど、服を着込むかのように。彼が近付くなら、私は嘘を着込んで自分を固めるべきではないか。
「そんなに、僕は信用ないですかね」
 多分初めてだった。私が誰であるかとか、虚崎夏澄がどうとか。その一瞬だけ、全てを忘れて私は彼の顔を見た。
「別に、正直になって欲しいとか言う気は毛頭ないです。誰だって何かを隠しながら生きているわけですから。僕だってそうです」
「でも」そう言って窓から顔を逸らし、私の顔を見る。彼の瞳に映る私は、どんな顔をしていただろうか。
「じゃあ先輩は、誰になら自分を見せられるんですか。どれだけ苦しんだって、好きな人の全てを知りたいと思う事すら罪ですか」
 
 場面転換で簡単な一文の表し方は、「気が付いたら」というものだ。そして今、私はそういう状況にあった。
 気が付いたら、私は部室にいた。いつものように席に着いていて、机の上には冊子が広げられている。虚崎夏澄という名前と、笹木怜雄という名前がある。
 とうとう一線を越えられてしまった。私が最も恐れていた事態だ。もうこれ以上、彼と一緒にはいられない。虚崎夏澄にこれ以上は無い。どうしようもないのだ。
 離れなければならない。嫌になるくらい分かっている。でも、どうしてだろう。私はそうしたくないと思っている。
 一種の罪悪感だろうか。このまま彼を突っ張ねる事が彼に悪いとか、そんな、いっちょ前に人間らしい感情を抱いているのだろうか。彼と一緒にいる事で断罪されたいとでも思っているのだろうか。
 ついさっきまで空に浮かんでいたはずの太陽はもうどこにも無い。朝焼けとも日暮とも取れるような、仄かな明るさだけが淡く滲んでいる。
 冊子を指す陽光は無い。目を凝らせばうっすらと文字が見える。虚崎夏澄という名前と、母の書いた小説が。あまりに陳腐な、愛についての物語が。
 
 ——愛されなかった私は愛し方も分からなかった。愛せない人間の死が、強い創作に繋がるとは到底思えなかった。
 
 そして、たった一つの確信に気が付いたその瞬間。私は、目の前の冊子を力の限り投げ飛ばしていた。直線の軌道をそのままに、冊子は鏡に直撃する。ピシッ。音がした。表面に罅が入る音だ。
 私は、愛されたかった。
 愛される事が、嬉しかったんだ。
 私は、彼の事を愛してなどいないのに。
 最悪だ。反吐が出る。愛について何も知らなかったのは、私も同じじゃないか。同類じゃないか。あの人と、同罪じゃないか。
 笹木君を利用していた。でもそれは、虚崎夏澄がどうとか、そういう話ではないのだ。ただ、愛の味を知ってしまったが故に彼を私の元へと留めて置いた。
 私には二つの選択肢がある。全てを壊すか、このまま全て守り続けるか。嘘をつき続けるか否か。
 創作家として一番重い罪は盗作で、なら、人間として一番重い罪は嘘だと思う。
 その両方を犯した私は、一度は私を殺した。そしてもう一度死んで、罪を贖う必要がある。それが今なんじゃないか。
 彼がなりたいのは、憧れたのは、愛したのは。私であって私ではない。虚崎夏澄だ。なら、虚崎夏澄が生きた証を、彼に見届けてもらおう。嘘も罪も貫き通して、虚崎夏澄という虚像を愛してもらおう。
 私がもう一度死ぬその日まで、私は私だ。私が、虚崎夏澄だ。
『好きな人の全てを知りたいと思う事すら罪ですか』
 虚崎夏澄は、笹木怜雄の告白をどうする。答えは一つだ。
 スマホを取り出す。そして彼に向けて、この嘘だらけの人生の全てを込めた短文を一度だけ送信した。
『海に行きたいから一緒に行かない?』
 
*  *  *  *  *
 
 空が好きで部室は嫌いで、じゃあ、海がどうかと訊ねられれば。
「海って好きなんですよね」
「どちらでもない」、と答えるだろう。青いなあ、綺麗だなあ、という馬鹿みたいな感想しか思い浮かばない。
「海のどこが好き?」
 私が訊ねた時、目の前の水平線の奥から優しい潮風が吹いた。それが、少し長い彼の前髪を上げる。身長の高い彼は、黒のスキニーに白い長袖というシンプルな恰好でも様になっていた。
「水平線っていうのは文字通りにただの線で、向こう側には何も無いです。ここから先には何も無くて、進まなくていいんだ、どこにも行かなくていいんだって思えるのは、なんていうか」
「……安心する?」
 私が訊ねると、彼は「そうですね」と少し微笑みながら言った。その感覚は、少し分かるような気がした。
 秋が始まったかと思ったら、今日はまた夏日そのものみたいな晴天だった。気温は高く、日差しが痛い。麦わら帽子を持ってきていてよかった。
「海は生命の源だって話は知ってる?」
 風で飛ばされそうな麦わら帽子を抑えながら訊ねる。笹木君は「生物学的な話ですか」と少し眉をひそめて言った。私は無言で肯定する。
「海が生命の源なら、海に行けばもういない人にも会えるって思うんだよね」
 もしここに、母親がいたらどうしただろう。会いたいなんて微塵も思わない。殺したいとすら思うだろう。だけど、私は言葉を交わさなければいけない。全てを押し付けて勝手に逃げたあの人に問わなければならない。「虚崎夏澄なら、こんな時どうしたか」と。
 海は好きでも嫌いでもない。でも、今だけは海に頼ってみたいと思う。何もないこの場所で、ただ安心を噛み締めてみたい。そう思うと同時に、このままじゃいけないとも思う。どこかに逃げなければ。私を消さなければ。そんな焦燥感がしがみ付いて離れてくれない。やっぱり、海は少しだけ嫌いなのかもしれない。
「どうしてまた海なんです?」
「この前の曲聴いたら、海に行きたくなってさ」
 彼は一瞬だけ考える表情を見せ、すぐに「ああ」と思い出したように言った。あの時、彼は私にはハマらないかもしれないと言っていたが、聴いてみると案外悪くなかった。
 その会話を思い出して、連鎖的に、彼の横顔を思い出す。イヤホンという名の歪な線で繋がれた、青空の下の私達を。
「言うまでもないと思いますけど、気を遣うとかやめてくださいよ」
 恐らく、同じ事を思い出していたのだろう彼が言った。私は「しないよ」と笑って言った。気を遣うとか、そんな繊細な事は虚崎夏澄にはできないだろうから。
 別に、彼の純真に対して、何か言うべき言葉があるわけではなかった。今日私がここに来たのは、彼を呼び出したのは、虚崎夏澄を殺す為だ。
 海から顔を背けて後ろを振り返ると、小さな公園がある。私はそちらを指差して「とりあえず、座ろうか」と彼を誘った。
 傍に自販機があったから、鞄から財布を取り出し、そこから五百円玉を一枚だけ入れ、彼の顔を見た。
「どれがいい?」
「え、いや、俺は別に」
「急に連れてきたわけだし奢らせて?」
「えっと、じゃあ、先輩と同じやつでいいです」
 遠慮がちに言われ、私は百五十ミリリットルのミルクティーを二本買って、一本を手渡した。そして自然と、それを持って公園内にある木製のベンチの方へと向かう。
 腰を下ろし、何か言うでもなくミルクティーを飲み下す。笹木君もそれに倣って同じ事をした。
 それからしばらくは、ただ無言の時間が続いた。波の返す音、潮風が木々を揺らす音、どこか遠くのカモメの鳴き声、散歩をしている男女二人の話し声。私か彼のどちらかが咳払いをし、どちらかが欠伸をした。
 穏やかな時間だった。ずっと続けばいいのになどとは思わないが、一週間に一回くらいはこんな時間が欲しいかもしれない。屋上で空を見上げるように、何も考えず青色に身を委ねる時間が。
「言っておきたい事があってさ」
 そんな切り出しで、私は会話を始めた。彼は何も言わず、言葉の続きを待っていた。
「過程を一つ一つ丁寧に説明するのと、結果だけをシンプルに話すのと、どっちがいい?」
「どちらかと言えば後者です」
 少し距離を空けた先の右隣りの彼が言った。その間には、細かな水滴を纏ったペットボトルが二本置かれている。私は「分かった」と言って、鞄から書類の入ったクリアファイルを取り出す。そして、それをそのまま手渡した。
「残念ながら、小説ではないんだけど」
 彼が眉をひそめながら書類を取り出すのを見て、私はまたミルクティーに口を付ける。そして、全てを読み終えるまでの間はまた無言だった。欠伸の音が聞こえなかった以外は、再放送のように同じ音が耳に入っていた。やっぱり、穏やかな時間だった。
「……どういう事ですか」
 さっきの倍以上の時間が過ぎた後で、彼が小さく言った。声が震えているのは私じゃなくたって分かる事だ。さっきの男女に聞かせても、同じ事を思っただろう。
「半年。つまり、私が卒業するのと同じくらいだと思う」
 そう言った時、今日一番に強い風が吹いた。私の白いワンピースが風に靡き、麦わら帽子が飛んでいってしまいそうなのを左手で抑えた。彼が握っていた書類も飛んでいきそうになって、彼はその手に力を込めた。強く抑えられた書類には、少しばかりシワというか跡が付いた。
「なんでそんな大事なこと言ってくれなかったんですか……」
 彼の言葉には応えず、私はただ顔を逸らして前を向いた。もう、彼の顔を見ないようにしようと決めた。
 彼に手渡したのは、入院案内や薬の説明文書、そして診断書といった、私が不治の病に侵された事を証明できるものだった。
 でももちろん、それらは全て本物ではない。元々は母親の遺品の中に紛れ込んでいたものだ。それらを全て私の名前に書き換えたものに過ぎない。どうしてそんな事ができるのかと言われれば、法律の犯し方を子供に教える阿保な親のせいだ。
「余命って……そんなの……」
 虚崎夏澄は一度目の死で、創作家としての罪を贖った。だから、こうやって二度目の死を与える事で、人間としての罪を償う。同時に、それが笹木君に対する償いにだってなる。
 彼は、虚崎夏澄を妄信している。虚崎夏澄を愛している。虚崎夏澄に恋している。その偶像を偶像のまま、全て終わらせてしまおう。それが虚崎夏澄の証明だ。笹木怜雄への、せめてもの償いだ。
「治療する気もないんですよね」
 笹木君が少し荒い呼吸と共に吐き出すように言った。私は何も言わず、ただ遠くに見える海を眺めていた。青いなあ。綺麗だなあ。
「わかりました。無言は肯定ですもんね」
 チラリと彼を横目にする。「そうですね」と、感情をなんとか押し殺そうと耐えているように見える。ああ、創作とは、なんて罪深いのだろう。だって。
「せめて先輩が卒業するまででいいです。あなたの後輩として隣に居させてください……」
 だって、彼の流す涙は、どんな空よりも澄んでいて、どんな海よりも美しい。
 こんな風に彼に愛されたいと思う私の罪が、彼をここまで苦しめている。もっと苦しんでくれと願う。もっと愛してくれと祈っている。私は、君の事なんて好きではないけれど。
 虚崎夏澄ではない。「私」がただ、そう在ってしまっている。盗作も嘘も貫き通したその先、これが最も重い罪だ。大罪だ。何度死んだって贖えない罪、それが「愛」だ。
 好きでもない彼に見放される事を、こんなにも恐れている。一人で死ぬのは、やっぱり怖いから。
 一人で死んでいったあの人の、手首越しの強い力と体温を今更のように思い出した。
 
「寒いですね」
「もう夏も終わりだもんね」
 鉄の塊が目の前を横切る度、ホームに強い風が吹き抜ける。彼の少し長い前髪が、私が着ている白いワンピースが、ふわりと浮き上がっては優しく同じ場所に着地する。
「先輩はこれからどうしたいんですか」
 何でもないように、休日の予定でも訊ねるように、彼が言った。
 このまま、虚崎夏澄で在り続ける。そう決めた。でももちろん、彼が聞きたいのはそういう事ではない。だから私は、沢山の意味を込めて「どうもしないよ」と無感情に言った。
「死ぬまでこのままの日常を過ごすだけ」
 言葉にしてみると存外、気が楽になったような気がする。彼が求めてくれる私を演じ続けていればいいだけなのだ。それで、花火みたいにパッと消えて、残響と残光を彼に植え付けて死ぬだけだ。
「先輩」
 どこの誰かも知らない男の声がホームに響く。まもなく電車が参ります、黄色い線までお下がりください。そして、轟音を鳴らしながら、私達の街へと向かう車両が停車した。
「また海行きましょう」
 笹木が立ち上がる。目の前の電車の、その車窓に、私の姿が映る。いや、私じゃないのか。
「……行けないよ」
 小さく呟く。その声は発車を知らせるアナウンスにかき消される。行かない、ではない。行けないのだ。だって、私はもう死ぬのだから。
 笹木君が「先輩、行きましょ」と無理に吹っ切れたような声で言って、私の腕を優しく掴んだ。彼という人間を体現したかのように、大きくて細くて、少し暖かな手だった。
 恋とは残酷なものだ。改札の向こう側は別世界で、そこを通り抜ける切符などどこにも無い。そして、その先の別世界にいる存在を、ただ見つめる他ないのだ。片道切符を持ったその人の背中を、眺める他ない。
 
*  *  *  *   *

 春風が吹いた。桜の香りが鼻腔を撫でる。少し長くなった私の髪をなびかせ、何か大切なものを攫っていったような気がした。いっそ、全部全部私から奪い去って欲しかった。
「悲しいなあ」と、漠然と思えた。学生時代とは延命装置のようなものかもしれない。だから、三月九日という日付に特別な意味を見出せる自分が悲しくて、少しだけ安堵もした。よかった、私はまだ大人に成り切れていない。何者でもなくなる自分が悲しいと感じる。そういう安堵だ。
「まあそうだとは思いましたけど」
 この一年間で一番聞き馴染んだ声と、屋上の昇降口を開ける音がした。冬の風物詩であるはずの学ランは、笹木君が着ていても新鮮味がない。夏場だって長袖だからだ。
「せめて最後は部室でいいじゃないですか」
「笹木君こそ、せめて最初は『卒業おめでとうございます』って言うのが礼儀でしょ」
「おめでたいとか微塵も思ってない人にそれを言っても」
 鋭い指摘に思わず笑う。胸元のコサージュが揺れてカサカサと音を鳴らした。
「一応訊きますけど、最後のコンクールの結果は見ましたか」
 私はそれに何も言わず、ただ微笑んだ。笹木君は「でしょうね」と呆れたように言った。
「自分がどんなの書いたのかも覚えてないよ」
「あれです、鏡に反射した光を見て知らない人の過去を追体験するっていう」
「ああ、あれか」
 ふと思う。もし、あの話が現実に起きて、誰かが私の過去を追体験したらどうなるか。私の目から見た笹木君は、多分どこにでもいる普通の人間に見えるだろう。それでいいと思う。彼にも、彼を見つめる誰かにも、普通に生きて、普通に恋をして欲しいと思う。道端に落ちている小石を愛おしく思うような、そんな普遍的なものだけを抱きしめて欲しい。
「俺の口から言うのもあれですけど、優秀賞でしたよ」
 何でもないように放られた彼の言葉に、私は驚いてただ彼の方を向いた。彼は、目の前に広がる青空を眺めている。
「初めてですね、先輩が一位を逃すのは」
「……そう、だね」
「まあ、先輩の事だから大して興味ないんでしょうけど」
 彼の言う通りだ。分かっている。虚崎夏澄は、そんなものに目をくれない。結果なんてどうでもいい。
 でも、それでも。私は、疑問が浮かんでしまった。そして、それを口にしてしまったのだ。虚崎夏澄ではなくて、ただ私として思ってしまった事があったから。
「幻滅した?」
「え?」
 今度は彼がこちらを見る番だった。強い風が吹いて、流された髪に隠れていた彼の目を、ちゃんと捉えた。
「幻滅、っていうのは違うか。小説以外に何も持ってない私が、小説で一番を取れないって、私に何の価値があるんだろうね」
 同情を誘うような言い方だ。なのに私は、否定して欲しいとどこかで思っていた。これまでの私を、虚崎夏澄を肯定して欲しかった。何の価値もないと言って欲しかった。今までやってきた事は、無駄じゃなかったのだと思いたかった。でも、彼は。
「先輩が使ってる香水、俺も買いました。あと、髪を染めて先輩と同じように茶髪にする予定です」
 突然彼が言った。私が見ると、彼は少し複雑そうな表情をして「そういう事です」と小さく呟いた。
「もちろん、小説家としての先輩は好きです。先輩の小説が世界一だと、誰に何と言われようと確信してます。でも、だからと言って、先輩から小説が無くなったからって僕の気持ちが何か変わるわけじゃありません。当たり前じゃないですか」
「まあ、先輩が隠してたものがなんなのか、結局分からずじまいですけど」。彼は少し寂しそうに呟いた。
 もしも。もしもだ。虚崎夏澄ではなく、ただの私として。盗作も嘘も、創作すらも無い私として彼と接していたとしても。彼はこんな風に、私を愛してくれていただろうか。もう本当の自分すら分からなくなったけど。それでも、そんな事が叶っていたら、私は彼の前でちゃんと笑えていただろうか。
 そんな告白をしてしまいそうになる。愛の告白なんかよりも遥かに痛い告白だ。でも、駄目だ。彼が愛しているのは、妄信しているのは、虚崎夏澄だ。だったら私は、それを貫き通す。そう決めたじゃないか。
「唯一のファンでいてくれた君に、一つ置き土産があるの」
 胸ポケットから一枚の封筒を取り出し、笹木君に差し出す。彼は一瞬躊躇いの表情を見せた後、すぐにそれを受け取ってくれた。怪訝な表情を見せる彼に、私は笑って言う。
「それが、私の最後の作品。君だけに渡すね」
 笹木君は驚いた表情を見せて、すぐに封を開ける。そこから出てきたのは二枚の紙切れだった。
 母の書斎から出てきた、短い一編の小説。あの人が最後に書いた作品だ。それを彼に託す。遺作と言っていいかもしれない。母にとっても、私にとっても。
「なんだかんだ、私の小説を読んでちゃんと『好きだ』って言ってくれたのは君一人だったからね。まあ、このくらいはしてやらないと」
「……二枚とも、ですか」
「あ、一枚は違う。一枚目は小説だけど、もう一枚はなんて言うか、ただの手紙だよ」
 笹木君はどうしようもなく、虚崎夏澄に縋っている。それは事実だろう。だとすれば明日、私のいなくなった世界で彼はどう生きるのか。指針を失くした人間がどんな末路を迎えるのか、それは私が誰よりもよく知っている。
 だから手紙を書いた。笹木君へ、ではない。この先彼を支えてくれるような人間に。つまり、未来の後輩へと宛てた手紙を。
「だから、その手紙だけは笹木君には読まないで欲しいかな」
「……まあ、先輩がそう言うなら、僕はそれに従います」
 我ながら自分勝手だなと、溜め息が出そうだった。巡り巡って、結局は人任せだ。後輩に宛てた手紙だって、虚崎夏澄としての気持ちでしかない。本当は笹木君の事などどうでもいいくせに。なのに、愛されたいと願っているくせに。私は、救いようのない人間だ。
「卒業は永遠の別れじゃないですもんね」
 封筒から取り出した小説を握りながら、自分に言い聞かせる為だけに彼が言う。違うよ、笹木君。永遠の別れだよ。虚崎夏澄の物語は、もうここで終わりなんだよ。
「書きたいものは全部書いたって言ってましたよね」
 書きたいものなんて一つも無かった。ただ愛に縋っていただけだった。こうする事でしか、生きる方法を知らなかった。
「こんな薄いのじゃなくて……分厚い一冊の本がいいんですよ……俺は……」
 そうやって彼が流した涙は、虚崎夏澄の小説へと落ちていく。いつだってそうだった。彼の愛の先は、私ではない私だった。私ではなく、虚崎夏澄だった。それでよかった。
「俺がまだ……見足りないんですよ……」
 まだ少し冷たい春先の空気は澄んでいて、漠然と思った。世界が、私を急かしているように感じた。
「笹木君」
 だから、これが最後だ。虚崎夏澄が、たった一人の笹木怜雄へと向ける言葉。
「笹木君は、創作家でいてね」
 やっぱり、それに尽きるのだ。虚崎夏澄は、かくあるべきなのだ。
「今からすごく滅茶苦茶な事を言うね。何言ってんだって思うかもしれない。それでも、よく聴いて」
 そう言うと、笹木君は目元を乱暴に拭って、こちらをしっかりと見据えた。多分彼も、これが最後だとどこかで確信していたから。
「私はもうすぐ死ぬ。だから、人が死ぬってどういう事なのか、よく見て。私を、ずっと見ていて」
 創作以上に価値があるものなんて無い。どうだろう。今だってその答えが分かった気はしない。
 でも、彼はどうしようもなく創作家だ。なら、たった一人の先輩として、小説家として。死を迎える虚崎夏澄が彼に言える事なんて一つだ。
「私の全てを創作にしなさい」
 きっと彼なら、愛を描けるはずと信じたいから。
 
 校門をくぐる。この瞬間、私はもう何者でもなくなった。
 後ろを振り返ろうとして、やっぱり止めた。彼は屋上からこちらを見ているだろう。でも、もう虚崎夏澄は死んだ。だったら、もうそうするべきではない。
 創作家としての罪と、人間としての罪。二度の死を経て、私はその罪を贖った。
 これから先は、愛という罪を贖う為の人生だ。どこまでも何者でもない「私」の行く道だ。死よりも残酷な、生という罰でそれを償う。
 高校三年生を終えた春先。虚崎夏澄という私は、三度目の死を探しに行く。