八月三十二日の話

​ 個人で販売している自作小説「青春被害者の会 議事録 第二回「被害者達」」に収録されている小説です。​https://maitakemaitakem.booth.pm/​​​





 まあ一言で言うなら、神様になりたいんだと思う。
 四月。桜の開く季節。何かを求めて期待した高校での新生活。その「何か」の正体も分からないまま、「何か」は消え失せた。単純に人が苦手なんだと気付かされた。気付きですらなかったかもしれない。ただ思い出しただけ。そういうものは沢山ある。人間の学習能力の低さには毎度驚かされる。いや、私だけかもしれないけど。
 沢山ある。何かの拍子にしか、その度にしか思い出せない事。形も色も正体も分からない「何か」が始まって、そのまま何も分からないままそれが終わっていく。期待してるのかもしれない。次こそはって。次こそは、何か変わってくれるかもって。変えようって意識もそんなに無いくせに。いつまでも受動的なんだなあって他人事みたいに思う。
 でも、言い訳のように思う。神様って結局、受動的じゃないとって。そりゃあ、聖書に書かれてる神様全部が受動的とは思わないけど。そもそも聖書に神様が出てくるかどうかも知らないけど。でも、私がなりたい神様はいつだって受動的だった。救われたい人間が向こうから来てくれた。それで、好き勝手振り回されて満足そうな顔してる。そういうイメージがある。
 夏になりかけの夜、夏が始まる前の夜。夏だなあって漠然と思って、毎年と同じように何かしなきゃなあって惰性の焦燥感に駆られて。でも、何かするなら憧れだった高校生っていうフィクションの人間になれたこのタイミングがいいなあって思って。だから、焦燥感を惰性のままにするのは止めようって本気で思えた。ほとんど奇跡だ。あと付け加えるとしたら、「星の綺麗な夜だったから」っていうそれだけでいいかもしれない。
 そんな決意を固めた次の日は、それを嘲笑うような土砂降りだった。それだけで六時間前の私の決意は萎えていった。いつものように朝ごはんを抜いて、時間をかけて気持ち程度の化粧をして、まだ慣れない新品の制服を着て、少しサイズの大きなローファーを履いて、そして家の扉を開ける。その時にはもう、七時間前の決意はほぼ無くなっていた。
 入学する前から使ってるビニール傘の向こうには、私と同じ制服を着た女子と、私と同じ学校の制服を着た男子が億劫そうに歩いている。桜の並ぶ通学路を楽しそうに歩く生徒達を横目に、少し寂しくなりながら独りで学校へ向かう、なんて、やっぱり遠い世界の御伽噺だったらしい。雨の日は皆、少しだけ寂しいのかもしれない。寂しいのは私だけじゃない。少し嬉しいのと同時に、なぜか少し落胆する。そうやって溜め息を吐いた時、ようやくローファーの中で靴下がぐちゅぐちゅと音を立ててるのに気が付いた。
 雨音が教師の声をかき消して、優しい子守唄みたいに空気を撫でてくれて、視界に入る同級生のうち三、四人くらいが一限目の眠気に耐えれず背中を丸めて頭を下げてたのを見つけて。ちょうどその時だ。少しだけ開いていた窓から、強い風が吹き込んできた。私の席は横に最後列の縦に窓際から二番目。私の左隣の男子は雨風の影響をもろに受けて、ノートが捲られながら入り込んできた雨に濡らされるのを見て、慌てて窓を閉めた。
 少し勢い余って大きめの音を立てて窓を閉めた音と、風に押されてノートが私と彼の間に落ちる音。その両方が重なって、私の視界に入ってた三人のうち二人が頭を上げて目を覚ましたのが分かった。
 一瞬だけ躊躇って、私は地面に落ちたノートを拾った。見ようと思ったわけじゃないけど、ノートの中身がチラリと目に入ってしまった。三か月くらい隣にいて彼に何の印象も抱かなかったから、逆に「普通に真面目」みたいな印象が無意識にあった。だからかもしれないけど、ノートには板書をした痕跡がこれっぽっちもなくて驚いた。そして、真っ白な紙のど真ん中にあった一文を読んで更に驚かされた。
 
「八月一日 雨が好きだ。非現実的で。今日も探し物は見つからない」
 
「あの」
 彼のノートを持ってたままの私を、彼が怯えたような目で見ていた。どこにでもいるような男子特有の少し乱雑な筆跡で書かれていた短文に惹き込まれていた私は、あわててノートを返した。彼は「どうも」と言いたげに少し頭を下げて、ノートを受け取った。
 その後私は、何でもないように前を向いて授業を受けるフリをした。さっき目を覚ましたらしい二人のうち、一人はまた背中を丸めて眠気と奮闘してた。
 そっか、今日から八月なんだなと思った。夏の始まりを定義するなら今日でいいのかなと思った。本当は、死にたくなるくらい茹だるような快晴の日がいいと思ってた。でも、今日がいいと思った。それで、八時間半前の決意がまたむくむくと膨れて蕾になった。ちらりと彼を横目にした時、窓の外の分厚い雲を眺める彼の横顔がなぜか綺麗に見えてしまって、なんか、いいなと、ふと思った。今なら何でもできる気がした。
 初恋にも似たその高揚感は次の休み時間まで持続してて、私としては少し、いや、大分珍しかった。神様がそうしろと言ってるみたい、なんて、神様になりたい私がそんな事を思った。
「ねえ」
 その二文字を発した瞬間、「しまった」と思った。声を出すのが久しぶりで、キーが合っていないような気がした。でも、彼は私の声なんて聞いた事ないだろうし、多分平気だと自分に言い聞かせた。
 休み時間、彼は文庫本に目を落としていた。本には紙袋みたいな安っぽいカバーが付いてて、どんな本を読んでるかは分かない。彼が本を閉じる仕草をすると、紙が「くしゃ」みたいな音を小さく立てた。私にはそれが、スタートの合図に聞こえた気がした。
「さっきのあれ、どういう意味?」
 この一文だけは、あらかじめ言おうと決めてたものだった。あえて曖昧な表現を使った方が、なんだかそれっぽい気がした。彼は私の言葉を聞いて、分かりやすく瞳を大きくさせた。いや、人の目ばかり気にしてる私だから気付けたのかもしれない。
「日付が書いてあったけど、もしかして日記?」
 言葉を発するには手遅れな空気感の沈黙になる前に、また私から言葉をかけた。ここからはアドリブ。彼はそれに「まあ、多分」と煮え切らない感じで肯定した。
「探し物って何?」
 ここまでくれば、彼もこの質問をされると何となく分かってたはずだ。彼がどんな返答をするか、とても楽しみだった。高校に入って三か月。いや、生きてきて十六年。私は多分一番ワクワクしていた。
「八月三十二日を探してる」
 全身を、静電気みたいなとても甘い痛みが走った気がした。
 九時間前の蕾がやっと開花した。
 言葉の意味は全く分からない。彼の考えてる事も分からない。でも、いいなと思った。彼がいいと思った。彼にとっての神様になりたいと思った。
 
 彼が言うには、実はこの世界にはもう一日だけあったらしい。三百六十五日じゃなくて、三百六十六日だったと。日本だと、その日がちょうど八月三十二日に当たると言うのだ。なぜかそれを、全人類が忘れてる。そういう話だった。
「私も見つけたい。八月三十二日。一緒に探そう」
 休み時間を少しずつと、高校に入って初めて誰かと過ごした昼休みと、あと放課後を少し。それだけの時間をかけてようやく彼の話を呑み込んで、彼にとって必要な存在になると決める覚悟を得た。
 休み時間が終わって授業が始まる度、やっぱりどうしたって「どうしてこんな事してるんだろう」みたいな気持ちになる。でも、考えてみれば「星が綺麗だったから」「夏が始まるから」っていうその二つ以上に説得力のある言葉は無い気がして、だから、それでいっかって何となく思う。
「でもどうやって探すの? 皆忘れちゃってるんでしょ?」
 黒板に私の名前を記す。その下にある「八月一日」という日付を消して「八月二日」と書き直す。明日の日直は私だ。日直は、前日にこうやって当日の黒板に名前と日付を書かないといけない。私はあくまで八月二日の日直なのに。あんまり納得してない。
「逆だよ。八月三十二日の方から来てもらうんだ」
「面白い事言うね。でも、具体性が無い」
 白色のチョークを置いて、右手の指先に付着した粉を左手の平で拭う。すると左手の平にも粉が付着するから、結局両手を叩いて粉を落とす。
「私は具体的で現実的な話がしたいんだよ。それが超常現象みたいなものなのか、何かの比喩なのか。まだ何も聞かされてない」
 神様とは結局、導き手の一種に近いと思う。救われたがる人間は、こうやって道筋を立ててあげないと何もできない。そして、自分の手を引っ張ってもらうような、そんな存在であって欲しいと勝手な利己と理想像を押し付ける。
 完璧になりたい私は、それになってあげるのだ。自分の醜い欲望には蓋をし、自分でも気付かないふりに気付かないふりをする。私はただ、どこまでも純粋に彼の導き手じゃないといけない。寂しがりで救われたがりな、この人の為に。
「八月三十二日が、したかった事をする。誰もが忘れ去ったせいで、もう消えてしまった夏の日。本来なら存在していた八月三十二日。そこで起きた事をもう一度繰り返すんだよ」
「なんだっていいんだと思う」。彼はまた少しぼかしたような言い方をした。例えば線香花火とか、終着駅から見える海に逃げるとか、青空の下の屋上で時間を無駄遣いするとか。夏っぽい、記号的であれふれた夏の日にする事が重要と。
 私はずっと、そういうものを望んでた気がする。誰かが、何かをしようとする。あるいは何かを得ようとする。そういう時、真っ先にその為の理由とか意義になりたかった。深い傷を残したかった。みすみす見逃すには勿体ない傷を。
 彼がこの夏を生きる理由。八月三十二日を探す意義。私はそれになりたいのだ。真っ先に彼の海馬を伝って私の存在を想って欲しい。夏に死ぬなら、その走馬灯に映ってみたい。
「八月三十二日は、寂しがりなんだね。君みたいに」
 だから、こういう決定的な一言を残していく。忘れられないような、ふと思い出してしまうような言葉を。彼を壊しかねないものを。
「僕って寂しがりなのかな」
「きっとそうだよ」
 彼はふと、窓の外の景色に目をやった。雨音が止んでいた事に気が付いたから。雲の切れ目から、陽の光が射してるのが見える。これからの私を暗示してるんだと思う事にした。あの光の線を、彼の心に刺すのだ。
 
 彼の心には希死念慮に近いものがあった。いつだって漠然と消えたくて、今まで無情に積み重なってたものを全部壊してみたくて、自分じゃない誰かになりたくて。そういう、在り来たりなものを持っていた。
「こういう人生がいいんだと思う」
 彼の持っていた線香花火の、火の玉が落ちた。周囲は真っ暗になる。何も見えない。「人生みたいだね」と言おうとして止めた。私はこんな儚くて綺麗な光じゃなくて、花火みたいに一過性じゃなくて、いつだって太陽みたいに直視する事も躊躇うくらいの強い光じゃないといけないから。代わりに私は「どの辺が?」と、何も知らないような顔をして訊ねた。
「すぐに消えるところ?」
「分からないけど、そういう事なんだろうね。生まれ変わるなら線香花火がいい」
 典型的なくらい、後ろ向きの人間だ。そのくせに、後ろ向きで歩いてる。ただ死ねない、まだ死んでないだけの人間。世の中にいくらだって溢れ返ってる。その中から彼を選んで、彼を救い出すのが私の使命だ。最後の最後にはいつだってお涙頂戴で、彼が前を向いて歩いてけるような話にしたいのだ。
 さざ波の音が耳に心地良い。ローファーに入り込んだ砂が足の裏でひしめき合ってる。青い海も好きだけど、夜の海も嫌いじゃない。それこそ、非現実的だ。私達はいつだって非現実を求めてる。少しでいいんだ。少しだけ、緩やかにはみ出していたいんだ。
 煙草を吸う事もそれに近いと思う。一ミリ、いや、本当は五ミリくらいかもしれない。そのくらい、少しずつ死に向かってるのがいい。もちろん私はまだ吸った事がないけど、いつかは吸ってみてもいいかなとは思う。緩やかな自殺には変わりないと思いたい。摂取したタールの分だけ、死に近付いてるといい。
「私もやろうかな」
 そこら辺のスーパーで安売りされてた、一番小さいサイズの花火セット。その中から、大量にある線香花火のうち二本だけを取り出す。一本を彼に渡して、足元に置いてあったライターを手探りで探し当てる。
「煙草買ってきたって言ったら、一緒に吸う?」
「え」
「冗談だよ」
 私は笑って、指先に当たったライターを自分の線香花火の先で着火した。すぐに点火して、淡い光と音を発する。パチパチ。綺麗だ。儚いものはいつだって、始まりより先に終わりを意識する。普通の花火なら「綺麗だね」「そうだね」って言ってうっとりできる。でも、線香花火だけは、気を抜けばいつ消えてもおかしくなくて、大切に、そっとしたくなる。だから、言葉は少ない方がいい。目の前でカウントダウンを進める光を、せめて死ぬ瞬間まで見つめてあげる方がいい。
 彼はライターを受け取って、自分の線香花火に火を点けた。弱々しい二つの光が、二人の周辺をだけ、ほんの少し鮮明にする。彼は、死にたそうな顔をしてた。いつだってそうだと言えばそうだけど、でも、いつもにも増して死にたいような顔をしてた。線香花火という光に照らされるとそう見えるのか、彼が綺麗なものを見ると死にたくなるような性分なのか。分からないけど、後者であればいいなと思うのは私の我儘だ。
「八月三十二日は、完璧でありたいんだ」
 さざ波の音にかき消されそうなくらい、小さな声で彼が言った。線香花火が消えないように、繊細に気を使ったんだと思う。死にたいくせに死なないように気を使う。なりたいと言った線香花火が死なないように丁重に扱う。彼の言葉に、私はとりあえず「どういう意味?」と訊ねてみた。私は声を出すのに気を使わなかった。いつも通りだった。消えてもいいと思ったから、とは少し違う。彼と似た想いだ。私が死なないように。宇宙に行ったって、太陽は静かに燃えてるわけじゃないと思うから。
「八月なんか、夏なんか、本当は終わって欲しくないんだよ。でも、それに知らないふりをしてる。だから、完璧になろうとする。無意識で、終わってしまう運命なら完璧な形で終わりたいと願ってるからかもしれない」
 夏が終わって欲しいか、終わって欲しくないか。どちらかと言えば後者だ。終わるものなんて少ない方がいい。当たり前だ。当たり前だけど、夏はとくにそうだ。夏が終わってしまうと、それ以外のもっと大切な何かも終わってしまうような気がする。
 何かするには綺麗過ぎるけど、何もしないのは少し勿体ない気がする。「こんにちは」を言い忘れたのに、「さよなら」だけははっきり言われた気がする。終わる頃に始まって、始まりを知った頃には終わってる。夏っていうのはそういうものだ。それこそ、線香花火とよく似てる。本当はいつだって、消えないよう大切に抱き留めておきたいはずなのに。繋ぎ止めて置きたいはずなのに。でも、いつかは死ぬんだ。線香花火も、彼も、私も、何もかも。いつかは消えるんだ。それが多分、夏が終わるって事なんだ。
「終わる時にだけ輝くのは、少し悲しいけど、綺麗だね」
 そう言うと、彼は「そうかも」とまた小さな声で呟いた。私は嘘をついた。そんな事ちっとも思ってない。詭弁だ。終わる時にしか輝けないとか、そんな棺桶みたいなものが綺麗であってたまるか。
 今日は八月一日だ。夏の始まりを定義付けるなら、今日というこの日だ。それでも、線香花火はこんなに綺麗じゃないか。だから、彼の目に映る私も綺麗じゃないといけないんだ。完璧で、綺麗で、強くて。そんな神様になりたいんだ。
 終わりにしか輝けないなんて、そんなの、それまでの輝きが無駄みたいじゃないか。終わる時まで輝いてなかったみたいな言い方じゃないか。死ぬ時にしか気付けないなんて、あんまりじゃないか。
 だから、私はそうであってはいけないんだ。いつまでもどこまでも。完璧で綺麗で強くて、彼が望む全てを体現した存在で在りたいんだ。夏が終わっても、何が終わっても、線香花火が消えても。彼が恋焦がれる私でなければいけないんだ。
 まだ中途半端に残ってる線香花火をその場に捨てる。煙草をもみ消すみたいにローファーの裏で押し付ける。花火セットをひっくり返すように、乱暴に手持ち花火を二本取り出す。二本まとめてライターで火を点ける。そして、そのまま私はさざ波の泣き声がする方へ走り出す。
「見てて!」
 それだけ叫んで、私は波打ち際から海へと駆け出した。当たり前だけど、足が濡れる。今日の雨なんて比じゃない。潮水に浸かってる。ああ、冷たいなあ。でも、ちょっとだけ楽しいなあ。
 私の手にある花火は、まだ鋭い音を鳴らして勢いよく火の花を散らしてる。それが、水面に乱反射して辺り一帯は綺麗に輝いてる。儚いものなんていらないんだ。こういうのがいいんだ。こんな風に、ただどこまでも純粋な輝きでいたいんだ。終わりなんていらないんだ。夏はいつだって、美しいんだ。
 遠目にぼんやりと彼の影が見える。彼は線香花火の事も忘れて呆然とこっちを見ている。私は彼の方へ体を向けたまま、後ろ向きに進む。水面はくるぶしから足首へ、そしてふぐらはぎへと段々昇ってく。
「私は、ずっと君の傍にいるよ!」
 私は叫んで、制服が濡れる事も厭わないままその場で大きく動く。暴れるとまではいかないけど、いや、もう暴れるでいいかもしれない。そのくらい、とにかく動いた。回ったり、走ったり、跳んだり。少し寒くすらあった。この寒さで夏なんだと驚いた。でも、手に握ってた花火はまだ消えてなくて、うっとり眺めてたいほど綺麗で。だから、もう夏なんだって思った。だから、それに負けないくらい、私はもっと輝きたかった。彼の瞳に、花火なんかより強い光の私で映りたかった。
 どこかで足を滑らせて、私は勢いよく転んでしまった。脚はもちろん、胴体、顔、手の指先まで。体の全部が海に浸かった。海の一部になった。このまま流されるのも悪くないよなって思った時、彼が私の名前を叫ぶ声が聞こえて、体を上半身だけ起こした。怖い夢を見て飛び起きる朝のように。
「何してんの」
 彼が少し息を切らしながら言う。ここまで急いで来たのだろう。私は「分かんない」と大きく笑いながら言った。実際私も分からなかった。どうしてこんな事をしたのか、どうしてあんな事を言ったのか。でも、そうした方がいいと何となく思った。
 彼が手を伸ばす。その手に私の手を伸ばす時に花火が無い事に気が付いて、まあいっかとどうでもよくなって、彼の手を握った。彼の手は何かの拍子に折れてしまいそうなくらい細くて、少し大きくて、そして暖かかった。それが少し嬉しくて、少し悔しかった。
 八月の始まりに、八月三十二日が望んでる完璧を成してしまった。それがなんだか楽しくて、私はまた叫びたくなった。どうだ、八月三十二日。悔しいか、って。悔しかったら、私達の前に、いや、彼の前に出てきてみろって。そういう事を叫びたかった。
「どうだった?」
 私の手の平の冷たい体温を感じている、彼に訊ねる。彼は少し困惑した表情を見せて、その後で呆れた表情を見せて、でも最後には少し笑ってこう言った。
「馬鹿だと思った。僕は忘れないのに」
 
*  *  *  *  *
 
 ある地点を過ぎると、車窓から見える景色は青一色になっていた。全てが、呼吸や瞬きすらも忘れるような青だった。私も彼も停車するまでずっと外の景色に目を奪われてて、終着駅に停車してからハッとしたように電車を降りた。
 電車を降りた瞬間、乾いた強い風が私達の間を抜けてった。その風は夏風とかそういうものじゃなくて、海辺の街特有の強風だった。鼻腔を通り抜けていった時、潮の香りがはっきり分かった。それは彼も同じだったらしく、無人の改札までを歩く数秒の間に、「海だね」とゆっくり言った。改札に取り付けてあった、百均ショップで買えるような白い籠に切符を入れて、駅を出てから私はやっと「そうだね」と言った。
 海辺の街を、行く当ても無く歩いた。もちろん、最終的には海に行くんだろうというのはお互いに何となく分かってて、でも、直接海に向かわなくても少しくらい歩きたいっていうのもお互いに思ってた。
 古い家があった。かと思ったら新築に見える白い家もあった。コンビニよりは個人経営の店が似合う街並みだった。のんびりと歩く三毛猫とすれ違う為に少し道を譲った。煙草屋の奥におばあちゃんみたいな丸まった影があった。公園から子供の声が聞こえるのにそっちを見ても誰もいなかった。公道は狭い二車線だった。風が吹かなくても潮の香りはずっと滞留してた。
 家を出る前、白いワンピースと麦わら帽子を着ようとして、やっぱり制服にした。理由は分からない。なんだかその方が私らしい気がした。風が吹く度に、膝丈くらいの短さのスカートが揺れて、黒髪が優しく流された。隣の彼も目を細めてた。なぜか彼も制服だった。肘くらいまでの白いブラウスと、黒い長ズボン。どこにでもあるような、見慣れた男子高校生の制服だった。
 知らない街を歩くと、もしもここで育ってたらというのを考える。学校に行く為、私はあの道を歩いただろう。あそこの脇道の先にあるお店が気になってちらりと横目に流しながら通り過ぎただろう。夏は暑いから、建物が影を作ってくれるこの道をこうやって歩いただろう。たまに、どうしても我慢できなくてあの駄菓子屋でアイスか何かを買い食いしただろう。そういう想像が好きだった。もう一人の私が生きてるような気がした。そして、その私が死なないうちに街を離れていよいよ海に行く事にした。どこにいても同じはずの空は、なぜか私の知らない空みたいだった。
 海沿いに着くと、もう一人の私がまだそこで生きてた。そうだ、私は学校の帰りにここを通ったはずだ。少し遠回りになってでも、海を眺めながら帰ったはずだ。それで、防波堤に登って、そこから見える眼前の青色に言葉を失ったはずだ。そして、茫然としている私を、私と同じように海沿いを通って帰る為に立ち寄った彼が見つけたはずだ。そうやって私達は出会ったはずだった。
「やっぱり、逃げるなら海がいい」
 呟いたのは彼だった。私が呟きそうな言葉が彼の口から発せられた。なぜか少し悲しい気がして、私は「そうかもね」と小さく笑った。
「だけど、海はこれ以上先が無い。足を進める事すらできない。結局、どこにも行けない僕らは、優しい潮風に当てられているしかないんだ」
「今みたいに?」
 私が訊ねると、彼は「そうだね」と同じように少し笑いながら言った。彼はどこか寂しそうだった。
 彼はずっと、どこかに行きたがってる。何かから逃げたがってる。じゃあ、何から逃げたいんだろう。現実、大人、世界、理想、自己。そうかもしれない。例えば、溜まった洗濯物とか、払い忘れた電気料金とか、提出し忘れてた課題とか、保留にしてる人間関係とか。そういうもの一つで無性に泣きたくなって、悲しくなって、死にたくなって、逃げ出すような、そんな弱い彼だ。それでいいんだ。だって、前を向いて歩くなんて彼には到底不可能だと分かってるから。
 だから、私がいる。そんな不安も焦燥も後悔も希死も。全部全部吹き飛ばすような、たった一つの光がある。
「大丈夫」
 たった五音。でも、その五音は、世界を変えるにはあまりに容易な五音だ。宇宙のどんな言語を以てしても、私の声で、私の口から放たれた、私の言葉を越えるものは存在しない。彼の心とか心臓とか未来とか。そういうものの奥深く、どれだけ鋭い刃物を使っても届かないような部分を突き刺すんだ。優しい慰めとか、心からの同情とか、そういうものじゃない。これは純粋無垢な加害だ。彼を傷付けてるんだ。これから先の彼が行く末に、私は未来永劫存在し続けるんだ。彼を構築するものの百パーセントを、いや、それ以上を。私の存在で占めてやるんだ。
 私は彼の手をそっと握った。ずっと潮風にあてられてた彼の手は驚くほど冷たかった。いや、逆かもしれない。私の手が暖かかったのかもしれない。夏の陽だまりのような、このままここにいたいと、何もいらないからここで何もしないでいたいと、そう思わせるような体温だったかもしれない。
「本当にどうしようもなく死にたくなったら、私も一緒に死んであげるからさ」
 少し笑って、彼の顔を見て言った。多分、彼が一番言って欲しかったであろう言葉を。
 欲しいのはきっと毒だ。いつでも消える事ができる、一過性の希死と分かってても瞬間的な昂揚で死ぬ事のできる毒。ほんの少し気が触れた時、「今かもしれない」と思った時、そういうふとした時にふと死ねるような毒。それを持ってるだけで、人間は救われる。だから、私がそれになる。彼を殺せる毒に。いや、これからをどうしようもなく生き続ける彼を、どうしようもなく蝕んで殺し続ける毒に。
 救いなんかじゃない。一緒に地獄に落ちてあげるんだ。地獄の底でも手を取り合って、優しく笑い合うんだ。そしてそれが救いになるんだ。
「八月三十二日は、全人類から忘れ去られてる。だから、見つけて欲しいと強く願ってる」
 彼がまた、潮風に目を細めながら言った。
 八月三十二日は、一体何の象徴なのか。私にはまだ分からない。でも、分からなくてもいいと思ってる。見付かっても見付からなくても、どっちでもいいと思ってる。私が何より大切なのは、彼と過ごすこの夏だけだから。終わりをごまかしたくて輝こうとするような、終わりから逃げてどこか遠くを目指すような、そんな夏を彼に残したいから。何度だって言いたい。彼がこの先忘れられないような、そんな神様になりたいんだ。
「今日は八月二十日だね」
 彼が言った。私はそれに「そうだね」と優しく肯定して、握る手には力を込めた。彼は一度だけこっちを見て、私と目を合わせた。そしてまた目を海に戻す。彼の瞳に、青が映る。その横顔が、どこか悲しかった。まるで、ありふれた夏を描いた映画の、どうしようもないバッドエンドを見てしまったような、そんな表情だった。
「今日の日記には、何を書くかもう決めてあるんだ」
 私も彼も、今日は何も持ってきてない。切符を買えるだけの最低限の資金だけ。それ以外には携帯も本も教科書も鉛筆も、何も持ってない。だから、彼は家に帰ってから日記を書くんだろう。
 そっか、彼は家に帰るんだと、ふと思った。結局は明日の事を考えてるんだと。死ぬなら今日以上に完璧な日は無いと思うのに、そうしないんだ。もしも私が「一緒に死んじゃおっか」と言ったら、どんな反応をするだろう。優しく微笑んで、このまま手を繋いだまま、ゆっくりと海に向かって歩くだろうか。茹だるような快晴と気温だ。今日はこのまま海に浸かってもそんなに冷たく感じないかもしれない。
「当ててあげよっか。『八月二十日。海に行った。今日も探し物は見つからない』でしょ」
 八月三十二日なんて、見付からなくていい。彼が私を見てくれるなら、ありもしないものを探し続ける事だって悪くない。
 終わって欲しくなくて、なのに、終わる時にだけ輝いて、どこにも行けないような、そんな八月三十二日なんていらない。私は、彼とずっと一緒にいたい。
「ちょっと違う」
 だから、その先を言わないで欲しいと思った。その続きを聞いてしまったら私は、もう彼といられなくなるような気がしたから。
 寂しがりで、完璧でありたくて、見つけて欲しいと願ってて、忘れて欲しくないと切望する。そんな八月三十二日なんていらないのに。私は、君の傍にいるのに。
「『八月二十日。海に行った。探し物は、すぐ傍にあった』」
 彼が、私の目を見て言った。
 彼の瞳には、彼がずっと探していたものが映ってる。
 
 
*  *  *  *  *
 
「本当はね、君の神様になりたかったんだよ」
 いや、もう「本当」かどうかも分からない。でも、そういう事を一々言語化するのも間違ってる気がして、私は表面上の感情だけを簡易的な言葉にした。彼はそれを、煙を燻らせながら聞いていた。屋上には煙草欲有の匂いがうっすら立ち込めている。
「私にも一本ちょうだい」
 屋上を囲むようにして建てられた柵に、肘を付いて景色を眺める彼に言ってみた。彼は長ズボンのポケットから箱を取り出し、更に箱の中から煙草を一本取り出す。パッケージには「10mg」という表記があった。彼は十ミリずつ死に近付いてるらしい。そんなまどろっこしい事しなくても、柵を乗り越えて足を数歩踏み出せばいいのに。ミリ単位じゃなくて秒読みで死ねるのに。思ったけど言わなかった。いつだって死にたいのに、当たり前に死ぬのは怖い。でも、煙草の吸い過ぎで死ぬなら「しょうがない」って言える気がする。もうどうしようもなくて、諦めが付きそうな気がする。
 彼から受け取った煙草を軽く加え、ライターで点火してみる。いつかの線香花火を思い出す。煙草は、線香花火よりも気兼ねない。綺麗な瞬間すら、終わりを迎える事すらなく死ぬから。まあ、それは私も同じかもしれないけど。
 煙を吸い込んだ私が咳き込んだのを、彼は横目に黙って見てるだけだった。なんだよ、少しくらい笑ってくれよ。「馬鹿だなあ」って呆れてくれよ。というかこいつ、普通に吸い慣れてやがる。なんだよ、何も知らなかったのは、私だけかよ。
「つまり、八月三十二日に煙草は相応しくないって事だと思うよ」
 彼はまたつまらなさそうに煙を吐き出しながら言った。一口分無駄にしただけの煙草を足元に捨て、ローファーの裏で踏み潰す。
「最初におかしいなって思ったのは、自分の名前が分からなかった事だった」
 私が海ですっ転んだあの日、彼は私の名前を呼んだ。でも、その名前が私には聞き取れなかった。そもそも本当に私の名前なのかも知らない。それから、そう言えば私の名前ってなんだろうって思って、私は私の何も知らないんだなって思った。私の家は、私がいつも帰ってたあの場所は本当にあるかどうかも。思い返してみれば、私が家にいた記憶は、彼に声をかける前日のものしか無い。つまり私に、八月三十二日に必要な事だからなんだって思えば納得する。彼と過ごす夏は八月三十二日に相応しくて、そうする為には彼に声をかける必要があって、だから前日に綺麗な星を眺める必要があって。それよりも前の事もだ。入学してすぐに期待していた「何か」が消え去った事すらも。全部、必要だったから。
「確かに私は、皆に忘れられてたんだ。だから、せめて君には覚えてて欲しかった。君の神様になりたかったんだよね」
『八月三十二日が、したかった事をする』
 なんでもよかった。八月の終わりに、夏の終わりに、
『八月三十二日は、完璧でありたいんだ』
 終わるに相応しいような完璧な一日でいれたら、それでよかった。
『終わる時にだけ輝くのは、少し悲しいけど、綺麗だね』
 そんな事、思ってない。終わりたくはない。
『八月なんか、夏なんか、本当は終わって欲しくないんだよ』
 でも、夏は毎年のように終わるんだ。それを、いつだって痛感する。当たり前なのに。沢山ある。何かの拍子にしか、その度にしか思い出せない事。形も色も正体も分からない「何か」が始まって、そのまま何も分からないままそれが終わってく事。
『八月三十二日は、全人類から忘れ去られてる。だから、見つけて欲しいと強く願ってる』
 期待してるのかもしれない。次こそはって。どうせ忘れられるのに。
『馬鹿だと思った。僕は忘れないのに』
 どうせ君も、私の事を忘れるのに。
「でも、忘れて欲しくないんだ。君には、君だけには忘れて欲しくないんだ。だから、君の傍にいたかった。君の何かになりたかった。君の全てになりたかった。君の人生になりたかった。君の生き様になりたかった。君の死に様になりたかった。君の感情になりたかった。君が考えているものになりたかった。君が見ているものになりたかった。君が聴いているものになりたかった。君が匂うものになりたかった。君が触れるものになりたかった。君が感じるものになりたかった。君の世界になりたかった。君の言葉になりたかった。君の文字になりたかった。君の色になりたかった。君の線になりたかった。君の詩になりたかった。君の曲になりたかった。君の書く小説になりたかった。君の聴く音楽になりたかった。君の描く絵画になりたかった。君のヒーローになりたかった。君の悪役になりたかった。君の物語になりたかった。君の想い出になりたかった。君の記憶になりたかった。君の時間になりたかった。君の夢になりたかった。君の未来になりたかった。君の過去になりたかった。君の足枷になりたかった。君の残夢になりたかった。君の悪夢になりたかった。君の光になりたかった。君の闇になりたかった。君の朝になりたかった。君の夜になりたかった。君の幸福になりたかった。君の不幸になりたかった。君の善意になりたかった。君の悪意になりたかった。君の強さになりたかった。君の弱さになりたかった。君の癒しになりたかった。君の痛みになりたかった。君を生かしたかった。君を殺したかった。君の初めてになりたかった。君の最後になりたかった。君の恋になりたかった。君の愛になりたかった。君の理由になりたかった。君の期待になりたかった。君の信頼になりたかった。君の驚愕になりたかった。君の後悔になりたかった。君の絶望になりたかった。君の恐怖になりたかった。君の悲哀になりたかった。君の怒りになりたかった。君の喜びになりたかった。君の我儘になりたかった。君の執着になりたかった。君の指先になりたかった。君の声になりたかった。君の涙になりたかった。君の心臓になりたかった。君の心になりたかった。君の心に住み付きたかった。君の心を埋めたかった。君に深く傷を付けたかった。君に消えない瘡蓋を作りたかった。君の思想になりたかった。君を狂信者にしたかった。君の呪いになりたかった。君の救いになりたかった。君の居場所になりたかった。君の逃げ先になりたかった。君の証明になりたかった。君の翼になりたかった。君の指標になりたかった。君の価値観になりたかった。君の目印になりたかった。君の栞になりたかった。君の酸素になりたかった。君の一等星になりたかった。君の拠り所になりたかった。君の特別になりたかった。君の意味になりたかった。君の背負うものになりたかった。君の探すものになりたかった。君の定義になりたかった。君が観測するものになりたかった。君の偶像になりたかった。君の青春になりたかった。君の夏になりたかった。君の私になりたかった。私は、君の神様になりたかった」
 そうだ。私は。
「私は、八月三十二日になりたかった」
 彼は最後に煙を深く吐き出すと、足元に落とした。それを靴の裏で踏み付ける。
「明日の日直は僕だ。黒板には僕の名前と、明日の日付を書いた」
 日直は前日に、自分の名前と次の日の日付を書かなければいけない。私を見据えている彼が、何と書いたのか。明日の彼は、私を覚えているか、忘れているか。
「知りたい?」
 その質問に、私は少し迷って、でも首を横に振った。分かり切ってる事だ。彼がどうするか。彼がどうであれ、明日にはどうなってるのか。
 ああ、毎年のように夏は終わる。私が、八月三十二日がいたはずなのに、誰も彼もそれを忘れてく。悲しいなあ。完璧な一日でさえいれば、忘れられないはずだと思いたかったのに。
 彼の顔を見る。その瞳には、まだ私がいる。
 私は彼に向かって、君に向かって。こう言いたいんだ。
「君は、せめて君だけは。存在しないあの夏の日に恋焦がれる君のままでいてね」