何をするにも、適当な曲をかけるのが僕の癖だった。
例えば勉強をする時、例えば仕事をする時、例えば曲を創る時。「せめて、この曲が鳴り止むまでは」。そう思いながら、無理やりにでも自分を奮起させている。
その日僕は、引っ越しの準備をしていた。高校を卒業し、変わらず地元で働き続けて十年が経つ。多大な不安と僅かな寂しさを抱いて、僕は明日、ここじゃない遠くへと向かうらしい。その実感と覚悟が未だ生まれずにいる。
棚の最深部を漁っていると、高校時代の学ランが出てきた。手触りやサイズ感に「懐かしいな」と思い感傷に浸りたくなったが、スマホのスピーカーホンからはまだ曲が流れている。我慢して、棚のさらに奥へと手を伸ばそうとした、その時だった。
ふと、学ランのポケットから何かが滑り落ちた。手の平より少し大きいくらいの薄い何かが、小さく乾いた音をたててフローリングの床に落ちる。思わず、視線だけが追いかけるようにそれを捉えていた。
床にぱたりと寝そべったそれは、桜の花弁のマークが印刷された桃色の封筒だった。よく見ると、右下の方に小さく文字が書かれている。
『アキ君へ』
その時、曲が鳴り止んだ。僕の名前だった。
* * * * *
拝啓、アキ君へ。
なんてね。こんな堅苦しい書き方、私には似合いませんね。せっかく手紙を書くのだから、「拝啓」と書いてみたかっただけです。
アキ君がこの手紙を読むのがいつになるか、私には想像できません。家に帰ってからかもしれないし、明日、明後日、一週間後、一月後、一年後。もしかすると十年後だったりするかも。個人的にはできるだけ早い方がいいなぁと思ってます。
あ、最初に伝えなきゃいけない事があるのを忘れてました。
卒業おめでとうございます。お互いに。
つまり、どれだけ早くても、アキ君がこの手紙を読むのはこの学校の卒業生となった後です。多分、私達が高校生として会えなくなった時。
せめて連絡先くらい交換しとけばよかったなぁとなんとなく思います。そうすれば、こんな風に言いたい事を一遍にまとめなくてもよかったのに。
小さな小さな軽音部の、その二人しかいない部員という事で、私と君は三年間を共に過ごしました。部室以外にはろくに居場所も無かった私達でしたね。私達にとって「世界」とは、家とか教室なんかではなく、きっとこの部室の事を言うのでしょう。
これから先、私達はこの小さな世界を跳び出して別の人間になるのだと思います。あるいは逆に、何者にもなれないのか。なんとなくだけど後者のような気がしてます。創作に逃げるような弱い人間が、そう簡単に何者かになれるとは思えないから。
さて突然ですが、アキ君はあの夏の日の約束を覚えているでしょうか。覚えているならそれでいいです。その約束が果たされる日を楽しみにしています。忘れてたら……、とりあえずグーパンは覚悟しててください。
それとは別に、ここでもう一つ、新しく約束をして欲しいのです。いや、約束というより願望や祈り、ひょっとするとワガママに近いかもしれません。
どうか、アキ君はアキ君のまま、そのままの君でいて欲しいんです。私も私のままでいたいと思っています。
もしも、もしもの話。この手紙を家に帰ってすぐに読んでいたら。今すぐ学校に戻ってきて欲しいです。閉校の時間まで私は待っています。
じゃあ一日置いて、次の日に読んでくれたとしたら。いつも部活が始まる午後四時半。やっぱり私は君を待っています。学校には入れないと思いますから、正門前の桜の樹の下で。
本当は毎日でも待っていたいのですが、そういうわけにもいかないと思います。なので、午後四時半という時刻に予定の無い時。私は、あの桜の樹の下で待っている事に決めました。
何が言いたいかというと、つまり。弱い私が弱い私のままのうちに、弱い君が弱い君のままでいられるうちに、私を迎えに来て欲しいんです。
今日、私は君を待つでしょう。明日も待つと思います。じゃあ明後日は? 一週間後、一月後、一年後、十年後は? 確かな事は何も言えません。私が君を待つ事を止めたその時、私はきっと変わってしまったのだと思います。あるいは、近いうちにこの手紙を読んだ君がここに来ようと思えないのなら、君はきっと変わってしまったという事なのでしょう。変わる、という事が少し悲しく思えますね。
君がこの手紙を読むのがいつになるか分かりません。だけど、君が学校に走り出して、その先に私がいたのなら。その時初めて、私達はこの世界を跳び出せる気がしています。二人一緒なら、どこにだって行ける気がします。
今、この手紙は卒業式の前日の夜に書いています。明日、卒業式の後でこっそりと君の学ランに入れる予定です。もっとも、よくお腹を下す君がトイレに立つと予想してですけど。早く治るといいね。あ、ちなみに今日、日付を間違える癖のある君は「卒業式って明日?」「明後日だと思ってた」と絶望した顔で言っていました。これも早く治るといいね。でも私は、君のそんなところも(黒く塗り潰されている)。なんてね。
一番言いたい言葉はまだ書かない事に決めました。また会えた時、あるいは、あの夏の日の約束が果たされた時、直接言えたらいいな。何も変わらない、私達のままで。敬具。(使い方あってる?)
* * * * *
人が人のどこを最初に忘れるか。その人の声らしい。でも、僕はその真逆だった。
彼女の声は、歌声は、今でも鮮明に思い出せる。なのに、それ以外がまともに思い出せない。彼女の姿が、思い出せない。
高校の正門前には大きな桜の樹が植えられている。根元に立って枝を見上げると、数年前よりも花弁が近い距離にあるような気がした。それなりに身長が伸びた証だろうか。
少し丈の合っていないコートの袖口を捲り、腕時計を確認する。午後四時二九分五五秒。、五六、五七、五八、五九。
部活動の開始を告げる鐘の音が響いた。
「……あの」
生暖かい春風が吹き、それに流された桜の花弁が緩やかに僕の頬を掠めていった。
腕時計から顔を上げ、声のした方に顔を向ける。
そこには、スーツ姿の女性が立っていた。
その一瞬で、僕は脳みそを素早く回転させた。何を言うべき? どうするべき? 僕と同い年にしては少し老けていないか? 彼女は、こんな顔立ちだったか?
パンクしそうなほどに思考を巡らせている僕に向け、女性はゆっくりと声をかける。
「先ほどお電話くださった方でしょうか?」
そう言われ、僕ははっとした。彼女じゃない。どうやらこの学校の教員らしい。
「……そうです。十年前、ここを卒業した者です」
少しの脱力感と、少しの安心感。その両方を小さな息に込める。教員は「そうですか」と愛想笑いを浮かべて言った。
「ここで立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
次の楽曲に使う為の取材。そういう建前を使って学校に電話したところ、二つ返事で了承の意が返ってきた。わざわざ正門にまで迎えを寄越したのもそのせいだろう。自分の名前を使うのは好きじゃないが、こうでもしないと学校には入れないと思った。
「まさかアキさんがこの学校の出身だったなんて知りませんでした。息子が大ファンなんです。あの、ご迷惑でなければあとでサインとか……」
「もちろんです。こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ございません。お忙しい時期なのに」
「いえいえ、むしろいつもより暇なくらいですよ。最近も卒業生が訪れたりして」
「卒業生でも気軽に来れるものなんですか」
「ええ、電話で事前にアポを取ってくだされば」
このネット社会、顔を出さずに音楽でやっていく人間なんていくらでもいる。僕もそうだ。ライブ以外で顔を出した事はない。つまり、名前を出さなければ僕が「アキ」だと知られずに済んだのだ。溜め息が零れそうになる。
首掛けの許可証を貰い、校内を案内するという教員の厚意を断って学校を周った。大きく変化はしていないものの、やはりある程度は僕の知らない部分が見え隠れしている。教室の位置が変わっていたり、僕の時代には使われていなかった教室が使われていたかと思えば、逆に使われなくなった教室もあったり。教室を覗いて中の高校生と目が合う度、不自然に視線を逸らした。
高校を卒業してしばらく、僕は高校生とすれ違いそうになる度に不自然に距離を置いた。心の中で未だ「高校生の自分」を終わらせられなかったから。新しい自分を始められなかったから。あるいは、彼女の言葉を借りれば「弱い自分」だったから。仲が良いわけではない同級生を遠目に見つけた時のように、「高校生の自分」が本能で逃げていた。
制服姿の高校生とすれ違う度、あの頃の自分が込み上げてくる。心の中で、飼い慣らせない「高校生の自分」が暴れている。大人になり切れない自分に辟易とする。
幸いな事に、学校の中に僕の存在を認知している人間はいなかった。さっきの教員にもサインと引き換えに他言無用を約束したから、恐らくあの人以外に知っている人間はいないだろう。
校舎の一番奥、長い廊下の突き当りに辿り着く。昔から人通りの少ないこの場所は、いつもひっそりとした空気感に包まれている。どこか遠くから放課後の喧騒が聞こえる。
扉の上には「軽音部」と書かれたプレートがかかっていた。教室の中からは何も聞こえてこない。誰もいないのだろうか。いや、そもそも部員なんていなくて、ただ教室が放置されているだけかもしれない。その想像をする方がよっぽど容易だ。僕は勝手にそう決めつけ、ノックもせずに遠慮なく扉を開けた。
部室は、何も変わっていなかった。ドラムセットがあって、キーボードがあって、ギターとベースが必要最低限だけ立てかけられていて。扉を開けた直後、身を包んだ空気に僕は本気で、「あの日々」の続きだと感じた。当たり前のように、「高校生の自分」がここにいた。
でも、そんな僕を一瞬で現実に引き戻す光景が目に留まった。部室の隅には普通の机が二つ並んでいて、その内の一つに女子生徒が座っていたのだ。
女子生徒は僕に気付き、こちらを見る。僕と目が合う。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。あの日々と全く同じ彼女が、制服姿でそこにいたから。
「……ミヲ」
「……アキ?」
* * * * *
「たった二文字で伝わる事を、わざわざ五百文字にする事が作詞の楽しいところなのかもしれない」
ある夏の日、ミヲが「終わったぁ」と体を伸ばしながら言った。机の上にノートを広げて何やら書き込んでいたらしい。きっと作詞だろう。
ミヲは桜の花弁のマークが印刷された桃色のヘッドホンを外し、首元にかけた。思えば、何かをする時に「せめて、この曲が鳴り止むまでは」と自分を奮起させる癖は、彼女を真似して習慣化したものだった。
「いい事言うじゃん」
その時の僕は、アンプに繋いでいないギターを手にしていた。部室の床にあぐらをかき、壁にもたれながらピックで弦を弾く。
「でしょでしょ。まぁ人の言葉なんだけど」
「なんだよ。誰の言葉だよ」
「それくらい自分で調べたら?」
仮にも創作をする人間が他人の言葉を使えば、それは盗作になるのではないか。言おうかと思ったけど、部室に充満する熱気に当てられて口を閉じた。ただひたすらに暑かった。部室の窓は開いているものの、風が吹くような気配は微塵もない。
傍には部費で買った古臭い扇風機が置いてあるが、ミヲはそれの首を回さずに一人で独占していた。風に流されてカサカサと、ノートのページが擦れる音だけが耳に心地いい。
「ここからは私の考えだけど、逆に言えば二文字で伝えられない事も五百文字にすれば伝えられるのかもね」
「例えば?」
「例えばって、それは、色々あるでしょ」
不要になった歌詞のページをゴミのように丸めながら、彼女が言葉を詰まらせる。
彼女が言いたい事は多分分かる。僕が分かっているという事を、彼女は分かっている。お互いに知らないふりをしていた僕らは、きっと同罪だった。
僕は何というべきか答えあぐね、結局「まあ」と口を開いて適当な言葉を紡いだ。
「ただ二文字で伝えるより、五百文字を音に乗せた曲を渡す方がロマンチックだったりするのかもね」
「そう思う?」
「場合による」
「なんなの」
「口で言うより、黙ってCDを押し付ける方が簡単な人間もいるよ」
「そうかもね」
ミヲは少し笑いながら、ノートのページで紙飛行機を折っていた。変わらず僕はピックを手になんとなくギターを弾く。金属の糸が揺れる音がする。窓の外からは耳を劈く蝉時雨が重く降り注ぐ。ただひたすらに、暑い。
「ねぇ、アキ」
ふと顔を上げると、ミヲがこちらを向いていた。扇風機に流された長い黒髪が優しくなびいている。ミヲは首元のヘッドホンを掴んでいた。僕は知っている。彼女が真面目な話をする時、ヘッドホンに触れる癖がある事を。できるだけおちゃらけていたい彼女が、我慢して真剣な言葉を発する時。
「一つ、約束しよう」
「何を」
「十年後くらいかな、またここに集まろうよ」
机にあるミヲの作詞ノートが、扇風機の風に流されて勢いよく捲れていく。とあるページに彼女の字で書かれた、「ラブソング」という文字が目に入った。
「どうかな」
「なんでよ」
「十年後なんて、僕らはどうなってるか分からないんだからさ」
「偉大な音楽家になってそれどころじゃないって話?」
「そんなわけないだろ」
僕は自嘲気味に少し笑って言った。誰といるのか、どこにいるのか、何をしているのか。そういう、分かりたくとも分からない、分かりたくないけど分からなきゃいけない事はあるのだろう。変わらないものなんて何も無いという、酷いくらいに当たり前の事実だけが小さくある。
「大丈夫に決まってるんじゃん。私達なら」
ミヲはその言葉を、大きく笑って言った。大切なものを全て理解しているような、何も疑わないような笑顔だった。
純朴だった僕は、たったそれだけで救われたような気がしたのだ。この先どうなろうと、偉大な音楽家になろうとなれまいと、彼女の言葉だけを強く抱きしめて生きていたい。そう、強く思った。あの時の笑顔を思い出せない事が、今更のように無性に苦しくなる。
「卒業式の日、は無理だろうから、その次の日。またこの部室に来てよ」
多分、僕は頷いたのだろう。「そうなればいいね」と笑いながら。その時の嬉しそうなミヲの笑顔を覚えていたら、今とは違う僕だったのだろうか。
「十年後の三月十日、またここで。その時に君アキと二人で聴きたい曲があるんだ」
「どんな曲?」
「それを今知ったら意味ないでしょ。それに未完成だし」
「君が創った曲って事?」
僕が訊ねると、ミヲはまた嬉しそうに笑って頷いた。
「十年後の私達に向ける、今の私からの歌」
ミヲはノートの新しいページを開き、そこに「作詞:ミヲ」「作曲:ミヲ」と書く。そして少し迷った後で、「うん」「そうだね」と呟いた。ヘッドホンが陽を返して、桃色に鈍く光っていた。
「曲名は『タイムカプセル』。たったこれっぽちの言葉を、五百文字にしてみるよ」
そう言って、ページを折って作った紙飛行機を開いていた窓に向かって優しく放る。
紙飛行機が外に飛び出した瞬間、狙ったかのように不快な湿度を持った夏風が吹いた。
彼女の言葉が、緩やかな速度で青空へと消えていく。この小さくてどうしようもない世界を飛び出して、どこか遠くへと運ばれていく。
* * * * *
「ライブに何度か行った事があるんです。なので顔は知ってました」
「なんか恥ずかしいな。面と向かって言われる事ってあんまり無いから」
ノートにサインを書く。名前を訊ねると「ルルです」と言うので、最後に「ルルさんへ」と書き足した。彼女はこの高校の二年生で、つまり四月からは三年生になるらしい。
「軽音部は君一人なの?」
部室には、スピーカーで緩く音楽がかかっている。僕でも知っているような有名シンガーの曲だった。
「はい。私が入部した時に先輩はいなくて、後輩も入ってくる気配はありません。つまりずっと一人なんだと思います。あ、ありがとうございます」
ノートを渡しながら「そっか」と呟く。部室の隅に目をやると、木製のラックが目に入った。僕がここにいた時には無かったものだ。最上段にだけいくつかのCDが立ててあって、僕のCDもある。そこ以外には普通に書類があるだけだった。
「アキさんがここにいた時、やっぱり人は多かったですか? 楽器ももっと沢山あったりとか?」
「いや、僕が入部した時部員は二人だけだった。楽器はもっと少なかったかも」
「でも私は楽器を買い足したりとかした事ないんですけど」
「近くの商店街に楽器屋がある。よくあそこに行って買いに行ったよ」
「これとか」と言って、部室の隅にあったギターを一つ手に取る。黒色を基調にした、ボディの少し剥げたエレキギター。少ない部費を上手く活用しようと、何度も店に通って熟考した末に購入したものだ。
「今も音楽をやってるのは、やっぱりこの部活に入ってたからですか?」
「言い方の問題だよ。音楽以外には他にやれる事もできそうな事もなかった。ネガティブな話だ」
「それでも、変わらずに音楽をやっているのは凄いと思います」
ルルさんは真顔で言った。あまり表情の変わらない人だと思った。ミヲとは真逆だ。
変わらずに音楽をやっている。客観的な事実だけを見ればそうかもしれない。でも、その中身はきっともっと複雑だ。僕は僕が変わらずにいる自信が無い。もし、ここに来て彼女がいたら、その証明になったかもしれない。報われたと思えたかもしれない。そんな、淡くて不純な動機だけでここにいる。
壁掛けの時計に目をやる。もうすぐで部活の終わる時間だ。もう、彼女はここに来ないだろう。
僕が帰ろうとしている雰囲気を感じ取ったのか、ルルさんは立ち上がって見送る準備を始めた。仮にも同じ部活の、たった一人の後輩。僕はふと思い立って、彼女にこんな事を提案してみた。
「もしよかったら、一曲くらい何か弾き語りしてみようか?」
僕の言葉にルルさんは少し目を開いて、そして何度も小刻みに頷いた。その様子がどこかおかしくて思わず笑ってしまう。ルルさんはスマホを操作し、部室にかかっていた音楽を止めた。
傍に置いてあったギターを手に取る。この場所で何度も使ったエレキギターだ。懐かしくて、だけど、少し悲しい。
ルルさんのリクエストで、割とマイナーな曲を歌う事にした。最初のアルバムに入っている、何でもないようなバラードだ。盛り上がるわけでもなければ、涙を誘うような何かがあるわけでもない、ただ穏やかな曲。歌い終わった後、部室に一人分の拍手の音が小さく響いた。
「本当にありがとうございます。私って贅沢者ですね」
「こんなので贅沢って言ってたら、この先の人生もっと贅沢だよ」
「そういうものでしょうか」
彼女の言葉に頷こうとして、そのたった一回の頷きが何の根拠も無い、中途半端なものだと気付いたから止めた。彼女がこの先どうなるかなんて、僕には計り知れない。たかが僕の弾き語りごときが、彼女の人生の一番の幸福になる事は否定できないのだ。そうならなければいいと思う自分と、そうなってくれればいいと思う嫌な自分がせめぎ合ってしまう。
ルルさんはスマホを操作し、また部室に曲を流す。余韻に浸るかのように僕のアルバムが流れ始めた。
「この贅沢を山分けしたいくらいです」
「友達とかと?」
「友達もそうですけど、もう一人いるんです」
ルルさんはそう言うと、ラックに手を伸ばして僕のCDを取り出す。そして、穏やかな表情でこう言ったのだ。
「実は昨日も、ここの卒業生だっていう方がいらしたんです。その方もアキさんのファンだったみたいで、今日来てたらって思いました」
一度だけ、心臓が強く跳ねたのが分かった。
その後で、今度はバクバクと小刻みに鼓動する。まさかと思った。いや、そんなはずがない。
「……その人って、どんな人だった?」
「綺麗な女性としか。ここの軽音部にいたらしいんですけど」
ルルさんの言葉に、僕は一瞬だけ我を失ってほんの少し後ずさった。弾みで、傍に立てかけてあったギターが大きな音を立てて倒れる。
僕がどんな表情をしていたのかは分からない。でも、ルルさんが驚きと困惑が混じった表情で僕を見つめていて、それで僕ははっとした。
「……もしかして、その人に何か用があったんですか?」
僕は少し迷い、小さく頷く。その後で、「お願い」と彼女に向かって言った。
「何でもいい。何か、特徴を覚えてたりしない? 桜の花弁のマークが入った桃色のヘッドホンとかしてなかった?」
「いえ、ヘッドホンはしてなかったと思います。……あ、でも」
ルルさんは何かを思い出したように、自分の耳を指差しながら口を開く。
「ピンクのイヤホンは耳に差してました。無線イヤホンです。ちゃんと見たわけではないので確証はありませんが、言われてみれば桜のマークもあったような気がします」
僕は困惑していた。万が一、仮にそうだとしてもありえないだろう。十年前に約束したのは今日のはずだ。十年後の三月十日に、またここで。彼女の言葉は一言一句間違いなく覚えていて……。
そこまで考えて、僕は思わず顔を顰めた。とある一つの可能性に行き着いてしまったから。
「……ルルさん、今日って何日だっけ」
「え? 今日は三月十一日、ですけど」
溜め息を吐こうとし、大きく息を吸う。でも、何も関係ないルルさんの前でそれは違うと思い、寸前で止めた。代わりに、気持ちを切り替えて安心させるような微笑みを浮かべてみた。実際にそうできていたかどうかは分からないけど。
倒れていたギターを元に戻す。ボディが大きくひび割れていた。この程度なら演奏に問題はないだろうが、部外者の僕が壊した備品だ。弁償するべきだろう。
その後、ルルさんは何を悟ったか分からないが、僕に向かって昨日の出来事を細々と語ってくれた。
「昨日、部室の扉を開けたら知らない女性がいたんです。CDラックに立ててある、アキさんのCDを見ているようでした。その方はここの卒業生で、この軽音部に所属していたらしいです。『アキが好きなんですか』と訊ねたら、少し迷ったような表情を見せた後で『うん、好きかな』と教えてくれました」
ルルさんはそう言ってCDラックの方に向かい、手に持ったままだった僕のCDを戻す。手持ち無沙汰だったのか、あるいは何かをごまかす為か、しばらくラックを一通り眺めていた。
「その後、その方はしばらく部室にいました。ここ最近の学校生活についてとか、アキさんの話とか、他愛もない話をしていただけです。それで、部活終了の時間になって、その人は『さよなら』と言って出て行きました」
「十年後の三月十日、またここで。その時にアキと二人で聴きたい曲があるんだ」。そう言った彼女の声だけは、今でも鮮明に思い出せる。
学ランに入っていた手紙はともかく、この約束だけは無下にしちゃいけなかったはずだ。僕らが誰といようと、どこにいようと、何をしていようと。例え彼女が来なかったとしても、僕は昨日ここに来るべきだった。
その時、部室の扉がノックされた。ルルさんが「はい」と言うと扉が開かれる。さっきの女性教員だった。
「もう下校時刻になりますので、ルルさんもアキさんもそろそろ……」
「……そうですね。長居してしまい申し訳ありません」
そう言って僕は、最後に部室をちらりと一瞥してから廊下へと出た。女性教員に「あ、それでサインの方をお願いしても」と言われた、その時だった。
「アキさん」
ルルさんが突然、僕の名を呼んだ。その視線はさっきから変わらずラックに注がれている。
「あの、私、こんなの知らないんですが……」
そう言いながら彼女は、ラックから一枚の封筒を取り出した。
桜の花弁のマークも無ければ、桃色でもない。ただ、右下の方に小さな文字が書かれている。
『アキくんへ』
その時、部室にかかっていた曲が、鳴り止んだ。
ギターを壊したお詫びに、新しいギターを買うから好きなものを選んで欲しい。ルルさんにそう言ったところ遠慮されてしまった。「演奏に問題はなさそうですし、こういう傷はカッコイイですから」と。僕がミヲと一緒に買ったギターだから気を遣ってくれたのだろう。
でも、それでは僕の立場がない。なんとかギターを買わせてくれとお願いしたところ、部室にはないチューナーを一つ買うという事で手打ちになった。
ミヲと何度も行った、いつもの楽器店に入店する。店内はちっとも変わっていなくて、部室に入った時と同じく、身を包んだ空気に「あの日々」の続きを感じた。当たり前のように、「高校生の自分」がここにいた。
店には様々な楽器が並んでいて、ルルさんはそれをキラキラした目で見ていた。そんなルルさんの様子を、僕は近くにあったソファに座って眺めていた。最初こそそんな顔もするんだなと思っていたが、次第にミヲの姿を重ねている自分に気付き、はっきりと自己嫌悪した。
「ごめん、ちょっとトイレ」
ルルさんにそれだけ伝え、僕はトイレに向かう。三年間通った楽器店の、何度も入ったトイレだ。大きくは変わっていなかったけど、内装が少しだけ違っていた。十年前ではなく、今流行しているアーティストのポスターが張られている。
個室の中で大きく溜め息を吐く。僕はどうして部室に行ったのだろう。ミヲはどうして、部室に来たのだろう。
学ランから出てきたあの手紙を見付けなければ、僕は部室には行かなかった。約束なんてもうとっくに忘れていた。それが普通だろう。いや、普通だと思いたいだけかもしれない。そうやって正当化しないと、ミヲに顔向けできないから。
もしもあの日、卒業式の日。家に帰って学ランから手紙を見付けて、それを読んだとして。僕はすぐに学校へと向かっただろうか。多分向かっただろうなと思う。過去に戻れるなら、結果がどうであれミヲの元に走りたい。でも、今目の前にあるのはどうしようもないような現実だけだ。
ポケットから封筒を取り出す。多分、昨日部室を訪れたというミヲが書いたものだろう。どうしてこんなものを残したのか、どうして僕が部室を訪ねる事を知っていたのか、一体、何を書き残したのか。怖くて開けられない。開けたいかどうかすらも分からない。そもそも、僕は彼女に会いたいのかどうかすら。
あの高校を卒業して、ミヲはどのくらいの期間僕を待ってくれていただろう。どのくらいの時間をかけて、僕を忘れていっただろう。できるだけ早くであってくれと、今更のように遅すぎる事を思う。
ミヲはどうして部室を訪れたのだろう。僕が忘れていた約束を覚えていたというのか。それで、僕と聴きたい曲を聴く為だけに待ってくれていたのだろうか。
僕らは変わらずにいられたのか。僕らは会うべきだったのか。分からない。僕の事も、彼女の事も、過去も今も、世界の事も。何も、分からない。
「多分、違ぇんだよなぁ……」
顔を抑えながら、小さく呟いてみる。自分を守る為に。
違う。僕がどうとか彼女がどうとか、そういう事じゃない。変わらないものなんて何も無くて、世界はどうしようもなく広くて、守られなかった約束があって。酷く単純な事が小さくあるだけだ。月並みだけど、そういう運命だったんだ。もう、いいんだ。
手を洗ってトイレを出る。ルルさんの元へ戻ると、彼女は同じ場所でまだ楽器を見ていた。
「見てるだけで楽しいの?」
「はい、とても。大袈裟な表現ではなく、一週間くらいならここに住めます」
「いいのがあったら買うよ?」
「それは結構です」
頑ななルルさんに少し苦笑いをし、またさっきと同じソファに座る。まだチューナーも買ってないのに。早く帰らなくていいのだろうか。
そうやってしばらくした時、ふと、ソファの上に何かが置いてあるのが目に留まった。さっきは無かったものだ。これは、桃色の。
「……イヤホン」
僕が呟いたのと、ルルさんが「あ」と声を漏らしたのはほぼ同時だった。
「アキさんそれ」
「え?」
イヤホンを手に取ってみる。そして、気が付いた。桜の花弁のマークが印刷されている事に。
「それ多分、そうです。昨日の女性が付けてたものです」
まただ。また、一度だけ心臓が強く跳ねた。その後でまた、バクバクと小刻みに鼓動し始める。
ソファの上には右耳用のイヤホンしか置いていなかった。だからまず、僕は咄嗟にもう一方のイヤホンを探した。しかし、周辺に左耳用のイヤホンは見当たらない。
「誰が置いていったか見てない?」
早口でまくし立てるように訊ねる。しかしルルさんは首を横に振った。
「私はずっと楽器を見てて」
もしも本当に、これが彼女のものだとして。彼女はどうしてこんな事を? どうして片方だけ置いていった? 何が伝えたい? 何がしたい? 僕は、どうすればいい?
そして僕はまた気が付く。片方だけのイヤホンから、曲が流れている事に。
こんな時なのに、僕はなぜか無性に泣きそうだった。こんなものすぐにでも投げ捨てたいはずだった。でも、できるはずがなかった。震える手で、ゆっくりと右耳に付ける。
イヤホンからはゼロ距離でギターが流れている。やがて、少し盛り上がりながら他の楽器も入ってきた。多分イントロだろう。僕の知らない曲だった。
「アキさん、もしかして曲が流れてますか?」
ルルさんが訊ねる。僕は頷く。ワンフレーズが終わり、もう一度同じフレーズを繰り返そうとしている。
「その、無線イヤホンって言っても、そんなに遠く離れてはいけないんです。ある程度は同じ空間にいないと通信は切れます」
「丁度、この店と同じくらいの広さだと思うんですけど」。ルルさんは少し言いづらそうに俯きながら言う。僕は「つまり?」と訊ねる。
「つまり、えっと、……その曲を流している本人は、すぐ近くにいるんじゃないか、とか」
フレーズが弾き終わる。
歌声が入ってくる。
もう、疑う余地はなかった。忘れるはずもない、僕を離してくれない、ミヲの歌声。
そして、僕は無意識にこんな事を呟いていた。
「……『この曲が鳴り止むまでは』」
そこから先はよく覚えていない。とにかく必死になって走った。楽器店をずっと走り回っていた。その五百文字の音が止む前に、彼女を見付けたいと思った。そうしないと、何かが壊れると思った。いや、逆かもしれない。何を壊してでも、彼女を見付けたかったのかもしれない。どうか、まだ変わらない僕でいてくれと願った。まだ変わらないでくれと、彼女に願った。
店の中にはもちろん女性もいた。僕と同い年くらいの人もいた。でも、その中のどこにも僕の知っている顔は無かった。いや、「知っている」と言うのも違うのだろう。僕はまだ、彼女の顔を思い出せずにいたから。かと言って、見ず知らずの人の髪に隠れがかった左耳を一々確認できるはずもない。僕にできる事と言えば、彼女を思い出せるようにと祈りながら、ひたすら彼女を探す事だけだった。
店を一通り見て回った時点で、曲はCメロに入っていた。そう、まだ流れていたのだ。見逃したのか、あるいは彼女の方が僕から逃げているのか。いや、彼女がそんな事をする意味は、……なんて。そんな事を考える余裕すら無い。また走って、また彼女を探した。だって、彼女の歌声はまだ聴こえていたから。
そして五百文字を歌い終え、アウトロも終わろうとした時、僕は元の場所へと戻ってきていた。曲が鳴り止む寸前、最後に見たのはルルさんの顔だった。彼女に「大丈夫ですか?」と訊ねられた瞬間に、曲は鳴り止んだ。
「……アキさん?」
「……あ、うん。大丈夫」
息を整えながら言った。もう何も聴こえないイヤホンを外してポケットにしまう。
「……ギターはもういいの?」
「あ、はい。おかげさまで」
「そっか。じゃあチューナー買わないとね」
笑顔のつもりだった。でも、笑えていたかどうか分からない。嫌な大人が浮かべる、全てを隠したつもりの愛想笑いができていただろうか。ルルさんも多分、何も知らないふりをしてくれた。だから何も言わなかった。
ルルさんが選んだチューナーをレジに持っていき、財布から五千円札を抜いて支払う。ルルさんは「ありがとうございます」と言って、僕はそれにまたなんとなく頷いた。
「夜遅くまでごめんね」
「そんな、むしろこちらこそ申し訳ないです」
「ルルさんが申し訳なく思う事なんて何も無い」
そう言いながら店の自動扉をくぐって外に出る。春になりかけの夜の空気が身を包んだ、その直後だった。
「ありがとうございました」
店内から、女性の声がした。
僕は反射的に振り向いた。僕の知っている声に、よく似ていたような気がしたから。
「アキさん?」
「……いや、何でもないよ」
でも、自動扉が閉まって、僕はすぐに前を向いた。
もういいんだ。そういう運命なんだ。だって、曲はもう鳴り止んだのだから。
* * * * *
拝啓、アキ君へ
桜花爛漫の候、ますます清栄のこととお慶び申し上げます。
なんて、こんな書き出しは私には不相応ですね。大人になったのだから、手紙くらいはちゃんと書けるようにと思ったのですが。
私は今、窓の外に流れる桜の花弁を見ながらこの手紙を書いています。あの日から十年後の三月十日。アキ君はまだ来ていません。
実を言うと、この手紙がアキ君に読まれる事はないだろうと思っています。ある日、ラックを整理していたここの部員が見付けて、「何だこれ」と捨てられるのがいいところかもしれません。
アキ君がいないなら、もう帰ってもいい。そう思ったのですが、ふと思い出したのです。君には、日付を間違える癖があった事を。ありえないとは思いますが、万が一。君が日付を間違えてここに来る日を想って文字を書いています。とは言え、ここに来た君がこの手紙を見付けてくれるかどうかは別問題ですが。
最近はめっきりパソコンでの仕事が主流になり、鉛筆を持って紙に何かを書くのも久しぶりのような気がします。明確に覚えているのは十年前、作詞ノートに歌詞を書いていた時以来でしょうか。たまにはこういうのもいいですね。
何から話すべきか分かりません。が、せっかく桜の綺麗な日なので、今思い出したあの日の話をしようと思います。私達の卒業式の日の話を。
私はずっと、君を待っていました。卒業式当日も、次の日も、またその次の日も。さすがに毎日通い詰めるのは難しかったですが、それでも、日を置いてまた桜の樹の下へ行く事もありました。
どのくらいそうしていたか分かりません。でも、とある時を境に当たり前のように、ごく自然に行く事を止めました。私自身の言葉を使えば、その時私はようやく変わったのだと思います。君はもう来ないのだと、なんとなく理解しました。
これでもう、私と君を結び付けるものは何も無いと思っていました。ですが知っての通り、私はこうやってここに来ています。そう、もう一つの約束があったからです。あの夏の日の約束が。
多分、あんな子供じみた約束は忘れる方が普通なのだと思います。だから君は今日ここに来なかったし、前述のように、この手紙も読まれる事はきっとない。私自身も、何事も無ければここには来なかっただろうと思います。では、どうして私はここにいるのか。
卒業してからしばらく、いや、なんならむしろ最近。君は音楽家になり、君自身の名前を大きく広めました。当然、私も「アキ」が君だと気付いていました。顔なんて見なくても分かります。君の音楽を誰よりも理解していたのは恐らく私でしょうから。
君が偉大な音楽家になり、どうしたって君の存在が耳に入る度、目に留まる度、私はあの日の約束を思い出しました。十年後の三月十日、またこの部室に集まろうと。
君が今のような知名度を持っていなければ、私はここに来る事はなかったと思います。押し入れの奥を漁って、今日という日に君と聴く為だけに作った曲を引っ張り出す事もなかったでしょう。
本当は、君と一緒にこの曲を聴きたいと思っていました。この約束だけが、唯一私達を結び付けていたものだと思うから。無線イヤホンを片方ずつ分け合って、同じ曲を聴きたかった。それで、少し思い出話をした後で、最後に「さよなら」と言って別れたかった。でも、もういいんです。君はきっと、ここには来ないから。
私は変わった。君も変わった。それだけの事です。私も最後にこの部室であの日々をなんとなく思い出して、君と聴きたかった曲を一人で聴きながら手紙を書いて。それで終わりです。少し意地悪いですが、君がここに来ませんようにと、もう終わりにできますようにと祈っています。どうか君が、この手紙を読みませんように。
そろそろ曲が終わります。あの日、君に伝えられなかった二文字を五百文字にしただけの曲です。直接言えそうにないので、今ここで伝えます。二文字ではなく五文字に変わってしまった、私の最後の気持ちです。
私は、君が好きでした。さようなら。 敬具
十年後の三月十日 ミヲ
* * * * *
『タイムカプセル』
封筒の中には、彼女の字でそう書かれたCDが同封されてあった。歌詞を聴くに、あの片耳のイヤホンから流れた曲に相違なかった。それを確認した後で、CDと片方だけのイヤホンをゴミ箱に入れた。いくらしたんだろうとか、場違いな事を思いながら。
煙草を大きく吹かし、手元の灰皿に入れる。少し狭いベランダには、季節の変わり目の暖かい夜風が流れている。もう春だ。
家の中は既もぬけの殻で、不思議と、この場所を離れるのだという実感が今更のように湧いて出てきた。僕はやっと、ここじゃないどこか遠くへと飛び出すのだと。
僕と彼女の距離は少しずつ離れ、そして、繋ぎ止めていた約束もようやく切れてなくなった。まるで無線イヤホンのように。
僕は少し迷い、手紙で紙飛行機を折った。生暖かい風が吹き止んだ一瞬を見計らって、それをベランダから飛ばす。またすぐに優しい風が吹いて、紙飛行機はそれに流されていった。桜の花弁が流れるように、僕らが歩んできた速度のように、ゆっくりと、緩やかに。
まるで、二人ならどこへでも飛べると思っていた僕らのようだと思いながら、夜空に消えて無くなるまで、僕はそれを目で追い続けていた。やっと最後に、君の声を忘れられる。
部屋にかけていた曲は、もう当然のように鳴り止んでいる。
例えば勉強をする時、例えば仕事をする時、例えば曲を創る時。「せめて、この曲が鳴り止むまでは」。そう思いながら、無理やりにでも自分を奮起させている。
その日僕は、引っ越しの準備をしていた。高校を卒業し、変わらず地元で働き続けて十年が経つ。多大な不安と僅かな寂しさを抱いて、僕は明日、ここじゃない遠くへと向かうらしい。その実感と覚悟が未だ生まれずにいる。
棚の最深部を漁っていると、高校時代の学ランが出てきた。手触りやサイズ感に「懐かしいな」と思い感傷に浸りたくなったが、スマホのスピーカーホンからはまだ曲が流れている。我慢して、棚のさらに奥へと手を伸ばそうとした、その時だった。
ふと、学ランのポケットから何かが滑り落ちた。手の平より少し大きいくらいの薄い何かが、小さく乾いた音をたててフローリングの床に落ちる。思わず、視線だけが追いかけるようにそれを捉えていた。
床にぱたりと寝そべったそれは、桜の花弁のマークが印刷された桃色の封筒だった。よく見ると、右下の方に小さく文字が書かれている。
『アキ君へ』
その時、曲が鳴り止んだ。僕の名前だった。
* * * * *
拝啓、アキ君へ。
なんてね。こんな堅苦しい書き方、私には似合いませんね。せっかく手紙を書くのだから、「拝啓」と書いてみたかっただけです。
アキ君がこの手紙を読むのがいつになるか、私には想像できません。家に帰ってからかもしれないし、明日、明後日、一週間後、一月後、一年後。もしかすると十年後だったりするかも。個人的にはできるだけ早い方がいいなぁと思ってます。
あ、最初に伝えなきゃいけない事があるのを忘れてました。
卒業おめでとうございます。お互いに。
つまり、どれだけ早くても、アキ君がこの手紙を読むのはこの学校の卒業生となった後です。多分、私達が高校生として会えなくなった時。
せめて連絡先くらい交換しとけばよかったなぁとなんとなく思います。そうすれば、こんな風に言いたい事を一遍にまとめなくてもよかったのに。
小さな小さな軽音部の、その二人しかいない部員という事で、私と君は三年間を共に過ごしました。部室以外にはろくに居場所も無かった私達でしたね。私達にとって「世界」とは、家とか教室なんかではなく、きっとこの部室の事を言うのでしょう。
これから先、私達はこの小さな世界を跳び出して別の人間になるのだと思います。あるいは逆に、何者にもなれないのか。なんとなくだけど後者のような気がしてます。創作に逃げるような弱い人間が、そう簡単に何者かになれるとは思えないから。
さて突然ですが、アキ君はあの夏の日の約束を覚えているでしょうか。覚えているならそれでいいです。その約束が果たされる日を楽しみにしています。忘れてたら……、とりあえずグーパンは覚悟しててください。
それとは別に、ここでもう一つ、新しく約束をして欲しいのです。いや、約束というより願望や祈り、ひょっとするとワガママに近いかもしれません。
どうか、アキ君はアキ君のまま、そのままの君でいて欲しいんです。私も私のままでいたいと思っています。
もしも、もしもの話。この手紙を家に帰ってすぐに読んでいたら。今すぐ学校に戻ってきて欲しいです。閉校の時間まで私は待っています。
じゃあ一日置いて、次の日に読んでくれたとしたら。いつも部活が始まる午後四時半。やっぱり私は君を待っています。学校には入れないと思いますから、正門前の桜の樹の下で。
本当は毎日でも待っていたいのですが、そういうわけにもいかないと思います。なので、午後四時半という時刻に予定の無い時。私は、あの桜の樹の下で待っている事に決めました。
何が言いたいかというと、つまり。弱い私が弱い私のままのうちに、弱い君が弱い君のままでいられるうちに、私を迎えに来て欲しいんです。
今日、私は君を待つでしょう。明日も待つと思います。じゃあ明後日は? 一週間後、一月後、一年後、十年後は? 確かな事は何も言えません。私が君を待つ事を止めたその時、私はきっと変わってしまったのだと思います。あるいは、近いうちにこの手紙を読んだ君がここに来ようと思えないのなら、君はきっと変わってしまったという事なのでしょう。変わる、という事が少し悲しく思えますね。
君がこの手紙を読むのがいつになるか分かりません。だけど、君が学校に走り出して、その先に私がいたのなら。その時初めて、私達はこの世界を跳び出せる気がしています。二人一緒なら、どこにだって行ける気がします。
今、この手紙は卒業式の前日の夜に書いています。明日、卒業式の後でこっそりと君の学ランに入れる予定です。もっとも、よくお腹を下す君がトイレに立つと予想してですけど。早く治るといいね。あ、ちなみに今日、日付を間違える癖のある君は「卒業式って明日?」「明後日だと思ってた」と絶望した顔で言っていました。これも早く治るといいね。でも私は、君のそんなところも(黒く塗り潰されている)。なんてね。
一番言いたい言葉はまだ書かない事に決めました。また会えた時、あるいは、あの夏の日の約束が果たされた時、直接言えたらいいな。何も変わらない、私達のままで。敬具。(使い方あってる?)
* * * * *
人が人のどこを最初に忘れるか。その人の声らしい。でも、僕はその真逆だった。
彼女の声は、歌声は、今でも鮮明に思い出せる。なのに、それ以外がまともに思い出せない。彼女の姿が、思い出せない。
高校の正門前には大きな桜の樹が植えられている。根元に立って枝を見上げると、数年前よりも花弁が近い距離にあるような気がした。それなりに身長が伸びた証だろうか。
少し丈の合っていないコートの袖口を捲り、腕時計を確認する。午後四時二九分五五秒。、五六、五七、五八、五九。
部活動の開始を告げる鐘の音が響いた。
「……あの」
生暖かい春風が吹き、それに流された桜の花弁が緩やかに僕の頬を掠めていった。
腕時計から顔を上げ、声のした方に顔を向ける。
そこには、スーツ姿の女性が立っていた。
その一瞬で、僕は脳みそを素早く回転させた。何を言うべき? どうするべき? 僕と同い年にしては少し老けていないか? 彼女は、こんな顔立ちだったか?
パンクしそうなほどに思考を巡らせている僕に向け、女性はゆっくりと声をかける。
「先ほどお電話くださった方でしょうか?」
そう言われ、僕ははっとした。彼女じゃない。どうやらこの学校の教員らしい。
「……そうです。十年前、ここを卒業した者です」
少しの脱力感と、少しの安心感。その両方を小さな息に込める。教員は「そうですか」と愛想笑いを浮かべて言った。
「ここで立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
次の楽曲に使う為の取材。そういう建前を使って学校に電話したところ、二つ返事で了承の意が返ってきた。わざわざ正門にまで迎えを寄越したのもそのせいだろう。自分の名前を使うのは好きじゃないが、こうでもしないと学校には入れないと思った。
「まさかアキさんがこの学校の出身だったなんて知りませんでした。息子が大ファンなんです。あの、ご迷惑でなければあとでサインとか……」
「もちろんです。こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ございません。お忙しい時期なのに」
「いえいえ、むしろいつもより暇なくらいですよ。最近も卒業生が訪れたりして」
「卒業生でも気軽に来れるものなんですか」
「ええ、電話で事前にアポを取ってくだされば」
このネット社会、顔を出さずに音楽でやっていく人間なんていくらでもいる。僕もそうだ。ライブ以外で顔を出した事はない。つまり、名前を出さなければ僕が「アキ」だと知られずに済んだのだ。溜め息が零れそうになる。
首掛けの許可証を貰い、校内を案内するという教員の厚意を断って学校を周った。大きく変化はしていないものの、やはりある程度は僕の知らない部分が見え隠れしている。教室の位置が変わっていたり、僕の時代には使われていなかった教室が使われていたかと思えば、逆に使われなくなった教室もあったり。教室を覗いて中の高校生と目が合う度、不自然に視線を逸らした。
高校を卒業してしばらく、僕は高校生とすれ違いそうになる度に不自然に距離を置いた。心の中で未だ「高校生の自分」を終わらせられなかったから。新しい自分を始められなかったから。あるいは、彼女の言葉を借りれば「弱い自分」だったから。仲が良いわけではない同級生を遠目に見つけた時のように、「高校生の自分」が本能で逃げていた。
制服姿の高校生とすれ違う度、あの頃の自分が込み上げてくる。心の中で、飼い慣らせない「高校生の自分」が暴れている。大人になり切れない自分に辟易とする。
幸いな事に、学校の中に僕の存在を認知している人間はいなかった。さっきの教員にもサインと引き換えに他言無用を約束したから、恐らくあの人以外に知っている人間はいないだろう。
校舎の一番奥、長い廊下の突き当りに辿り着く。昔から人通りの少ないこの場所は、いつもひっそりとした空気感に包まれている。どこか遠くから放課後の喧騒が聞こえる。
扉の上には「軽音部」と書かれたプレートがかかっていた。教室の中からは何も聞こえてこない。誰もいないのだろうか。いや、そもそも部員なんていなくて、ただ教室が放置されているだけかもしれない。その想像をする方がよっぽど容易だ。僕は勝手にそう決めつけ、ノックもせずに遠慮なく扉を開けた。
部室は、何も変わっていなかった。ドラムセットがあって、キーボードがあって、ギターとベースが必要最低限だけ立てかけられていて。扉を開けた直後、身を包んだ空気に僕は本気で、「あの日々」の続きだと感じた。当たり前のように、「高校生の自分」がここにいた。
でも、そんな僕を一瞬で現実に引き戻す光景が目に留まった。部室の隅には普通の机が二つ並んでいて、その内の一つに女子生徒が座っていたのだ。
女子生徒は僕に気付き、こちらを見る。僕と目が合う。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。あの日々と全く同じ彼女が、制服姿でそこにいたから。
「……ミヲ」
「……アキ?」
* * * * *
「たった二文字で伝わる事を、わざわざ五百文字にする事が作詞の楽しいところなのかもしれない」
ある夏の日、ミヲが「終わったぁ」と体を伸ばしながら言った。机の上にノートを広げて何やら書き込んでいたらしい。きっと作詞だろう。
ミヲは桜の花弁のマークが印刷された桃色のヘッドホンを外し、首元にかけた。思えば、何かをする時に「せめて、この曲が鳴り止むまでは」と自分を奮起させる癖は、彼女を真似して習慣化したものだった。
「いい事言うじゃん」
その時の僕は、アンプに繋いでいないギターを手にしていた。部室の床にあぐらをかき、壁にもたれながらピックで弦を弾く。
「でしょでしょ。まぁ人の言葉なんだけど」
「なんだよ。誰の言葉だよ」
「それくらい自分で調べたら?」
仮にも創作をする人間が他人の言葉を使えば、それは盗作になるのではないか。言おうかと思ったけど、部室に充満する熱気に当てられて口を閉じた。ただひたすらに暑かった。部室の窓は開いているものの、風が吹くような気配は微塵もない。
傍には部費で買った古臭い扇風機が置いてあるが、ミヲはそれの首を回さずに一人で独占していた。風に流されてカサカサと、ノートのページが擦れる音だけが耳に心地いい。
「ここからは私の考えだけど、逆に言えば二文字で伝えられない事も五百文字にすれば伝えられるのかもね」
「例えば?」
「例えばって、それは、色々あるでしょ」
不要になった歌詞のページをゴミのように丸めながら、彼女が言葉を詰まらせる。
彼女が言いたい事は多分分かる。僕が分かっているという事を、彼女は分かっている。お互いに知らないふりをしていた僕らは、きっと同罪だった。
僕は何というべきか答えあぐね、結局「まあ」と口を開いて適当な言葉を紡いだ。
「ただ二文字で伝えるより、五百文字を音に乗せた曲を渡す方がロマンチックだったりするのかもね」
「そう思う?」
「場合による」
「なんなの」
「口で言うより、黙ってCDを押し付ける方が簡単な人間もいるよ」
「そうかもね」
ミヲは少し笑いながら、ノートのページで紙飛行機を折っていた。変わらず僕はピックを手になんとなくギターを弾く。金属の糸が揺れる音がする。窓の外からは耳を劈く蝉時雨が重く降り注ぐ。ただひたすらに、暑い。
「ねぇ、アキ」
ふと顔を上げると、ミヲがこちらを向いていた。扇風機に流された長い黒髪が優しくなびいている。ミヲは首元のヘッドホンを掴んでいた。僕は知っている。彼女が真面目な話をする時、ヘッドホンに触れる癖がある事を。できるだけおちゃらけていたい彼女が、我慢して真剣な言葉を発する時。
「一つ、約束しよう」
「何を」
「十年後くらいかな、またここに集まろうよ」
机にあるミヲの作詞ノートが、扇風機の風に流されて勢いよく捲れていく。とあるページに彼女の字で書かれた、「ラブソング」という文字が目に入った。
「どうかな」
「なんでよ」
「十年後なんて、僕らはどうなってるか分からないんだからさ」
「偉大な音楽家になってそれどころじゃないって話?」
「そんなわけないだろ」
僕は自嘲気味に少し笑って言った。誰といるのか、どこにいるのか、何をしているのか。そういう、分かりたくとも分からない、分かりたくないけど分からなきゃいけない事はあるのだろう。変わらないものなんて何も無いという、酷いくらいに当たり前の事実だけが小さくある。
「大丈夫に決まってるんじゃん。私達なら」
ミヲはその言葉を、大きく笑って言った。大切なものを全て理解しているような、何も疑わないような笑顔だった。
純朴だった僕は、たったそれだけで救われたような気がしたのだ。この先どうなろうと、偉大な音楽家になろうとなれまいと、彼女の言葉だけを強く抱きしめて生きていたい。そう、強く思った。あの時の笑顔を思い出せない事が、今更のように無性に苦しくなる。
「卒業式の日、は無理だろうから、その次の日。またこの部室に来てよ」
多分、僕は頷いたのだろう。「そうなればいいね」と笑いながら。その時の嬉しそうなミヲの笑顔を覚えていたら、今とは違う僕だったのだろうか。
「十年後の三月十日、またここで。その時に君アキと二人で聴きたい曲があるんだ」
「どんな曲?」
「それを今知ったら意味ないでしょ。それに未完成だし」
「君が創った曲って事?」
僕が訊ねると、ミヲはまた嬉しそうに笑って頷いた。
「十年後の私達に向ける、今の私からの歌」
ミヲはノートの新しいページを開き、そこに「作詞:ミヲ」「作曲:ミヲ」と書く。そして少し迷った後で、「うん」「そうだね」と呟いた。ヘッドホンが陽を返して、桃色に鈍く光っていた。
「曲名は『タイムカプセル』。たったこれっぽちの言葉を、五百文字にしてみるよ」
そう言って、ページを折って作った紙飛行機を開いていた窓に向かって優しく放る。
紙飛行機が外に飛び出した瞬間、狙ったかのように不快な湿度を持った夏風が吹いた。
彼女の言葉が、緩やかな速度で青空へと消えていく。この小さくてどうしようもない世界を飛び出して、どこか遠くへと運ばれていく。
* * * * *
「ライブに何度か行った事があるんです。なので顔は知ってました」
「なんか恥ずかしいな。面と向かって言われる事ってあんまり無いから」
ノートにサインを書く。名前を訊ねると「ルルです」と言うので、最後に「ルルさんへ」と書き足した。彼女はこの高校の二年生で、つまり四月からは三年生になるらしい。
「軽音部は君一人なの?」
部室には、スピーカーで緩く音楽がかかっている。僕でも知っているような有名シンガーの曲だった。
「はい。私が入部した時に先輩はいなくて、後輩も入ってくる気配はありません。つまりずっと一人なんだと思います。あ、ありがとうございます」
ノートを渡しながら「そっか」と呟く。部室の隅に目をやると、木製のラックが目に入った。僕がここにいた時には無かったものだ。最上段にだけいくつかのCDが立ててあって、僕のCDもある。そこ以外には普通に書類があるだけだった。
「アキさんがここにいた時、やっぱり人は多かったですか? 楽器ももっと沢山あったりとか?」
「いや、僕が入部した時部員は二人だけだった。楽器はもっと少なかったかも」
「でも私は楽器を買い足したりとかした事ないんですけど」
「近くの商店街に楽器屋がある。よくあそこに行って買いに行ったよ」
「これとか」と言って、部室の隅にあったギターを一つ手に取る。黒色を基調にした、ボディの少し剥げたエレキギター。少ない部費を上手く活用しようと、何度も店に通って熟考した末に購入したものだ。
「今も音楽をやってるのは、やっぱりこの部活に入ってたからですか?」
「言い方の問題だよ。音楽以外には他にやれる事もできそうな事もなかった。ネガティブな話だ」
「それでも、変わらずに音楽をやっているのは凄いと思います」
ルルさんは真顔で言った。あまり表情の変わらない人だと思った。ミヲとは真逆だ。
変わらずに音楽をやっている。客観的な事実だけを見ればそうかもしれない。でも、その中身はきっともっと複雑だ。僕は僕が変わらずにいる自信が無い。もし、ここに来て彼女がいたら、その証明になったかもしれない。報われたと思えたかもしれない。そんな、淡くて不純な動機だけでここにいる。
壁掛けの時計に目をやる。もうすぐで部活の終わる時間だ。もう、彼女はここに来ないだろう。
僕が帰ろうとしている雰囲気を感じ取ったのか、ルルさんは立ち上がって見送る準備を始めた。仮にも同じ部活の、たった一人の後輩。僕はふと思い立って、彼女にこんな事を提案してみた。
「もしよかったら、一曲くらい何か弾き語りしてみようか?」
僕の言葉にルルさんは少し目を開いて、そして何度も小刻みに頷いた。その様子がどこかおかしくて思わず笑ってしまう。ルルさんはスマホを操作し、部室にかかっていた音楽を止めた。
傍に置いてあったギターを手に取る。この場所で何度も使ったエレキギターだ。懐かしくて、だけど、少し悲しい。
ルルさんのリクエストで、割とマイナーな曲を歌う事にした。最初のアルバムに入っている、何でもないようなバラードだ。盛り上がるわけでもなければ、涙を誘うような何かがあるわけでもない、ただ穏やかな曲。歌い終わった後、部室に一人分の拍手の音が小さく響いた。
「本当にありがとうございます。私って贅沢者ですね」
「こんなので贅沢って言ってたら、この先の人生もっと贅沢だよ」
「そういうものでしょうか」
彼女の言葉に頷こうとして、そのたった一回の頷きが何の根拠も無い、中途半端なものだと気付いたから止めた。彼女がこの先どうなるかなんて、僕には計り知れない。たかが僕の弾き語りごときが、彼女の人生の一番の幸福になる事は否定できないのだ。そうならなければいいと思う自分と、そうなってくれればいいと思う嫌な自分がせめぎ合ってしまう。
ルルさんはスマホを操作し、また部室に曲を流す。余韻に浸るかのように僕のアルバムが流れ始めた。
「この贅沢を山分けしたいくらいです」
「友達とかと?」
「友達もそうですけど、もう一人いるんです」
ルルさんはそう言うと、ラックに手を伸ばして僕のCDを取り出す。そして、穏やかな表情でこう言ったのだ。
「実は昨日も、ここの卒業生だっていう方がいらしたんです。その方もアキさんのファンだったみたいで、今日来てたらって思いました」
一度だけ、心臓が強く跳ねたのが分かった。
その後で、今度はバクバクと小刻みに鼓動する。まさかと思った。いや、そんなはずがない。
「……その人って、どんな人だった?」
「綺麗な女性としか。ここの軽音部にいたらしいんですけど」
ルルさんの言葉に、僕は一瞬だけ我を失ってほんの少し後ずさった。弾みで、傍に立てかけてあったギターが大きな音を立てて倒れる。
僕がどんな表情をしていたのかは分からない。でも、ルルさんが驚きと困惑が混じった表情で僕を見つめていて、それで僕ははっとした。
「……もしかして、その人に何か用があったんですか?」
僕は少し迷い、小さく頷く。その後で、「お願い」と彼女に向かって言った。
「何でもいい。何か、特徴を覚えてたりしない? 桜の花弁のマークが入った桃色のヘッドホンとかしてなかった?」
「いえ、ヘッドホンはしてなかったと思います。……あ、でも」
ルルさんは何かを思い出したように、自分の耳を指差しながら口を開く。
「ピンクのイヤホンは耳に差してました。無線イヤホンです。ちゃんと見たわけではないので確証はありませんが、言われてみれば桜のマークもあったような気がします」
僕は困惑していた。万が一、仮にそうだとしてもありえないだろう。十年前に約束したのは今日のはずだ。十年後の三月十日に、またここで。彼女の言葉は一言一句間違いなく覚えていて……。
そこまで考えて、僕は思わず顔を顰めた。とある一つの可能性に行き着いてしまったから。
「……ルルさん、今日って何日だっけ」
「え? 今日は三月十一日、ですけど」
溜め息を吐こうとし、大きく息を吸う。でも、何も関係ないルルさんの前でそれは違うと思い、寸前で止めた。代わりに、気持ちを切り替えて安心させるような微笑みを浮かべてみた。実際にそうできていたかどうかは分からないけど。
倒れていたギターを元に戻す。ボディが大きくひび割れていた。この程度なら演奏に問題はないだろうが、部外者の僕が壊した備品だ。弁償するべきだろう。
その後、ルルさんは何を悟ったか分からないが、僕に向かって昨日の出来事を細々と語ってくれた。
「昨日、部室の扉を開けたら知らない女性がいたんです。CDラックに立ててある、アキさんのCDを見ているようでした。その方はここの卒業生で、この軽音部に所属していたらしいです。『アキが好きなんですか』と訊ねたら、少し迷ったような表情を見せた後で『うん、好きかな』と教えてくれました」
ルルさんはそう言ってCDラックの方に向かい、手に持ったままだった僕のCDを戻す。手持ち無沙汰だったのか、あるいは何かをごまかす為か、しばらくラックを一通り眺めていた。
「その後、その方はしばらく部室にいました。ここ最近の学校生活についてとか、アキさんの話とか、他愛もない話をしていただけです。それで、部活終了の時間になって、その人は『さよなら』と言って出て行きました」
「十年後の三月十日、またここで。その時にアキと二人で聴きたい曲があるんだ」。そう言った彼女の声だけは、今でも鮮明に思い出せる。
学ランに入っていた手紙はともかく、この約束だけは無下にしちゃいけなかったはずだ。僕らが誰といようと、どこにいようと、何をしていようと。例え彼女が来なかったとしても、僕は昨日ここに来るべきだった。
その時、部室の扉がノックされた。ルルさんが「はい」と言うと扉が開かれる。さっきの女性教員だった。
「もう下校時刻になりますので、ルルさんもアキさんもそろそろ……」
「……そうですね。長居してしまい申し訳ありません」
そう言って僕は、最後に部室をちらりと一瞥してから廊下へと出た。女性教員に「あ、それでサインの方をお願いしても」と言われた、その時だった。
「アキさん」
ルルさんが突然、僕の名を呼んだ。その視線はさっきから変わらずラックに注がれている。
「あの、私、こんなの知らないんですが……」
そう言いながら彼女は、ラックから一枚の封筒を取り出した。
桜の花弁のマークも無ければ、桃色でもない。ただ、右下の方に小さな文字が書かれている。
『アキくんへ』
その時、部室にかかっていた曲が、鳴り止んだ。
ギターを壊したお詫びに、新しいギターを買うから好きなものを選んで欲しい。ルルさんにそう言ったところ遠慮されてしまった。「演奏に問題はなさそうですし、こういう傷はカッコイイですから」と。僕がミヲと一緒に買ったギターだから気を遣ってくれたのだろう。
でも、それでは僕の立場がない。なんとかギターを買わせてくれとお願いしたところ、部室にはないチューナーを一つ買うという事で手打ちになった。
ミヲと何度も行った、いつもの楽器店に入店する。店内はちっとも変わっていなくて、部室に入った時と同じく、身を包んだ空気に「あの日々」の続きを感じた。当たり前のように、「高校生の自分」がここにいた。
店には様々な楽器が並んでいて、ルルさんはそれをキラキラした目で見ていた。そんなルルさんの様子を、僕は近くにあったソファに座って眺めていた。最初こそそんな顔もするんだなと思っていたが、次第にミヲの姿を重ねている自分に気付き、はっきりと自己嫌悪した。
「ごめん、ちょっとトイレ」
ルルさんにそれだけ伝え、僕はトイレに向かう。三年間通った楽器店の、何度も入ったトイレだ。大きくは変わっていなかったけど、内装が少しだけ違っていた。十年前ではなく、今流行しているアーティストのポスターが張られている。
個室の中で大きく溜め息を吐く。僕はどうして部室に行ったのだろう。ミヲはどうして、部室に来たのだろう。
学ランから出てきたあの手紙を見付けなければ、僕は部室には行かなかった。約束なんてもうとっくに忘れていた。それが普通だろう。いや、普通だと思いたいだけかもしれない。そうやって正当化しないと、ミヲに顔向けできないから。
もしもあの日、卒業式の日。家に帰って学ランから手紙を見付けて、それを読んだとして。僕はすぐに学校へと向かっただろうか。多分向かっただろうなと思う。過去に戻れるなら、結果がどうであれミヲの元に走りたい。でも、今目の前にあるのはどうしようもないような現実だけだ。
ポケットから封筒を取り出す。多分、昨日部室を訪れたというミヲが書いたものだろう。どうしてこんなものを残したのか、どうして僕が部室を訪ねる事を知っていたのか、一体、何を書き残したのか。怖くて開けられない。開けたいかどうかすらも分からない。そもそも、僕は彼女に会いたいのかどうかすら。
あの高校を卒業して、ミヲはどのくらいの期間僕を待ってくれていただろう。どのくらいの時間をかけて、僕を忘れていっただろう。できるだけ早くであってくれと、今更のように遅すぎる事を思う。
ミヲはどうして部室を訪れたのだろう。僕が忘れていた約束を覚えていたというのか。それで、僕と聴きたい曲を聴く為だけに待ってくれていたのだろうか。
僕らは変わらずにいられたのか。僕らは会うべきだったのか。分からない。僕の事も、彼女の事も、過去も今も、世界の事も。何も、分からない。
「多分、違ぇんだよなぁ……」
顔を抑えながら、小さく呟いてみる。自分を守る為に。
違う。僕がどうとか彼女がどうとか、そういう事じゃない。変わらないものなんて何も無くて、世界はどうしようもなく広くて、守られなかった約束があって。酷く単純な事が小さくあるだけだ。月並みだけど、そういう運命だったんだ。もう、いいんだ。
手を洗ってトイレを出る。ルルさんの元へ戻ると、彼女は同じ場所でまだ楽器を見ていた。
「見てるだけで楽しいの?」
「はい、とても。大袈裟な表現ではなく、一週間くらいならここに住めます」
「いいのがあったら買うよ?」
「それは結構です」
頑ななルルさんに少し苦笑いをし、またさっきと同じソファに座る。まだチューナーも買ってないのに。早く帰らなくていいのだろうか。
そうやってしばらくした時、ふと、ソファの上に何かが置いてあるのが目に留まった。さっきは無かったものだ。これは、桃色の。
「……イヤホン」
僕が呟いたのと、ルルさんが「あ」と声を漏らしたのはほぼ同時だった。
「アキさんそれ」
「え?」
イヤホンを手に取ってみる。そして、気が付いた。桜の花弁のマークが印刷されている事に。
「それ多分、そうです。昨日の女性が付けてたものです」
まただ。また、一度だけ心臓が強く跳ねた。その後でまた、バクバクと小刻みに鼓動し始める。
ソファの上には右耳用のイヤホンしか置いていなかった。だからまず、僕は咄嗟にもう一方のイヤホンを探した。しかし、周辺に左耳用のイヤホンは見当たらない。
「誰が置いていったか見てない?」
早口でまくし立てるように訊ねる。しかしルルさんは首を横に振った。
「私はずっと楽器を見てて」
もしも本当に、これが彼女のものだとして。彼女はどうしてこんな事を? どうして片方だけ置いていった? 何が伝えたい? 何がしたい? 僕は、どうすればいい?
そして僕はまた気が付く。片方だけのイヤホンから、曲が流れている事に。
こんな時なのに、僕はなぜか無性に泣きそうだった。こんなものすぐにでも投げ捨てたいはずだった。でも、できるはずがなかった。震える手で、ゆっくりと右耳に付ける。
イヤホンからはゼロ距離でギターが流れている。やがて、少し盛り上がりながら他の楽器も入ってきた。多分イントロだろう。僕の知らない曲だった。
「アキさん、もしかして曲が流れてますか?」
ルルさんが訊ねる。僕は頷く。ワンフレーズが終わり、もう一度同じフレーズを繰り返そうとしている。
「その、無線イヤホンって言っても、そんなに遠く離れてはいけないんです。ある程度は同じ空間にいないと通信は切れます」
「丁度、この店と同じくらいの広さだと思うんですけど」。ルルさんは少し言いづらそうに俯きながら言う。僕は「つまり?」と訊ねる。
「つまり、えっと、……その曲を流している本人は、すぐ近くにいるんじゃないか、とか」
フレーズが弾き終わる。
歌声が入ってくる。
もう、疑う余地はなかった。忘れるはずもない、僕を離してくれない、ミヲの歌声。
そして、僕は無意識にこんな事を呟いていた。
「……『この曲が鳴り止むまでは』」
そこから先はよく覚えていない。とにかく必死になって走った。楽器店をずっと走り回っていた。その五百文字の音が止む前に、彼女を見付けたいと思った。そうしないと、何かが壊れると思った。いや、逆かもしれない。何を壊してでも、彼女を見付けたかったのかもしれない。どうか、まだ変わらない僕でいてくれと願った。まだ変わらないでくれと、彼女に願った。
店の中にはもちろん女性もいた。僕と同い年くらいの人もいた。でも、その中のどこにも僕の知っている顔は無かった。いや、「知っている」と言うのも違うのだろう。僕はまだ、彼女の顔を思い出せずにいたから。かと言って、見ず知らずの人の髪に隠れがかった左耳を一々確認できるはずもない。僕にできる事と言えば、彼女を思い出せるようにと祈りながら、ひたすら彼女を探す事だけだった。
店を一通り見て回った時点で、曲はCメロに入っていた。そう、まだ流れていたのだ。見逃したのか、あるいは彼女の方が僕から逃げているのか。いや、彼女がそんな事をする意味は、……なんて。そんな事を考える余裕すら無い。また走って、また彼女を探した。だって、彼女の歌声はまだ聴こえていたから。
そして五百文字を歌い終え、アウトロも終わろうとした時、僕は元の場所へと戻ってきていた。曲が鳴り止む寸前、最後に見たのはルルさんの顔だった。彼女に「大丈夫ですか?」と訊ねられた瞬間に、曲は鳴り止んだ。
「……アキさん?」
「……あ、うん。大丈夫」
息を整えながら言った。もう何も聴こえないイヤホンを外してポケットにしまう。
「……ギターはもういいの?」
「あ、はい。おかげさまで」
「そっか。じゃあチューナー買わないとね」
笑顔のつもりだった。でも、笑えていたかどうか分からない。嫌な大人が浮かべる、全てを隠したつもりの愛想笑いができていただろうか。ルルさんも多分、何も知らないふりをしてくれた。だから何も言わなかった。
ルルさんが選んだチューナーをレジに持っていき、財布から五千円札を抜いて支払う。ルルさんは「ありがとうございます」と言って、僕はそれにまたなんとなく頷いた。
「夜遅くまでごめんね」
「そんな、むしろこちらこそ申し訳ないです」
「ルルさんが申し訳なく思う事なんて何も無い」
そう言いながら店の自動扉をくぐって外に出る。春になりかけの夜の空気が身を包んだ、その直後だった。
「ありがとうございました」
店内から、女性の声がした。
僕は反射的に振り向いた。僕の知っている声に、よく似ていたような気がしたから。
「アキさん?」
「……いや、何でもないよ」
でも、自動扉が閉まって、僕はすぐに前を向いた。
もういいんだ。そういう運命なんだ。だって、曲はもう鳴り止んだのだから。
* * * * *
拝啓、アキ君へ
桜花爛漫の候、ますます清栄のこととお慶び申し上げます。
なんて、こんな書き出しは私には不相応ですね。大人になったのだから、手紙くらいはちゃんと書けるようにと思ったのですが。
私は今、窓の外に流れる桜の花弁を見ながらこの手紙を書いています。あの日から十年後の三月十日。アキ君はまだ来ていません。
実を言うと、この手紙がアキ君に読まれる事はないだろうと思っています。ある日、ラックを整理していたここの部員が見付けて、「何だこれ」と捨てられるのがいいところかもしれません。
アキ君がいないなら、もう帰ってもいい。そう思ったのですが、ふと思い出したのです。君には、日付を間違える癖があった事を。ありえないとは思いますが、万が一。君が日付を間違えてここに来る日を想って文字を書いています。とは言え、ここに来た君がこの手紙を見付けてくれるかどうかは別問題ですが。
最近はめっきりパソコンでの仕事が主流になり、鉛筆を持って紙に何かを書くのも久しぶりのような気がします。明確に覚えているのは十年前、作詞ノートに歌詞を書いていた時以来でしょうか。たまにはこういうのもいいですね。
何から話すべきか分かりません。が、せっかく桜の綺麗な日なので、今思い出したあの日の話をしようと思います。私達の卒業式の日の話を。
私はずっと、君を待っていました。卒業式当日も、次の日も、またその次の日も。さすがに毎日通い詰めるのは難しかったですが、それでも、日を置いてまた桜の樹の下へ行く事もありました。
どのくらいそうしていたか分かりません。でも、とある時を境に当たり前のように、ごく自然に行く事を止めました。私自身の言葉を使えば、その時私はようやく変わったのだと思います。君はもう来ないのだと、なんとなく理解しました。
これでもう、私と君を結び付けるものは何も無いと思っていました。ですが知っての通り、私はこうやってここに来ています。そう、もう一つの約束があったからです。あの夏の日の約束が。
多分、あんな子供じみた約束は忘れる方が普通なのだと思います。だから君は今日ここに来なかったし、前述のように、この手紙も読まれる事はきっとない。私自身も、何事も無ければここには来なかっただろうと思います。では、どうして私はここにいるのか。
卒業してからしばらく、いや、なんならむしろ最近。君は音楽家になり、君自身の名前を大きく広めました。当然、私も「アキ」が君だと気付いていました。顔なんて見なくても分かります。君の音楽を誰よりも理解していたのは恐らく私でしょうから。
君が偉大な音楽家になり、どうしたって君の存在が耳に入る度、目に留まる度、私はあの日の約束を思い出しました。十年後の三月十日、またこの部室に集まろうと。
君が今のような知名度を持っていなければ、私はここに来る事はなかったと思います。押し入れの奥を漁って、今日という日に君と聴く為だけに作った曲を引っ張り出す事もなかったでしょう。
本当は、君と一緒にこの曲を聴きたいと思っていました。この約束だけが、唯一私達を結び付けていたものだと思うから。無線イヤホンを片方ずつ分け合って、同じ曲を聴きたかった。それで、少し思い出話をした後で、最後に「さよなら」と言って別れたかった。でも、もういいんです。君はきっと、ここには来ないから。
私は変わった。君も変わった。それだけの事です。私も最後にこの部室であの日々をなんとなく思い出して、君と聴きたかった曲を一人で聴きながら手紙を書いて。それで終わりです。少し意地悪いですが、君がここに来ませんようにと、もう終わりにできますようにと祈っています。どうか君が、この手紙を読みませんように。
そろそろ曲が終わります。あの日、君に伝えられなかった二文字を五百文字にしただけの曲です。直接言えそうにないので、今ここで伝えます。二文字ではなく五文字に変わってしまった、私の最後の気持ちです。
私は、君が好きでした。さようなら。 敬具
十年後の三月十日 ミヲ
* * * * *
『タイムカプセル』
封筒の中には、彼女の字でそう書かれたCDが同封されてあった。歌詞を聴くに、あの片耳のイヤホンから流れた曲に相違なかった。それを確認した後で、CDと片方だけのイヤホンをゴミ箱に入れた。いくらしたんだろうとか、場違いな事を思いながら。
煙草を大きく吹かし、手元の灰皿に入れる。少し狭いベランダには、季節の変わり目の暖かい夜風が流れている。もう春だ。
家の中は既もぬけの殻で、不思議と、この場所を離れるのだという実感が今更のように湧いて出てきた。僕はやっと、ここじゃないどこか遠くへと飛び出すのだと。
僕と彼女の距離は少しずつ離れ、そして、繋ぎ止めていた約束もようやく切れてなくなった。まるで無線イヤホンのように。
僕は少し迷い、手紙で紙飛行機を折った。生暖かい風が吹き止んだ一瞬を見計らって、それをベランダから飛ばす。またすぐに優しい風が吹いて、紙飛行機はそれに流されていった。桜の花弁が流れるように、僕らが歩んできた速度のように、ゆっくりと、緩やかに。
まるで、二人ならどこへでも飛べると思っていた僕らのようだと思いながら、夜空に消えて無くなるまで、僕はそれを目で追い続けていた。やっと最後に、君の声を忘れられる。
部屋にかけていた曲は、もう当然のように鳴り止んでいる。