僕と後輩 22.エピローグ

「どうだった?」
「なんというか、変な話ですね」
 彼女は少し眉をひそめながら、表紙も背表紙も真っ黒な文庫本を閉じた。僕は「そうかもしれない」と少し微笑みながら同意する。
 変な話。そうかもしれない。そこに描かれているのは、背を向けるように真逆な「彼女」。でも、どこまでも変わらない「彼」と「彼女」の物語だ。
「暇潰しにはなりました。お返しします」
 彼女はそう言って本を僕に渡そうとする。僕は少し考え、「いや」と首を横に振った。
「それは君が持っているといいよ」
「……どうしてです?」
「だってその本は、『彼女』の物語だろ。なら、君が持ってる方がいいと思う」
 彼女はそれだけで、僕の言いたい事を何となく察したらしい。傍から聞いていれば、あまり意味の分からない、意味を為さない言葉かもしれない。でも、僕らには分かる。この物語を知っている僕らだから、僕と彼女だから分かるものがある。
「言っている事は分かります。でも、いや、だからこそ、先輩が持っているべきかなと思うんです」
「どうして?」
「だってこれは、『彼女』の物語であると同時に、『彼』の物語でもあると思うから」
 はたしてどうだろうか。この物語は、どちらなのだろうか。何度だって言おう、描かれているのは変わらない二人だけ。答えは無いかもしれない。
「僕は君に持ってて欲しいんだよ」
「……私に、ですか」
「うん」
 怪訝な表情で訊ねる彼女の問いに、僕は首を縦に振って肯定した。
 僕はその時、とある人の顔を思い浮かべていた。ここにはもういない、どこにもいない。でも、その人はついさっきまでここにいたような気もするし、ずっと昔に会っていただけのような気もする。そんなあの人の顔だ。
 あの人も僕も、かつては同じだった。僕はあの人から物語を受け取った。あるいは、あの人も僕の知らない誰かから物語を受け取ったのかもしれない。僕の知らない物語があったのかもしれない。そうやって、ずっとずっと続いていくのだ。
「たった今、この物語はきっと、二人の物語だから」
 あるいは、ずっと。そう言いかけて口を閉じる。彼女は「あんまり、意味は分からないですけど」と少し言いづらそうに首をかしげる。それでいいのだろう。分からなくていい。いずれ分かる時がくると信じて。
開いた窓からは優しい夏風がそよいでいて、それに運ばれた緑の香りが部屋に充満していて、空は文句の付けようもない快晴で。陰鬱とした梅雨が抜け去った後の、夏の始まりに相応しい青だった。
「私はどっちなんでしょうね」
 目の前の真っ黒な本をそっとなぞりながら、彼女が言った。「何が?」と訊ねると「さっきの話の続きです」と答える。
「私は一人だけど、私の中には二人いて。たった一人の先輩に救われています。でも、私はどっちなんでしょうか。どちらを選ぶべきなんでしょうか」
 たった一人の僕は、変わらなければそれでいい。でも、彼女はどうだ。ここにいるのは、どっちなんだ。
「……どっちでもいいんじゃないの」
「え?」
 少し目を開いて驚いたような表情を見せる。「僕の考えだけどさ」と前置きして言葉を続ける。
「どっちを選ぶとか、そういう必要はないんじゃないかな。だって、君はどこに行ってもどこまで行っても君のままだよ。それだけが、変わらない事実だ」
 これは多分、僕の願望に近いのかもしれない。本当はどちらかを選ぶべきなのかもしれない。でも、ここにいるのは僕と彼女だけだ。彼女が、後輩が悩んでいるのなら、その手助けをしてやりたい。そう思うのは、先輩として当たり前なのだから。
 彼女はしばらく僕の顔を眺めていたが、やがて小さく息を吐きながら笑った。「先輩が言うならそれでいいです」と。
「なんだか、よく似たものをどこかで見た気がしますね」
 そう言いながら、手元の文庫本に視線を落とす。その本には、タイトルはもちろん、作者もあらすじも、情報が何も無い。
「答えは決まった?」
「何のですか?」
 僕は「さっきの話の続き」と、文庫本を指差して言った。
「その本には、タイトルがある。でも僕は君に決めて欲しいんだ。君が想うがままのタイトルを」
 あるいは、そのタイトルすら僕が勝手に想っているだけのタイトルかもしれない。そうだとしても、別にいい。内容が人によって変わるなら、タイトルだってそうであってもいい。
「そうですね。何となく」
「どんなタイトル?」
「それは」
 彼女は言いかけ、何かを考えるような表情を見せた後で口を噤む。そして、含みのある視線で僕を見てまた口を開いた。
「多分、同じじゃないですか」
「え?」
「先輩が思っているのと」
僕は少し驚いてしまった。その言葉すらも、どこかで見たような気がしたから。どこかで聞いたような気がしたから。
彼女はどちらなのか。
この物語はどこまで続くのか。
この物語は、誰のものなのか。
僕らの物語は、どこまで続くのか。
きっと、答えはシンプルだ。
「そうだといいね」
「ええ、きっとそうですよ。だって、この物語は」
きっと、この物語は。


 
「僕と後輩」

「これは、『私』と『先輩』の物語です」  
『彼』と『彼女の物語』だ。