僕と後輩 21.大嫌い

 部室で一人うたた寝をしてしまい、次に目覚めた時には十年後になっていた。どういう理屈なのかタイムスリップをしてしまったらしい。どうしたものかと頭を悩ませていると、いきなり部室の扉が開いた。
「誰かいるんですか?」
 多分、この時代のこの学校の教師だろう。その人は僕を見て、一瞬戸惑った顔を見せた後で、「嘘でしょ」と掠れた声で言った。
「……先輩?」
「え?」
 
「タイムスリップですか」
「信じるの?」
「信じるしかなくないですか、この状況は」
「まあ、それもそっか」
 彼女との距離感をいまいち掴めないまま、会話を続ける。もう会いたくなかった、会わずに済むと思っていた嫌いな人間が現われてしまった。不可抗力ではあるが少し気を遣う。
「教師になったんだね。しかもこの学校の」
「学校は選べないので私の意志じゃありませんけどね」
 僕は少し違和感を覚えた。彼女の表情が、僕の初めて見るものに思えたから。彼女は、こんなにも優しい顔をしていただろうか。
「君が教師になるとは思わなかった」
「どうしてです?」
「だって、君はその、あんまり学校が好きじゃなかっただろ?」
 主に僕のせいで。その言葉を飲み込んで裏に隠す。それを彼女が察したかどうか分からない。彼女はどこか遠くを見ながら「そうでしたかね」と呟いた。
「もう十年も前の話です。忘れました」
 彼女の言葉と表情に、思わず呆気に取られる。僕がどんな顔をしていたかは分からないが、僕を見て彼女は「なんですか」と言った。
「十年も同じ人を好きでい続けたり、嫌い続けたり。そんなの普通は無理ですよ。私にとってはもう昔の話、過去の話です」
 そう言って彼女は少しだけ、ほんの僅かにだけ目を細めて口角を上げた、ように見えた。僕が初めて見る彼女の笑顔だったかもしれない。いや、僕の前にいるのは僕の知っている彼女なのだろうか。
「そういうものじゃないですか。過去は流れるものだし、遠くなるものだし、人は大人になるものです」
 そういうものだろうか。あれだけ拒絶していたものを、壊れそうなくらいに握り締めていた想いを、こうも簡単に手放して忘れるものだろうか。時間とは、そういうものなのだろうか。
「変わるんだね。君でも」
「ええ、そうです」
 交わした言葉の間に流れた空気は、僕の知らないものだった。こんな風に彼女と話す日がくるなんて。まさか、どこにでもいる普通の友達のように言葉を交わせるだなんて。
「……何か、十年前の君に伝えたい事はない?」
 たった一つ、許せないものがあった自分へ。ただ一人、殺したい人間がいたあの頃の自分へ。全てを忘れ、失い、鈍感になってしまった今の自分から伝えたい事は。
「別に無いと言えば無いですが、強いて言えば一つだけ」
 彼女は僕の顔を見て、優しく笑った。どこにでもいる、普通の人間みたいに。
「何事も程々にね、って」
 赦し、とも違う。諦め、が少し近い。過去の遺物は、今の自分に関係ないものだと、過去の自分は、私とは断絶されたものだと。そう確信している事が大人になるという事でもあるのだろう。
「それを僕の口から言ったらどうなるんだろうね」
「あの時の私ならまた怒るかもしれませんね」
 その時、学校のチャイムが響いた。十年経っても変わらないものはそれくらいしかなかった。
 彼女は立ち上がり、部室を出て行こうとする。僕がその背中を見送ろうとした時、「先輩」とこちらを振り向いた。僕の知らない表情だった。
「さよならです、先輩。私は、先輩の事が大嫌いでした」