僕と後輩 9.ささくれ

 冬の空気は張りつめたように冷たく、乾燥している。
 本を捲る自分の手元に目をやると、右の親指、人差し指の薄皮がめくれ上がっているのに気が付いた。いわゆるささくれというやつだ。一度目に入ったからには気になってしまう性格なので、一旦読書を中断する。
 一番楽なのは爪切りとか小さなハサミとか、そういうもので根元から切ってしまう方法だ。でもこれもまた僕の性格的に、なんだか負けたような気がしてあまり好きじゃない。
「毛抜きみたいなの持ってない?」
 正面で静かに読書をしていた後輩に訊ねる。彼女は小さく舌打ちをして鞄から毛抜きを取り出した。僕は「なんだよ」と受け取り、彼女は「別に」と手渡してくれる。
「言わなきゃ貸さなかったのに、って思っただけです」
「無いです」と言う事もできたのだろうけど、そういう嘘をつけないのが彼女の性格なのだろう。口には出さず、「残念だったね」と適当に返しておいた。彼女はそれ以上何も言わなかったから、これで正解だったらしい。
 毛抜きがあると言え、ささくれを綺麗に剥がすのは難しい。なるべく根元の方を挟んで、指先の方向に向けて引っ張るようにするのがいい。でも、力加減や方向を少しでも間違えると失敗する。
「『言わなきゃ』って事は、僕がささくれをどうにかしようとしてたのには気付いてたんだ」「目の前であからさまにゴソゴソされてたら、誰だって気付きます。それが嫌いな人間となれば尚更」
「そりゃそっか」
 人差し指のささくれを、少し強めに引っ張ってみる。なんとか上手くいった。
 繊細な作業だと思う。ささくれだって、冬の空気に当てられただけで、好きでこうなったわけじゃないだろうに。可哀想にと、分かりもしないささくれの気持ちに寄り添って同情してみる。一体、ささくれはどんな気持ちなんだろう。どうでもいい事がふと気になった。
「僕が嫌いっていうのはまあ分かるけど、逆に自分の事はどうなの?」
「何がですか」
「自分の事が好きか嫌いかって単純な話」
 親指のささくれを毛抜きで挟む。角度と影の問題で、心なしか人差し指より少し難しく感じる。
「そういう質問には『時と場合による』と答えるようにしてます」
「単純な話って言ったのに」
「先輩は雰囲気だけで『どっちでもない』みたいな言葉選びしそうですよね」
 でも、理解できないわけではない。他人であれ自分であれ、そんなものは状況で簡単に一転二転する。そういう不確かものを、強さを持って貫ける人間は凄いと思う。だから、そういう事ができないという意味で、僕は。
「僕は、嫌いかな。いろんな意味でね」
 開いていた窓から、冷たい風が吹き込んだ。思わず目を細める。冷たい風に流され、「違うでしょう」と冷たい声もついでに耳に入り込む。
「先輩のそれは、ただ怖くて隠しているだけです。あるいは、『自分の事を嫌いな自分』が好きなだけ」
「その方が楽なんだよ。ただの自己保身だ」
 風が止まったのを見計らい、改めて親指のささくれを毛抜きで挟む。その時、視界の外からガタンと音が立った。見ると、彼女がこちらを睨んでいる。
「自虐に走るとか自己憐憫に浸るとか、そういうのは心のどこかで相手を見下してないとできないんですよ。私が嫌いなのは、先輩のそういうところです」
 視線を手元に戻しながら、「いつも思うけどさ」と何でもないように続ける。
「嫌いな人間と無理に付き合う必要は無いんだよ。好き嫌いがあるのはしょうがない。だから、嫌な奴はさっさと切った方がいい」
 実際そうだろう。彼女がここに固執する理由なんてどこにも無い。それなら、離れればいいだけだ。僕はこの場所も彼女も嫌いではないから、僕からは切らないけど。
「そうですね」
 彼女は案外サラッとした口調で、鞄を掴んで部室を出て行った。「切った方が楽なんですよね、結局」とだけ言い残して。
 静かな部室で僕はほんの数秒、虚無のようにどこかを見つめていた。選択肢を提示したつもりだった。良くも悪くも優しさのつもりだったかもしれない。でも、間違えたらしかった。
 数秒後、手元に焦点を合わせると、爪元から血が滲んでいた。冬の冷たい空気のせいだと、そう思う事にした。