僕と後輩 10.この丸くて小さな世界の中で

 僕の唯一の後輩である彼女は、いわゆる優等生だと思う。
 成績優秀で、性格も外見も穴が無い。取り立てて凄いと思うのは、校則を一切合切全て守り切っている部分だ。制服を着崩さず、スカートの丈を数センチ単位で着こなす。髪形も規定通りで、当然化粧もしない。男子生徒と比べても制約は多いはずだけど、それらを完璧に遵守している。はっきり言って今どきそんな高校生がいるのかと引くレベルだ。
 けれど、僕の卒業が三か月先に見えた十二月。彼女は、校則と今まで自分の中にあった何かを少しずつ破っていった。太腿が露わになり、暗めのアイシャドウを入れ、艶やかな黒髪にはブリーチがかけられ、左耳には丸い銀色のリングピアスがぶら下がったのだった。
 僕の卒業式の後、「今更だけど」という始まり方でその理由を訊ねた事がある。彼女は自分のピアスに触れながら、悲しそうに笑いながら呟いた。
「半径を広げないといけない気がしました」
 左耳のピアスは小さくて綺麗で、慰めのような、そんな丸だった。
 
「お久しぶりです」
 卒業以来、二年ぶりに訪れた部室は何も変わっていなかった。約五メートルの小さな部室。この部屋にしかない空気と香りに満たされている。
 そして、机の上に勉強道具を広げている彼女も相変わらずだ。なんというか、いわゆるヤンキーのような恰好をしている。強いて言えば、髪の根元から数センチ先にかけてが黒くなり、右耳にも左耳と同じようなリングピアスがぶら下がっていた。
「お忙しいのにごめんなさい」
「いや、大丈夫だけど、何かあった?」
「何も無いですけど、会いたいって思ったから連絡してみただけです。好きな人に会いたい事に理由はいらないと思いますけど」
 僕は何と言っていいか分からず、適当にごまかして椅子に座った。数日前、久しぶりに彼女から連絡があって、たまたま今日が休日だったから来られたのだ。
 それからしばらくは、ただの世間話をした。僕の仕事についてだとか、彼女の受験勉強についてだとか。数日後には半分くらい忘れているような話ばかりだ。
 一通り現状報告が終わって、お互いに次の話題を選ぶような間があって。僕はふと、卒業式の日を思い出した。彼女の言葉を。
「半径って、何の半径なの?」
 彼女は一瞬、何の事か分からないと言いたげな表情を浮かべた。僕が「卒業式の後の」と付け加えると、彼女は「ああ」と思い出したらしかった。
 それからしばらく考えるような素振りを見せたから、「言いにくいなら別にいいんだけど」と言おうとしたところで、彼女はまた口を開いた。
「私は、半径五メートル以下の、この小さな部室を世界と呼んでいたんです」
 彼女は左耳のピアスに触れながら言った。その数字が何を表しているのか、僕はなんとなく分かった気がした。
「先輩がずっとここにいてくれるなら、私は変わる必要は無かった。でも、世界は嫌がらせのように広がり続けます。先輩はこの部室から出て行って、私の世界には誰もいなくなった。だから、私も変わるしかなかった」
「誰だって、独りでは生きていけませんから」と、悲しく笑いながら呟いた。
 それはつまり、彼女なりの後ろ向きな努力だったのだ。否が応でも広がり続ける閉塞的な世界。そこで排他されない為には、全てを受け入れて歩み寄るように変化するしかない。
「でも、駄目だったんです。どんなに『友達』と言い張って一緒にいても、どんなに『恋人』と納得させて過ごしても、私と私以外では住む世界が違うんです。私の世界はどうしようもなくこの場所で、先輩だけが、唯一私の半径五メートルにいてくれた人で。それ以外には、何もいらなかったんです」
 何もいらない人間なら、現状に満足して今立っている場所を肯定できる。それでいいと思う。何かを目指して歩くとか、何かを掴み取る為に努力するとか、そんな事しなくていい。その世界でひっそりと暮らして、漠然とした不安とか不満には目を瞑っていればいい。
 でも、彼女にはそれができなかった。半径五メートルのこの場所が、彼女の居場所だったから。ここだけが、彼女の世界だったから。
「会いたい事に理由はいらないかもしれませんけど、一緒にいるには理由が必要らしいです。なんか、面倒くさいですね、世界って」
 そう言って彼女は、左耳のリングピアスからそっと手を離す。
 なぜだか、銀色の丸が小さくなったように見えた。