僕と後輩 7.質の良いイヤホンでいいです

 その日は夏を予感させるような、あるいは梅雨なんて世界でまことしやかに囁かれてきた御伽噺なのではと思わせるような五月晴れだった。本を読んでいた僕は廊下から聞こえてくる雑音に散々苛々させられていて、だから、スマホに繋げたイヤホンから大音量で好きな曲を垂れ流していた。
 そしてふと気付くと、プレイリストを流し終えたイヤホンの外から、帰宅時間を知らせる鐘の音が耳を劈いた。僕はそこで目覚め、欠伸をしながら顔を上げる。そして、そこでようやく目の前に彼女がいた事に気が付いた。
 彼女は小難しい顔をしながら、目の前で開かれた本を読み耽っていた。いつの間に来たのか。僕は驚きのあまり声も出せないまま、彼女を凝視する。すると彼女は視線だけをこちらに鋭く向け、「なんですか」と不機嫌そうな声で言った。
「こっち見ないでくれませんか。あまりいい気がしません」
「……いつ来たの」
「考えれば分かる事を訊かないでください」
 そこで僕はようやく、自分の耳にイヤホンがあった事を思い出し、それを取り外した。彼女はたったそれだけの動作に、少しだけ「嫌そうな」顔をした。配慮が足りなかったと咄嗟に思った。
「ごめん」
「何がですか。意味を求められない謝罪に何の意味があるんですか」
「……そうだね、ごめん」
 この二回目の謝罪には意味があると思ったのか、彼女はそれに対しては何も言わなかった。
 詳しい事は知らないが、彼女は耳に障害があるという。人よりも聞き取りづらい音があるらしい。そんな彼女の前で、イヤホン越しに会話をしてしまうのは、例え考え過ぎだとしても、あまり良い事ではなかった。
「うるさいです」
「何も言ってない」
「顔がうるさいです。申し訳なさそうな顔が苛々します。あるいは、申し訳なく思ってる自分を許して欲しくてそういう顔をしているのか」
「無茶苦茶だ」
 僕が言うと、彼女は何を思ったのかわざとらしく大きな溜め息を吐く。そして「いいですか」と前置きをしてまた不機嫌に口を開いた。
「私が大丈夫だって言ってるんですから、……いや言ってないですけど。何も言ってないのに、勝手に私の声を聞いた気にならないでください。それで先輩が自己満足してる事の方に問題があります」
「……どういう意味?」
「『考えれば分かる事を訊かないでください』。二回目です。考える事を面倒くさがるな。私の声をちゃんと聞いて、ちゃんと文字通りに受け取ってください」
「聞いた気になるなって言ったり、ちゃんと聞けって言ったり、君は」
 僕が言葉を並べようとしたところで、彼女は大きく舌打ちをした。それで僕は口を噤むしかなくなってしまう。
「それが一番の問題だって言ってるんですよ。何も無い場所から勝手に声を引っ張ってきて勝手にあれこれ想像して、それで勝手に満足して。かと思ったら、聞こえてくる声には耳を傾けず、自分に都合よく耳なじみ良く改竄する。だから私は、先輩が嫌いなんです」
 そう言って彼女は本を鞄に入れ、立ち上がる。そう言えばもう下校のチャイムは鳴っていたかと思い出した。
「せめて、聞こえてくる声には耳を塞がずにいたらどうなんですか。聞こえないふりに満足して逃げて。本当、先輩には苛々させられます」
 それを最後に、彼女は部室から出て行こうとする。分からないけど、僕は何か言った方がいい気がして「待って」と声をかけていた。扉に手をかけるような形で彼女はその場に立ち止まる。
「……分かった。いや分からないけど。分かろうとしてみる。君の声を聞かせて欲しい。文字通りに受け取るから」
 彼女は向こうを、扉を一枚隔てた先に顔を向けているわけで、その表情は僕には読み取れない。ただしばらくした後に、彼女は僕に手を差し出してきた。肩に鞄を掛ける時のように、あるいは、フォークダンスの相手を待つように。
 僕がその意味に分からず戸惑っていると、彼女はただ小さく、「さっきの」と言った。
「質の良いイヤホンでいいです。耳を塞げるやつをください。先輩のその都合のいい耳みたいに、聞きたくない事に、知りたくもない事に知らないふりできるやつを」
 彼女の言葉に僕は少し考え、一応、念の為に訊ねてみる。
「君が知りたくないのって、もしかして、いやもしかしなくても」
 その時、彼女がほんの少し口角を上げた、ような気がした。僕を嘲笑うような笑みにも見えた。
「決まってるじゃないですか。先輩の声とか、うるさい顔とか、私を散々に苛々させるものですよ」