蒼乃稚は偶像だった

 大阪大学感傷マゾ研究会様が刊行された「青春ヘラ Ver.2 「音楽感傷」」に寄稿させて頂いた作品です。​https://kansyomazo.booth.pm/​​​

 本作品には曲名がいくつか登場しますが、どの曲も僕の書いた歌詞が存在します。[#舞茸歌詞]で検索すると読むことができます。





「終わり方は夏でいいよ」
「……何の話?」
 ただただ、視界が蒼かった。潮風の香りが鼻腔を抜ける。そして、口に残っていたのは後味の悪いサイダーの炭酸。あとは聴覚さえ事足りれば、完璧な夏なのに。そんな事を思った。夏は一体どんな音を鳴らすのだろう。
「色々な話。世界とか理想とか現実とか人生とか自分自身とか。全部全部、夏に終わればいいのにって思った。そういう歌の始まり方」
「始まりなのに終わりを唄うの?」
 午後の授業をサボった午後一時半。防波堤の上を歩く稚(わか)が、僕より二メートルほど上の視線から言う。日の白い光が逆光を作り出し、彼女がどんな表情をしているのかよく見えない。
「じゃあ、今日終わらせる?」
「それもいいかもね」
 そう言ってくすくすと静かに笑う。スカートから伸びる白い脚が視界に入ってしまい、ごまかすようにしてサイダーを流し込んだ。
「どうして夏がいいの?」
「知らない。知りたくもない」
「知りたくないっていうのはなんで」
「知っちゃったら、『あ、これが夏の核だ』っていうのが分かるようになる。そうなったら、それを意識しちゃうから。それが視界にチラついたまま夏を生きていくなんて嫌だ」
 アスファルトの照り返し、茹だるような気温、肌を差す日差し。夏にしかないこのやるせなさとか焦燥感とか、そういうのは一体どこからくるのだろう。
「じゃあ稚は、夏が嫌いって事?」
「嫌いだし、好きだよ。何事もそういうものでしょ」
「よく分からない」
 どれくらいそうしていたか分からない。無意味な会話を繰り返しながら、ただ海沿いを歩いた。
 意味のある事が嫌いだった。意味ある事は社会に必須だけど、人生の上では見限るべきもので。無意味な事こそが人生には必要なのに、社会の上では真っ先に捨て去らなければならないもので。だからこそ僕には、こういう時間が必要なのだと感じていた。いつかこの時間が、大人になった僕を救ってくれるはずだと信じてみたかった。
 やがて防波堤も終わりに辿り着く。稚が上から僕をちょいちょいと手招きするので、僕も防波堤に登ってみる事にした。
「でも、夏のこういうところは好きかも」
 眼前に広がる景色に見惚れながら、彼女が言った。
 透明なのに透明じゃない空とか、陽の光を乱反射させる海とか、とにかく、そういうものがただ曖昧に存在していた。蒼穹と碧海。境界線すら失くしてしまうほどの青。視界が、ただ青かった。それだけなのに、それが全てだった。
 ふと彼女が、透き通った綺麗な声で鼻歌を口ずさみ始めた。僕の知らない、何かの曲のメロディだった。
「それ何の曲?」
「存在しない曲」
「でも今歌ってる」
「今存在し始めたの。つまり私の作った曲」
 そう言って彼女は「うひひ」と変な笑い方をし、その後でまた鼻歌を歌い始めた。
 どうしてか分からないけど、僕の中に予感が生まれた。たった今、稚が口ずさんだ曲名も無いようなこのメロディを、僕は一生忘れない気がする。この先の人生がどんなものか想像もできないけど、その時々で彼女の歌声を思い出してしまう。そんな感覚があった。
「ねえ、崇音(たかね)」
 彼女が僕の名を呼ぶ。彼女が好きだと言ってくれた僕の名だ。たった一つの音を崇めるように、何か一つだけ信じられるものがあればいい。そう言ってくれた。
「なに?」
 遥か先の水平線をなぞるように、二匹の白鳥が弧を描いて飛び回る。まるで、どこにも行けない僕らのように。
「いつか、夏も世界も、全部全部終わらせようね」
 息を呑むほどに美しい微笑みを浮かべ、彼女が言った。
 蒼乃(あおの)稚。僕は彼女の歌声を、これから先、嫌というほど聴き続ける事になる。
 
「名執(なとり)先生、〝蒼乃ワカ〟って知ってますか」
 その時僕が手渡されたのは、提出期限を過ぎた課題プリントだった。
 彼女は僕の受け持つクラスの生徒の中でも少し変わっていて、頭は良いのに成績に繋がらないという、なんというか、自分に関係のない事には無頓着な子だ。教室の中にも友達はいないように見える。
 そんな彼女だから、珍しく雑談を提案してくれた事が少し嬉しかった。僕が「芸能人か誰か?」と訊ねると、眼鏡の奥の瞳が驚いたように開かれたのが見えた。
「ボーカロイドですよ。最近テレビでも流れっぱなしじゃないですか。知らない人の方が珍しいです。『また春、僕ら嫌って』とか『赤色の後退曲』とか知りません?」
「ああ、聞いた事あるかも。あれってボカロだったんだ。知らなかった」
 僕の学生時代、ボカロというのはいくつか決まったソフトがあって、その中から好きなものを選んで歌わせるというのが主流だった。それが今となっては、誰でもボカロソフトを作れるような時代になっている。誰の声をどんな風に使うか、あるいは使わせるか。その選択は様々だ。
「今、一番有名なのは『蒼の君へ』です。シングルランキングでも連日上位で」
「佐藤(さとう)さんはその蒼乃ワカっていうのが好きなの?」
「好き、ですけど、もっと正確に言えば好きなボカロPがいて、その人の使う蒼乃ワカが好きなんです」
「へえ、どんなの?」
 プリントを確認しながら会話をする。いつも通り、全問正解だった。確認済みという印にサインを入れる。
「『君の瘡蓋でいさせてください』、『指標が朽ちる音を聞きたくない』、『君を殺す歌をうたいたい』、あと『Wへの追慕』も好きですね」
「物騒だ。それに少し気持ち悪い」
「それがいいんですよ。有名な曲はどれも綺麗事ばっかりで嫌になります」
 プリントを受け取りながら、「でも最近は曲を出してないんですよね」と彼女が言った。普通は点数を確認するものだけど、それすらせずに僕の顔を見て話を続ける。
「なんでもいいから、蒼乃ワカの曲を聴いてみてください。どのボカロよりも綺麗な声してますから」
「……そうだね。暇があったら聴いてみるよ」
 その時の僕は、上手く笑えていただろうか。大人らしく、子供の言動なんてのらりくらりと躱すような嫌な愛想笑いを浮かべていたに違いない。
 
 夕方の六時を回っても、空は未だ明るい。窓の外に見える桜の樹は、春の香りを何も残さないような葉桜を茂らせていた。
 誰もいない教室で一人、有線イヤホンを差して音楽を聴いていた。曲名は『また春、僕ら嫌って』。歌詞を呑み込むようにして耳を澄ませながら、三月の桜花が視界を覆う様を想像してみる。卒業式のあの日、僕の傍には、当たり前のように彼女がいたはずだった。
 
*  *  *  *  *
 
「開花予想外れちゃったね。あのテレビ局は当てにならないや」
 稚はそう言って椅子に腰をかける。この硬くてじっとしてられない木製の椅子も、今日が最後と思うと名残惜しいような気がするから不思議だ。
「崇音はさ、楽しかった?」
「なにが?」
「高校生活。結局ほとんど私と一緒にいた気がするね」
 僕らはずっと、どこか遠くに行きたがっていた。手を取り合って、誰かの足跡をなぞるようにして逃避行を繰り返して。誰かの真似事でいいから、ここじゃないどこかで、ただ夏の空気に満たされていたかった。最初からそこにあった足跡を辿って、結局僕と彼女の足跡はどこにも残らなかった。
「この街も、時間も、人も、学校も。全部が大嫌いだった。早くここから抜け出して、何かの意味とか大層な理由とか、そういうものだけを探していたかった。なのに、この桜を見てると」
「……見てると?」
 僕の問いに、彼女は何も言わなかった。僕もそれ以上は問い詰めなかった。ただ、彼女の瞳に映る桜花があまりにも綺麗だったから、それに見惚れていた。
「……早く、散れ」
 大人になるという事はきっと、知らないふりが上手くなる事でもあるのだろう。子供じみた僕らはずっと、下手くそな知らないふりを続けていた。いつかこの日々が終わるなんて、終わらせなければいけないなんて。そんな、知りたくもない事からずっと目を背けていただけだ。
「私達、どうだったかな。ちゃんとやれてたかな」
 彼女の言葉に、僕は少し迷って「大丈夫だよ」と言った。それ以外に何を言えばいいのかも分からなかった。
「僕は僕だったし、稚はちゃんと稚だった」
「どういう意味?」
「分からないならそれでもいい」
「冗談だよ。なんとなく分かる気がする」
 稚はただ、ずっと向こう見ていた。僕をどこか遠くに連れて行ってくれるような、「ここじゃないどこか」の名前を知っているような、例え知っていなくても、彼女にさえ付いて行けばどこにだって行けるのだと無条件に妄信してしまうような。そんな彼女だった。
 そして僕は、そんな彼女の背中を追いかけていただけだった。ふと思い出したようにこちらを振り向いて、僕がいるかを確認して、安堵したように柔らかく笑って。そんな彼女を、ずっと見つめていたかった。
「これからどうなるんだろうね、僕達」
 今度は僕が呟いた。多分、彼女が言おうとしていた言葉を。同時に、言いたくなかったであろう言葉を。
「どうにもならないし、どうしようもない。だって、崇音は崇音だし、私は私だもん」
 だから、彼女の言ったそれが、ただ信じたいだけなのだろうというのはすぐに分かってしまった。
 きっと、どうにもならないのは僕だけだ。彼女と過ごした日々だけを見つめて、心だけがずっとそこに居残り続ける。どこに行こうと、何になろうと、それだけが僕の中に在り続ける。
「崇音は私を忘れられないし、私も、ふとした時に崇音の事を思い出しちゃうんだろうなって思う。それで、『また崇音と逃げたい』ってその場で泣き喚いてる気がする」
「そんな事ないよ。稚は大丈夫」
「うわ、裏切者。大丈夫じゃない私達のままでいようよ」
 綺麗な羽を広げ、青空を飛ぶのであろう彼女のようにはなれない。幼虫のままではいられず、成虫にすらなり切れない。グズグズな羽を広げてはすぐにそこから落ちていく。そういう僕のままだ。彼女の広げた羽の色だけが、目に焼き付いて離れない。
「ねえ、崇音」
 稚は立ち上がって、教室の窓を開けた。三月の気温が、僕らを生暖かく包み込む。
「私達だけは、ずっと変わらずにいようね。この先、どんな事があっても」
 言葉の意味するところが分からず、僕は「どういう意味?」と眉をひそめる。
「いつか大人になって、何か大切なものをどこかに忘れて、人生の全部が重くのしかかっても、私だけは、崇音の味方でいるから。私の味方は、崇音だけだから。世界で一番綺麗な場所で、また会おうね」
 強く春風が吹く。彼女の繊細な髪がそれに流される。
「そうだといいね」。言いかけた言葉を、寸前のところで呑み込む。彼女だけは、ここじゃないどこかへと羽ばたかなければならなかったから。ただ、彼女と共にいられるならそれでよかった僕とは違うから。
 桃色の花弁が教室に舞い込む。彼女はそのうちの一つをそっと手に取った。春の象徴を強く握りしめ、そして、小さく叫ぶように言葉を零す。
「……散るな」
 彼女の瞳に映る桜は、水面に反射するようにあやふやに揺らいでいて。
 何もかもがあまりにも遅すぎた僕らは、きっと残花だった。
 
*  *  *  *  *
 
 学校を出る頃には「夜」と呼ぶに差し支えない時間だったのだが、空は未だ夕焼けの茜色を塗り広げていた。イヤホンから流れる彼女の歌声を聴いていると、どうしても歩いて帰りたくなってしまったから、最寄り駅の二つほど手前で下車した。
 そこは、いつか彼女と歩いたような海沿いだった。限りなく「近い」のだが、どうしても本物には遠く及ばない。当然だ。「本物」なんて、どこにも無いから。
「蒼乃ワカ」というボーカロイドを作り上げて世に放った直後、「蒼乃稚」は当たり前のようにどこかへ行ってしまった。今、どこで何をしているのか、僕には知る術もない。学生時代の約束なんて、大人になれば心から弾き出されるのが普通だ。だから、何も忘れられない僕は普通じゃないのかもしれない。彼女はきっと、僕の存在なんて忘れているだろう。それでいい。ただの独りよがりの執着のままがいい。強く、そう思う。
 世の中は今、蒼乃ワカという存在を崇め奉っている。まるで死骸に群がる蠅のように。彼女の歌声を使って、ありきたりなラブソングや反吐の出そうな応援ソング、奇を衒ったようなエモいとか呼ばれるような曲を好き勝手に歌わせる。彼女はそんな事絶対に言わないのに、間違いなく彼女の声でそれらを歌わせている。
 テレビを付ける度、街中を歩く度、校内放送が流れる度、ネットを開く度。至る所に、蒼乃ワカが蔓延している。誰も彼もが、蒼乃ワカを神様にしている。誰も、本物の彼女を知らないくせに。彼女がどんな声で何を発するのか、知っているのは僕だけなのに。
 蒼乃ワカの配信の権利元は僕にあって、僕はスイッチ一つでそれを止められる。つまり、いつだって蒼乃ワカを使用不可能にできる。なのに、僕はそれをできないでいた。そのスイッチを押してしまえば、もう彼女の歌声を聴く事ができないと知っていたから。あの海沿いで彼女が口ずさんだハミングを、ただ思い出すだけになってしまうから。彼女を手放したくないという醜い執着が、こんなにも僕を痛めつける。それに加え、まるで彼女は僕だけのものだとでも言うようなこの感情が、何よりも気持ち悪いのだとも自覚している。
 何も手放せないでいる僕に、唯一できる事。蒼乃ワカに歌わせた、誰が作ったのかも知らない曲を聴く事。そして、彼女の歌声を聴きながら、ありもしない蒼乃稚との思い出に身を寄せる事。それだけだ。
『また春、僕ら嫌って』は、桜を連想させる卒業ソングだった。もし、僕と彼女が卒業式の日に何か会話をしていたら。あの曲を聴きながら、そんな架空の思い出に浸っていた。
 夕の光を反射させる水面の白が、酷く眩しかった。額を汗が伝う感触を自覚しながら、イヤホンから流れる「彼女」の歌声に耳を澄ます。曲は、『赤色の後退曲』。
 
*  *  *  *  *
 
「何も捨てないでいたいんだけどね」
 目の前にぽっかりと浮かぶ夕陽にスマホを向け、稚は言った。なんでもないような、学校からの帰り道だ。僕はこの時間が好きだった。彼女と並んで、学校とは反対側に歩くという事が何よりも大切だった。満たす度胸もない反抗心のようなものを、そうやって細やかな事で解消していた。
「じゃあ捨てなければいいんじゃないの」
「重い荷物は捨てないと歩けなくなるんだよ」
「『重い』って言って捨てるなら、その程度の物でしかなかったって事じゃない?」
「違うよ。捨てたくないのに、捨てなきゃいけないの。あるいは、いつの間にか勝手にゴミに出されてる」
「不思議だよね」。そう言いながら彼女がスマホをタップすると、周囲に小さなシャッター音が響いた。
「この写真みたいにさ、何もかも永遠にして閉じ込めて置ければいいのに」
 それは、少し分かる気がした。大切な瞬間を永遠のものにして、いつでも眺められるようになればいいのに。戻りたいんじゃなく、ただ繰り返していたいだけ。そういう大切なものを、僕らはあまりにも多く抱え過ぎていた。
「稚は、『今』っていうこの時間が好きなの?」
「そんなの分かんないよ。ほんのちょっと嫌いかなって思うかもしれないけど、人間なんて生きてる限りそんなものでしょ」
「なのに捨てたくないって思うのは、大切なものは失ってから気付くって知ってるから? この時間が、いつか失くなるって分かってるから?」
「違う。いつだって、失ったものだけが大切になるんだよ。人間ってどうしようもない生き物だから」
 彼女は何でもないように言って、先を歩き出す。僕は未だ、足を動かせないままだった。
 僕も彼女も、多分知っていた。完璧な愛の形とか、世界で一番美しいものの正体とか、まだ名前の付いていない感情に名前を付けるとか。そういう、答えの無いような問いに時間を食い散らかすだけのこの日々が、いつかは終わってしまう事に。
「どこか遠くに行きたい」「ここじゃない場所で報われたい」「こんな事してる場合じゃない」。そんな焦燥感は結局、思春期という文字で片付けられてしまうのだろう。それで、暖かい陽だまりの中でそうやって迷ったふりをする事こそが必要なのだとも思う。
 大人になって、こういう会話や感情を屋根裏にしまった玩具みたいに過去の中に埋もれさせて、何者にもなれないままなのだろうか。それとも、この時間を忘れられないまま大切にし過ぎて腐らせて、それでも縋り付いて手放せぬまま、不安に染め上げられた黒い夜をいくつも迎えるのだろうか。どちらが不幸なのだろう。どっちも不幸だろう。彼女と共に無駄遣いしたこの時間のように、変わらないものや二度と手に入らないものを、数え切れない程に抱え過ぎている。
「大人になんか、ならなくていい」
 小さく、僕は言った。数歩先で彼女が足を止め、こちらを振り向く。
「僕達はまだ、間に合うよ。きっと」
 切実にそう言うと、彼女は「なにそれ」と困ったように笑った。
「大人になると、責任とか自分とか、そういうものが増えていくんだよ。ただ、目の前にある事から目を逸らせばいいだけなのに、それもできなくなる。私達はずっとずっと、そうやって生きてたはずなのに。『逃げちゃおっか』なんて、簡単に言えなくなる」
「それでも、僕はいつまでも待ってる。君となら、そうできるとも思ってる」
「……そうだといいね」
「悲しいなあ」と、現実をちらつかせるような目と言い方で彼女は言った。
 僕はただ、何も言わず近くにいただけの僕の手を取って欲しかった。知らない空を見たかった。言葉なんていらなかった。
「どうなれば幸福とか、どうすれば不幸とか。僕は知らないよ。でも、君といるこの時間をどこかに追いやるくらいなら、僕は」
 僕は、なんだろう。何がしたいんだろう。何になりたいのだろう。多分、何もしたくない。何もいらないから、何もしないで生きていたい。ただ夏の香りに満たされていたい。それだけなのに、生きる事そのものが何かを強要される事でもあって。生きるという事はきっと、考えたくもない未来の事を考えなければならない事でもある。
 稚は僕の顔を、ただじっと見つめていた。何を思っているのかも分からない表情で。そしてしばらくすると小さく、「惨めだよね、私達」と零した。
「ここじゃ報われないって知ってる。このままいつまでもここにいても、私達はどこにも行けないって分かってる。だから、全部全部投げ出して、どこかに行きたくなる。でも、大人になっても多分変わらないんだろうなって何となく分かってて、それに知らないふりをする」
「……じゃあ、どうして生きるんだよ」
 僕の問いに、彼女は何も言わなかった。答えが無いと知っていたから。彼女には、生きる意味なんて無かったから。
 神様なんていないから、いつかは何も無くなるから。全部全部投げ出して、どこか遠いところで二人で生きよう。夢とか理想とか無くていいから、何も持たずに生きていよう。そう言いたかったはずなのに。
「惨めだって分かってるのに、何も手放したくないんだ。縋っていたいままなんだ」
 忘れる事が希望と言うなら、そんな希望なんていらなかった。口に出す事すら億劫で、心の中で強く思った。
 ずっとずっと向こうで自己主張する夕焼けに、とびきりの殺意を込めながら目を細めていた。
 
*  *  *  *  *
 
「先生のサインってフルネームなんですね。珍しくないですか?」
 学校というのは、ただそれだけで胸を締め付けてしまう空気で満ちている。廊下に差し込む茜色の夕焼け、どこか遠くから聞こえる生徒の喧騒、放課後の教室の非現実感。そういうものはどこの学校でも共通らしい。この高校を卒業したわけでもないのに、言い様の無いノスタルジーに苛まれてしまう。
「他の先生は違うの?」
「大抵は苗字だけですよ」
 佐藤さんが、僕から受け取ったプリントを眺めながら言った。
「だって、名前まで書くの面倒くさくないですか?」
「とある人が僕の名前を好きだって言ってくれた事があったんだ。それからかな、サインに名前も書くようになったのは」
「その『とある人』っていうのは好きな人とかですか」
「そういう事でいいよ」
 遠い初恋を語るように、昔の夢を語るように、いかにも大人らしい笑みを浮かべる。
「その好きな人って、どういう人でしたか」
「どうしてそんな事が」
 そこまで口にして、ようやく気付いてしまった。嫌な事を思い出してしまい、頭を抱える。隠していたわけじゃなかったけど、まさか気付かれるなんて思っていなかったのだ。
「TakanePの作った『Wへの追慕』という曲。〝W〟っていうのは、その人の事ですか」
 佐藤さんがわざわざ遠回しな言い方をする。口には出さないけど、彼女に友達がいない理由が少し分かった気がした。
「私には理解できないんですが、あんなにも気持ち悪い感情を抱けるような人ってどんな人間なのかなと、少し気になっただけです」
「『気持ち悪い』はショックだな。僕にとってはこれ以上ない、ひたすらに綺麗な歌詞を綴ったつもりだよ」
 また愛想笑いで言うと、佐藤さんは目を細めた。気持ち悪いものを見るような目で。
「タイトルの〝W〟っていうのは、蒼乃ワカの事だよ」
 ふと思い立って、僕はそう言ってみた。佐藤さんは眉間に皺を寄せる。気持ち悪い、ではなく、単純に意味が分からないという様子で。
「……蒼乃ワカは、ボーカロイドですよね? 今のはまるで、実在する、みたいな言い方に聞こえたんですけど」
「うん、ちゃんといる。佐藤さんが自分で言ってただろ? 知らない人の方が珍しいって」
「蒼乃ワカの歌声とか見た目とか、そういうのなら誰でも知ってますよ。でも結局は、存在しない存在ですよね。世界のどこを探してもいない存在に、名執先生は執着してるんですか」
「僕は知ってる。彼女がどんな歌声で曲を歌うのか。多分、誰よりも僕が知ってる」
「じゃあ教えてくださいよ。蒼乃ワカは、誰なんですか」
 ここで僕が、彼女について知っている事を羅列する事もできた。でも、そうしなかったのはどうしてだろう。「大人だから」という言葉で言い訳できる気もするし、全て諦めたからという気もする。彼女との存在しない思い出を想起して、情けなく感傷に浸って。そんな自分が、何を知っているというのだろう。
「……貴方にとって、蒼乃ワカがどういう存在なのかは知りません。知りたくもありません。ただ、伝えるべき相手もいないラブソングなんて、気持ち悪いだけだと自覚してください」
「あれがラブソングなのかどうかすら分かりませんけど」。佐藤さんはそう言って僕に背を向けた。不思議と、悪い気はしなかった。
 
 家に帰って、真っ先にやったのがベッドに飛び込む事だった。鞄をそこら辺に投げ、スーツや付けていたイヤホンもそのままに、呻き声のような音を出して寝転ぶ。明日は休日だ。そう思うと同時に、結局何もしないまま一日を浪費するのだろうという事も分かっている。
 TakanePとして活動しなくなった事に、ちゃんとした理由は無い。好きな飲み物が自販機から無くなった、自分のデスクだけクーラーの冷気が直撃する位置だった、走る気分ではなかったのにエレベーターの中で人がドアを開けて待ってくれていた、走れば渡れたのに信号待ちする事を決めて立ち止まってしまった、鍵は開けっ放しでクーラーも点けっぱなしだった。そういう、重なっていく日々に自分自身が埋もれていっただけだ。そういうものに一々全てを否定されたような気がして、呼吸すら、瞬きすら、死ぬ事すら。全てが億劫に思えて仕方なかった。
 大人になって何もかも忘れるなんて、誰も教えてくれなかった。大人も時間も教えてくれなかったし、道徳の授業でも習わなかった。いつか報われるとか、夢は叶うとか、生きててよかったと、心から思える日がくるとか。そんなの詭弁だって、全部知っていたはずなのに。
『君の瘡蓋でいさせてください』、『指標が朽ちる音を聞きたくない』、『君を殺す歌をうたいたい』、そして『Wへの追慕』。全ての曲がもういなくなった、いたはずだった彼女へと捧げる歌だった。行き場のない想いを理由を付けて書き出しただけだった。
 僕は未だ、あの頃の生き写しのままだ。現実も理想も人生も嘘も世界も夏も。全てを捨て去りたかった。そんな、子供じみたままの僕でいたいだけなのに。それすらも叶わないなんて、じゃあ、どうして生きていくんだろう。
 イヤホンから流れる彼女の歌声に身を寄せ、ゆっくりと瞼を閉じる。静かに、ただ無意味に、まどろみへと落ちていく。曲は、『蒼の君へ』。
 
*  *  *  *  *
 
「崇音にとって私がどうか知らないけど、私にとって崇音はなんでもないよ。有象無象の一人。大人になって、『ああ、そんな人いたかもね』ってだけの存在」
 首元を伝う汗が、へばりつく制服が、湿度を含む気温が、ただ不快だった。遮るものの無い日が肌に痛い。
 そこはどこか、廃れた公園だった。知らない場所のはずなのに、見覚えがあるような気もしている。寂れた遊具ばかりが並び、砂場以外の場所からは雑草が自由気ままに育っている。
 僕と彼女は、二つ並んだブランコに座っていた。左手で握っていたチェーンから手を離すと、手の平が錆の色で汚れている。叩き落そうとして右手を見ると、そこには棒付きの青い氷菓を持っていた。
「崇音ってさ、実は結構自分の事好きだよね」
 どういう意味? 何が言いたいの? そういう事を訊ねようとして、ふと気付いた。声が出ない。多分夢の中だからだ。僕はただ、彼女の声を聞く他なかった。
「私の存在を何かの宗教みたいに思ってる。蒼乃ワカっていう存在を世界より、自分自身よりも大切に思ってる。そんなつもりでいるんでしょ。でもそれ、全部違うからね。私の事なんて関係なく、結局自分の為でしかないからね」
 その通りだ。彼女のように指標みたいな、道標みたいな、寄る辺みたいなものがないと僕は生きていけない。そう思っている。
「ほら、そこがもう違うじゃん」
 僕の思った事に応えるように、彼女が言った。
「人ってさ、なんだかんだ生きていくじゃん。そんなもの無くてもさ。君はただ、私をただの物みたいに扱って、それを大切にできてるんだっていう自分が可愛いだけだよ。もっと言えば、私じゃなくてもいい。他の何だっていい」
 そうなのだろうか。彼女以外のものをそういう視点で見た事がないから、それが正しいのかどうかも分からない。
「君の気持ち悪いところってそういうところだよ。私をただの消費物としてしか見てない。不快でしかない」
 彼女は心底嫌そうに眉をひそめながら、右手にあった氷菓を一口齧った。
「自分は違うんだ。どんなものより綺麗で、尊むべきで、大切にするべきものを知っている。何も知らずただ無意味に時間を浪費してる他の人間とは違う。自分だけが、特別なんだ。そう思いたいだけでしょ? これを失くしてしまえば自分は死んでしまうだろうって、誰かにそう言ってひけらかしたいだけ。本当は私がどんな風になっても他の人間と同じように生きていくんだって知ってるくせに、それから目を背けてる。生きる度胸も死ぬ勇気もないから、ただ私を理由にしてる」
 彼女の言葉に、僕は何も言えなかった。反論ならできたはずだった。紛い物の言葉を並べられるはずだった。でも、そうしなかった。できなかった。
「勝手に私との思い出を捏造してるのって、どうしてなの? 他人の曲から聞こえる私の声にみっともなく縋ってるのってどんな気持ち?」
 何か言おうとして、でも僕の口からは勝手に「分からない」という言葉が吐き出されていた。右手が勝手に持ち上がり、溶けかけた氷菓を齧る。
「それもまた、ただ自分を慰めたいだけなのかな。自分の過去には、何も無かった。だからせめて、私を使って勝手な日々を妄想して、あたかも昔を懐かしむみたいにお手頃な感傷に浸ってる。可哀相な自分をよしよしって、頭を撫でてあげたい。違う? 違わないよね。だって結局それって、『無かった』っていう事実の再確認でしかないもんね。それをずっと繰り返していられるのって、やっぱり傷付いた自分が大好きでしょうがないからだもんね」
 あの日、教室で見た息を吞むような桜も。
 あの日、海沿いで眺めた目の眩むような夕焼けも。
 僕は、全てを思い出したかった。思い出してみたかった。思い出したい、はずだった。
「『誰よりも僕が知ってる』? そんなわけないでしょ。私を勝手に記号にして、気持ちよくなる為だけに利用して。そんな事やってるのは他でもない崇音じゃん。何も知らない奴が私の声を勝手に使いやがってって、そう思ってるんでしょ? 聞きたくないならソフトの配信を止めればいい。でもそうしないのは、他人のものでしかない『私』に情けなく縋ってみたいから。そうやって縋ってる自分に酔っていたいから。ボーカロイドっていう存在しない存在に感傷を寄せたいから。こんな気持ち悪い事って自覚しながら、止められずにいる。君の人生そのものみたいだね」
 溶けた氷菓が、雑草の上に落ちる。湿気った棒切れが手元に残る。
「……存在するものは不変じゃない。自分の望まないものに変化するし、腐り落ちる事だってある。だから信頼できない。でも存在しないものは不変だ。だって、存在しないんだから」
 また、僕の口から言葉が吐き出される。きっとこれが僕の本心だという事だろう。いつも誰かに暴かれる事を恐れていた、自分自身にすらごまかし続けていた感情だ。いつだって、確かなものばかりを求めていた。存在しないものとか過去とか、もうどうしようもないものだけを愛でていたかった。
「要するに、『だから、こんな僕を許して欲しい』って言いたいんでしょ。それで、それを私に見抜かれた上で『それでいいんだよ』って言って欲しかった」
 彼女は嘲笑うように、あるいは怒っているように言った。
「お洒落程度の傷が欲しいだけ。自分を許してあげられるくらいの嘘が欲しいだけ。自分に都合の良いものだけを見つめたいだけ。君にとっての私はそうかもしれないね。どうせ存在しないんだからって勝手な扱いをして、それを私に許されたい。馬鹿じゃないの。そんなの、死んでもごめんだよ」
 そう言って彼女は立ち上がり、僕の目の前に立った。日の白い光が逆光を作り出し、彼女がどんな表情をしているのかよく見えない。
「私は誰のものでもない。私は、蒼乃ワカなんだ」
 
*  *  *  *  *
 
「いい加減終わらせて」。多分、彼女は最後にそう言った。
 誰のものでもない彼女が、その口で僕に語った本音のような言葉の数々。あれすらもまた、彼女の言葉ですらない。僕の中のどこか深い部分で、彼女に言って欲しかった言葉かもしれない。それで、終わらせる言い訳になるから。
 パソコンの前に腰を下ろす。蒼乃ワカの配信を止めよう。もう誰のものでもない彼女が、いい加減自由になれるように。
 いや、きっとそれすら建前だ。彼女に否定されたかった。否定されて、世界に蔓延る彼女の歌声から耳を塞ぐ理由が欲しかった。蒼乃ワカという記号を僕の中だけで永遠にして、自己完結させたかった。僕にとっての都合の良い蒼乃ワカ像が欲しかっただけだった。結局僕は、僕の事しか考えていない。
 ソフトを開くと、これまでに作った曲のファイルがいくつかある。そしてふと、その中に見覚えのない音声ファイルがある事に気が付いた。怪訝に思いながら、それを開いてみる。
『たった一人の、名執崇音君へ』
 思わず、息を呑む。
 間違いなく、「彼女」の声だった。
 その声音は、世界中で誰よりも僕が聴いてきたものだと叫びたい声だった。
『どうせ君の事だから、よく分かんない事でうじうじと悩んで、このファイルを開くのだと思います』
 分からない。暖かみのある人間のような声にも聞こえるし、機械じみた冷たい声にも聞こえる。この彼女は、どっちなんだ。いや僕は、どっちであって欲しいんだ。
『今、君の考えてる事を予想して、その疑問に答えてあげようか。正解は、どっちでもない、だよ』
『うひひ』と、変な笑い声を浮かべる。あの夏の、あの海沿いの、あの瞬間を思い出す。
『私、多分全部知ってるの。崇音には中途半端な自虐癖がある事、罪悪感に苛まれながらも、他人が歌わせる私の声を聴かずにはいられない事。それで、勝手に一人で塞ぎ込んで答えは欲しいのに、自分からは求めない事。これだけ僕は苦しんでるんだからっていう免罪符が欲しいんだよね』
 これは、夢なんかじゃない。ちゃんと、現実のはずだ。
『でもね、駄目だよ。約束したじゃん。「全部全部終わらせようね」って。いつもまでもあの夏の延長線上に立ってる私達じゃ駄目なんだ』
 どうしてそんな事を言うんだろう。何も終わらせなくていいじゃないか。どんな理由だったとしても、始めたくないなら、終わらせなければいいだけじゃないか。僕は、大人になんかなれるはずもないから。
『私から君に言える事なんて少ないよ。だから、確かな事だけをちゃんと伝えるね。よく聴いて』
 ボリュームを上げる。何一つ、聞き逃さないように。多分僕は理解していた。これが、彼女の声を聴く最後の瞬間だと。
『私は、崇音の全部を理解して、抱きしめたいと思う。でも私は、君が全部終わらせる事を願ってる。君の中のあの夏が終わりますようにって祈ってる。世界中の誰でもない、君にとっての私が、全部許してあげる』
 自分勝手に、私欲の為に蒼乃ワカを消費し続けていた事。それすらも全て、許してくれるだろうか。
『私の存在全部を、過去形にして欲しい。私を君の、偶像にして欲しい』
 
*  *  *  *  *
 
「……『僕はそういう風に、蒼乃ワカという存在を自分自身の中に創り出していたんです。誰かの作った蒼乃ワカで、彼女と過ごしたかもしれない過去を思い出してみたいんです。全部全部、嘘だと分かっているんです』」
「……もう止めてよ」
 机に肘をついて頭を抱える。佐藤さんは僕のインタビュー記事が載せられた音楽雑誌をパタリと閉じた。最後に「『君の終わり方』」と、僕の新曲の曲名を呟いて。
「びっくりですね。まさか蒼乃ワカの中の人と知り合いだったなんて」
「今どき珍しくもないんじゃないの?」
「他のボーカロイドはそうかもしれませんけど、蒼乃ワカだけは別次元過ぎますよ。世界中の誰もが、あの歌声の持ち主を探してます」
「存在しない存在って、佐藤さんが自分で言ってた」
 蒼乃ワカの熱心なファンらしい彼女が、珍しく目を輝かせている。僕は彼女から雑誌を受け取り、「ここに書いてあっただろ」と言った。
「全部、嘘なんだってば。蒼乃ワカの歌声を聴きながら、僕が妄想してるだけだよ」
「先生にそういう性癖があるのはもう嫌なくらい分かりました。そうじゃなくて、中の人についてです。蒼乃ワカじゃなくて、蒼乃ワカの歌声の持ち主について。教えてくださいよ。彼女は、どんな人だったんですか」
 その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。佐藤さんは不快そうに眉を寄せる。
「何度も言ってるだろ。全部全部、嘘なんだってば」
 
*  *  *  *  *
 
「いつか、夏も世界も、全部全部終わらせようね」
 かつて僕が「救いが無い」と言った時、彼女は少し微笑んで「じゃあ私がそれになってあげる」と言った。僕は曖昧に微笑むばかりで、それを肯定できなかった。それを言ってくれた彼女はどこか遠くにいて、いつかこの場所からいなくなってしまうのだろうなとなんとなく思っていた。
 ある日、「君は何が欲しいの?」と問われた。「君の欲しいもの、私が全部あげる」と。
 その日、僕は「賛美」と答えた。次の日、僕は「肯定」と答えた。次の日、僕は「意味」と答えた。次の日、僕は「虚構」と答えた。次の日、僕は「理由」と答えた。次の日、僕は「全て」と答えた。
 彼女はよく、僕を海に連れて行った。潮風が優しく吹くその場所で、僕らはただ海を眺めているばかりだった。僕は願っていた。「これが君の欲しいものなんでしょ?」と彼女が訊ねてくれる瞬間を。僕はそれを否定してみたかった。
 僕は確信していた。僕は僕の欲しいもものが分からないまま、大人になってまたここにくるのだろうなと。隣にいた彼女を思い出しながら、煙草を吸っているのだろうなと。彼女が僕にあげようとしているものが「それ」なら、確かに間違いではないのかもしれない。なんて、思わず笑ってしまう。
 答えが決まった。「僕が欲しいものは、君が絶対にあげられないものだよ」と言った。「本当に?」と訊ねられたので、「本当に」と言った。「だから、君にはただこの場所で笑っていて欲しい」とも言った。「今は、ただ思い出になって欲しい」とも。
 思い出が救いになると思いたかった。多分ならない。じゃあ、彼女が思い出になる意味はなんなのだろう。
 きっと僕は、「何が欲しい?」ではなくて「どこに行きたい?」と言って欲しかった。あるいは、「何になりたい?」と。叶わない未来を、彼女と見ていたかった。ただ、それだけでよかった。
 僕は彼女に、後悔になって欲しかった。彼女のいない未来で、そうやって彼女の歌声だけを思い出していたかった。
「最後の最後に、全部終わるその瞬間に、私の全てを聴いて欲しい」
 ただただ、視界が蒼かった。潮風の香りが鼻腔を抜ける。口に残っていたのは後味の悪いサイダーの炭酸。そして、隣から聞こえる、彼女の鼻歌。
「ほら、夏が終わる」
 夏の音は、きっと、蒼乃稚の歌声だった。