僕の中の当たり前

こんにちは!二回目の投稿となります、立教大学3年のひろきです!今回はタイトルにある、ワールドフットの活動を通して変わった僕の中の「当たり前」について書きます!


では、突然ですこの下にある写真を見て皆さんは何を思いますか?

一年前の僕は「日頃サッカーが出来なくて可哀そうな子たちが、サッカーの試合に勝って喜んでいる」 そう感じていました。ですが、今は違った感じ方をします。その考えが変わったきっかけがワールドフットの活動です。

前回の記事にも少し書きましたが、僕がワールドフットに入団したのはちょうど一年前ほどです。そんな一年前の僕、カンボジアの子供達は靴もない、サッカーボールもグラウンドもないし、勝手に「当然カンボジアの子供はあまり幸せな暮らしをしていない」と思い込んでいました。ですが、その考えは入団して2回目の話し合いの時に180度変わりました。

カンボジアの子供に何をしてあげられるかという話し合いの時、僕は「カンボジアの子たちってボールも持ってないしスパイクもないし可哀そう、だからそういったものを支給、サポートしたい」と発言しました。「この新入生熱いもの持ってんじゃん!」そんな風に周りは感じてくれるのかなって思った矢先、一つ上の先輩から言われたことは

「カンボジアの子は不幸だという考えは捨てな」

「現地の人々は俺らより純粋で、彼らの環境を当たり前に生きているんだよ。」 衝撃でした。僕は当たり前にサッカーができ,何不自由なく暮らしてきた自分を、さも当然のようにカンボジアの子供達より幸せだと思っていました。でも、幸せって物や環境とかいった外面的なものから決まるんじゃなくて、自分がどう思うかっていう内面的なもので決まるんだ、そう痛感しました。


ワールドフットが活動する意味は、最初は物品や環境の提供だと思っていました。でも本質は子供たちにボールやグラウンドといった外面的な環境を提供することじゃない。夢や目標に向かって挑戦し、僕らが当たり前に出来たことを通して将来の糧となる経験をして欲しい。

内面的な豊かさをサッカーを通して増やして欲しい。

それがきっと僕たちが活動する意味なんじゃないかと今は思っています。


今あの写真を見て感じること、それは「もっと多くの現地の子供たちにこの喜びを体験してもらいたい。」です。一年前まで当たり前に考えていた「現地の子は可哀そう」はあまり感じなくなりました。その代わりに、もっとあの笑顔を見たい、広めたい。外面的な豊かさではなく、喜びや悔しさといった内面的な豊かさ、幸せをもっと増やして欲しい。それが今の僕の当たり前です。

白井 佑季
2020.06.12

すごく共感しました、、、私も同じような考えを最初持っていて、でも実際にカンボジアへ行って考え方が変わったので、現地の子どもたちのことを知るって大事なことですよね!!!