必然ではあった。
「あのときのお兄さん!」
大教室での退屈な講義とそれに伴う惰眠を貪ったあと、寝起きの耳に溌剌とした声が殴りつけた。俺はそう都合よく”あのとき”に思い当たるほど社交的ではない。何の誤解かと振り返った先には見知らぬ女学生が立っている。
「この間、喫茶店でやらかした者です」
緑色のエプロンではない。サマーカーディガンを羽織り、どちらかといえば垢抜けた印象の彼女に初めは気が付かなかった。大学近くのカフェだ。アルバイトの店員が同じ大学の学生という可能性なんて、いくらでもあるだろう。
「……あぁ、あのときはご馳走様でした」
奥手なのではない。期待をしない主義なのだ。だから詫びの品をご馳走になったときも連絡先は聞かなかった。この場も適当にお礼を言って平穏な学生生活に戻ろう。自主休講を決め込むつもりの午後を、学生生活と呼ぶのかは分からないが。それなのに彼女は、からかうように肩をすくめて笑った。
「なにそれ、ドジな子が好きなんですか?」
人を変態みたいに言わないでほしい。屈託のない笑顔に、俺は何故だか猛烈に腹が立った。
「どう考えたってケーキとコーヒーに対して、でしょ」
「あ、怒った」
強い調子で訂正した俺を、彼女はまた楽しそうに笑った。立ち話が邪魔だったのだろう、苛立ち気味なすみませんの声と共に人の波が押し寄せてくる。彼女に対して曖昧に手を振り、流れに身を任せて廊下へ出た。もう会うこともないだろう。しばらくあの喫茶店へは行けないが、あんなところへ通うような交友関係も持ち合わせていない。
「私、経営学科一年の舞園です」
「同じく経営学科一年。桐島です」
気付いたときには遅かった。あまりに自然な調子で、脊髄反射のごとく自己紹介を終えてしまった。
「え、同い年!? 絶対年上だと思ってた」
「老けてるって言いたいわけ?」
「大人っぽいってこと! ねぇ、この授業取ってるんでしょ? 私、これは一緒に受ける子いなくてさ……」
リネン素材の、淡いイエローのサマーカーディガン。その大人びた印象とは裏腹に、昼休みに賑わいを増す廊下へ、動きも言葉もわちゃわちゃと拡散していく。こんなだから盆を引っくり返すのだ、と妙に納得してしまう。
「来週から一緒に受けよ! 連絡先も……」
面倒なことになってきた。携帯が壊れたことにでもしてお暇しよう。この授業もやめだ。どうせ退屈だし必修でもない。
「これ、私の連絡先!」
彼女が手渡してきたのは、メールアドレスが書かれたメモ用紙だった。
「ガラケーしか持ってなくってさ」
「……今の時代に?」
「うん。別に必要ないかな、って」
あ、あと……と彼女は付け加えて、女子大生にしては小ぶりなバッグの中から紙切れを取り出す。
「これ、割引券。金曜の夕方は大体シフト入ってるから。おすすめのブラックで淹れてあげるよ」
メモ用紙に重ねて一方的にクーポンを手渡すと彼女は、また来週、とのたまって去って行った。カーディガンの裾が翻る。爽やかなシトラスの香りがした。母のとは違う、女性の香り。ほぼほぼ初対面の人間を捕まえてからかう。こちらの話も聞かない。今の時代にガラケーで、コーヒーの好みはブラック。
人のペースを乱しやがって。俺はその場に立ち尽くして、思わず呟いてしまった。
「カッケー」
write:hiro