学ぶってなんだろう

 僕たちは色んな場面で学んでいると思う。それは学校だとか塾みたいな場所だけでなく、もっと広範な意味だ。しかし、学ぶことってなんだろうという疑問に即答できる人はそういないだろう。かく言う私も答えがまったく思いつかない。そこで、今回のJunctionでのミーティングの中では、まさにその疑問について考えてみた。

 ところで、学ぶと近い意味の言葉として「勉強する」という言葉があるだろう。辞書で調べてみると、それぞれの言葉は堂々巡りになってしまうが、日常的に使う言葉としてはニュアンスの違いがあるように思える。例えば「テスト勉強をする」という言葉は成立するが、「テストのために学ぶ」という表現は違和感を感じる。これらの違いはどこにあるのだろうか。

 他の人と話している中でよく出てきたのは主体性の有無だ。「勉強」という言葉は「強いる」という言葉が入っていることからもわかるように、ある種の強制を伴う。さきほど出したテスト勉強の例では、それをしなければいい成績が取れないなど、ある種強制されてやっている。それに対して「学ぶ」ことはより主体的な印象がある。つまり主体的に何かを獲得していくことを「学ぶ」と定義できるだろう。

 ではなぜ学ぶのだろうか。

 非常に興味深い意見がいくつも出たが、その中でも面白いと感じた意見は「許容する能力をつける」というものだった。

 以前から学ぶ意義は世界の解像度を上げることだと、私は考えていた。例えば何も学ばず飛行機から外の景色を見たときには、「あぁ、山と川が見える~。あ、村だ!」以上の感想は出てこない。しかし、例えば地理学を学んでから外を眺めてみると「あそこは扇状地になっているな。だいたい扇央のあたりに住宅地が建っているけど川が伏流してるのかなぁ。よく見ると川の両端に住宅地が建っているところがあるから、あそこは自然堤防で標高が高いんだろうな。あ、あの山はあそこまできれいな形をしているからきっと安山岩質だろうな。前方に雲が見えるな。ってことはあそこは上昇気流が発生してるからちょっと揺れるかも。」と細かな違いがよく分かるようになってくる。先ほどの、「許容する能力をつける」という考えは、この考え方を補完する。細かな違いを理解できることは、その分許容できるものが多くなってくる。

 最後に、考えることについて考えた。考えることはどのように定義づけられるのだろう。議論の中ででた意見の中で特に興味深かったのは、「変化すること」という意見だ。ところで、生物は常に細胞が入れ替わり続けている。人間はおよそ二か月で細胞がすべて入れ替わる。つまり二か月もたてば、物理的にはまったく別のものになっているのだ。つまり、変わり続けることが生きるということだ。これは肉体だけでなく、精神にも当てはめられるのではないかと思う。もしも考えることを「変化すること」と定義づけるのならば、私たちは考えることで生きている。逆に言えば、私たちは考えるのをやめたとき、精神的に死ぬ。死にたくなければ、私たちは考え続けるしかないのだ。私もまだ思考を放棄することはできない。まだくたばるわけにはいかないのだ。