「カンボジアに行って多くのことを学んだ。新しい自分を見つけることができた。」
そう僕が話したとき、ある先輩にこう言われました。
「外国行って見つかる程度の『自分』って何?それって本当に自分なの?」
自分探しの旅に出て見つかるのは本当に自分なのか。それって後付けした、理屈で固めた自分なのではないか。「自分探しの旅」と始めて聞いたときに僕が考えたことを思い出しました。それについて思ったこと・考えたことを今日は書こうと思います。
結論から言えば外国に行くこと、旅に行くこと、と言ってもよいかもしれませんが、それによって新しい自分の側面がみつかったり、新たな発見があったりすると僕は思います。
普段自分が置かれている身の周りの環境を思い浮かべてください。人間関係について思い浮かべるとなお分かりやすいかもしれません。
そこは居心地がよいかもしれませんが、そこには周りから求められている「自分像」があります。そして自分の普段の振る舞いは無意識のうちにこれに沿っています。
こういうことが起こったときにはこいつはこういう反応を返すとか、あいつはだいたいこんなキャラだとか思い浮かぶことはあるとおもいます。
だからそのイメージとはかけ離れた言動をとったときに「らしくない」と言われたり、さらにそれが何度も続くと「キャラ崩壊した」と言われたりします。
自分の人格・性格が少なからずこういった他者からの目・フィードバックを受けて形成されていく以上、これは当然のことであるし、僕はそれを悪いとも思いません。
問題なのはこの「自分像」に縛られると、この「自分像」からこぼれた自分に目が行かず、そしてそれが抑圧され、気づかないうちに無くなってしまうということだと僕は思います。例をあげると、いつもボケ担当の人が、「ホントは俺ボケよりツッコミの方ががやりたいんだけどなあ」と思っていたとして、急にツッコミに転向することは難しいといった感じです。
交遊関係だけでなく普段私たちは、知らず知らずのうちに身につけた固定観念・価値観・コモンセンス、そういったものに実は結構縛られてしまっています。
そういったものからある程度距離を置いて新たな視点から考え直す機会を手っ取り早く与えてくれるのが旅、できれば文化・歴史・価値観が違う外国への旅なんだと僕は思います。普段の「自分像」から解放されることでこぼれ落ちた新たな側面の自分が見つかり、気づき・発見が自然と生まれてくるのだと思います。
なんだか旅のススメみたいになってしまいましたが、このへんで終わりにしようと思います。