旅と私ー旅と私が生きる日々

いつでも、どこでも、誰とでも、繋がれる生活。

 私たちはそんな生活を日々生きている。

指一本で、簡単に自分の日常と誰かの日常を繋げられる。

それは恋人と交わす愛の言葉や、友人との相談やゴシップ、雑談など閉ざされた空間での一対一の繋がりにはとどまらない。

 私たちは日々友人・恋人だけでなく、世界中の誰かの日常をみんなで共有している。

めくるめく誰かの生活の煌めきが上から下へ、右へ左へ流れていく。

私たちは昨日も、今日も、そしてきっと明日も、浴びるようにしてその輝きに満ちた誰かの日常の断片を見ている。

更にはこの情報の川では職場や学校、地域などある程度決められたコンテクストの外にいるときの誰かの生活をも覗くことができる。

24時間365日その川は流れを止めることはない。

歯を磨きながら、パンを片手に、電車の中で、束の間の休憩の間に、帰宅の途につくその道で、1日の疲れを癒すソファの上で、更にはベッドの上で、誰かの生活や情報をあたかも監視でもするかのように、私たちはその情報の川辺から離れることはない。

そして時には世の光に照らされるべく自分の生活のほんの一部分のかけらをその情報の川に流す。流れていった生活のかけらは友人や遠いところの誰かの目の前を流れていく。そして自分は自身の日常のかけらへの他人からのサムズアップを待ち侘びる。

これほどまでに他人の日常に入り込むことができたり、自分の日常が誰かに見られているというような意識を持つような時代はこれまでになかったであろう。

私たちはそんな時代を日々生きている。

私は、この膨大な量の他人の日常を見る生活を息苦しく思うことがある。

そこには、嫉妬や自己嫌悪、見栄やマウンティングなど、精神衛生上良くない感情や情報が渦巻いていることも少なくない。私たちが毎日へばりついているその川には光しか流れていない。それは普段の生活の実状とはかけ離れている。毎日生きていれば苦しかったり、悔しかったり闇の部分もある。そこから目を背けて光ばかり見ていると、毎日の生活の尊さを見落としてしまったり、それどころか虚無感を感じるようなことさえある。 

更には自分のことを自分で考える時間が少なくなっているのも一番の問題であるように思う。川の中に流れる自分は実際以上に大きくて、立派な人物であるが、それは世の光によって大きく映された虚像にすぎない。自分の背丈が自分でわからなくなってしまうことも川にへばりつく恐ろしさかもしれない。

私は、この息苦しさからの逃避のために、日常の尊さを再発見するために、そして自分の本当の背丈を測るために、旅という非日常に飛び込んでいく。だから私はなるべくオフラインにして旅に行く。"他人の日常を見ている"日常から離れるためだ。 

旅に出ると思い通りにいかないことの方が圧倒的に多い。そもそも言葉が通じなくて意思疎通が図れなかったり、騙されたり、道に迷ったり、普段は壊さない体調が突然悪くなったり、友人と行けばなんでもないことで揉めたりと挙げればキリがない。

その度に自分に対しての嫌悪感や虚脱感と正面からぶつからなくてはいけない。助けてくれる人も情報も持ち合わせていない。当たり前が当たり前じゃない。初めはそれが想像以上に辛い。 

しかし、次第に自分はこのくらいの人間なのかと気づくことができてくる。

普段は他人の光ばかり見ていて向き合えていない自分の嫌なところに、真っ向から立ち向かって行くことで得られるものは等身大の自分の発見だと思う。この自分自身への"気づき"が、自分の虚像に対する違和感を、自分の実像を捉えたことに対する得も言われぬ充足感へと変えてくれる。

 

旅は私たちに様々な気づきをもたらす。人によってその気づきは千差万別であるが、私にとってそれは自分の実像の発見だった。

 

旅は私にとって、「日常や他人から離れて、自分とひたすら向き合う時間」である。

時間が経ってまた旅へ行く時、私は前の旅よりその実像が成長していることを期待してまたバックパックを背負っているのだろう。 

私は"次の旅へ行く自分"がその時落胆しないよう、日々生きていく。

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