「元始、女性は実に太陽であった。 真正の人であった。 今、女性は月である。 他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」
この言葉をご存知の方は多いのではないでしょうか。平塚らいてう(らいちょう)の言葉で、彼女が生きた1900年代前半の女性の立場の弱さが表れています。女性解放に尽力し、現在の日本の女性の立場に影響を与えた彼女について、今日は記事を書かせていただきます。
・1886年 東京に生まれる
東京生まれのらいてうは、とても活発で、大人には「女らしくしなさい」と叱られることも多くありました。日本女子大学の家政学部に進みながらも女として、というよりも、一人の人間として生きたいという気持ちが膨らんでいったようです。
・1904年 日露戦争が始まる
世の中は国家主義に傾き、女子大も「良妻賢母」の教育を推し進めるようになりました。女性は、男性の一歩後ろを歩くことを押し付けられ、らいてうはこれに強く反発しました。
・1911年 『青鞜』を創刊
25歳のらいてうは、同じ思いを持つ女性たちと女流文芸誌『青鞜』を創刊しました。その巻頭に、上の言葉を載せました。女性は男性に従って生き、想いのままに生きることなんて出来なかった、男性に頼るしかなかった、ということを表しています。 そして、こう続けました。
「私どもは、かくされてしまった 我が太陽を今や取り戻さなければならぬ。」
この文章は、多くの女性に勇気を与えたことでしょう。
・らいてうの恋愛
らいてうは3歳年下に画家と結婚したが、籍は入れず、夫婦別姓の生活を続けました。つまり、当時の家庭生活としてはとても珍しい、事実婚をしていたのです。
ここまでらいてうの人生について書きましたが、みなさんは何を感じましたか。私は、女として、女である前に一人の人間として、世の中を相手に戦う彼女のエネルギーや行動力に惹かれ、尊敬しました。彼女はこれ以外にも、日本婦人団体連合会を結成したり、様々な活動を行なっています。気になった方は、ぜひ調べてみてください。
「女らしく」「男らしく」といったジェンダーハラスメントは今かなり盛り上がっている話題の一つでもありますよね。今でもある男女格差を当時から是正しようとしているらいてうの精神力の強さは本当に尊敬すべきものですね。
男女格差のある時代に、自分の思う道を進む強さが素晴らしいです。このような方々の活躍が、現在の女性の選択肢の幅に繋がっているのでしょうね。