こんにちは、カタルシスのまさなりです。
いよいよ今回は核心的な部分にせまります。全体構成の中で言うと、2番の後半ということになります。
今回はちょっと難しくなるかもしれないので、飲み物でも用意して読んでみてください。
全体構成
- どんな問題に取り組んでいるのか?
- その問題が解決されていない原因は何か?
- 私たちはそれに対して、どう解決していくのか?
今回は内容はちょっと難しいので、まず、前回までの記事に目を通して頂くとより、理解しやすくなるのではと思います。
学生起業"カタルシス"は何をどう変えうるのか。vol.1
学生起業"カタルシス"は何をどう変えうるのか。vol.2
では、いよいよ人生選択の自由度を阻む原因を突き止めていくのですが、その前に、
前回のおさらいをサラッと行きます。
認識と現実(実在)の隔たりの問題
バーンッ。覚えていますか?
認識論上→ 実在論上 ↓ | 知っている | 知らない |
知っている | 知っていると 知っている事 | 知っていると 知らない事 |
知らない | 知らないと 知っている事 | 知らないと 知らない事 |
そうですね。知識には4種類あると。認識しているか否と実在しているか否かによって分けることができると。
これさえ分かれば十分です。
では、いよいよです。
まず、この4分法、知識以外のことにも使えないのだろうか?
ずっと前にした、幸福の話覚えていますか?
「客観的な幸福と認識している幸福に隔たりがある」
という問題を。
そうです。実は幸福も4つに分けることができます。
認識論上→ 実在論上 ↓ | 幸福である (と思っている) | 幸福でない (と思っていない) |
(客観的に) 幸福である | 客観的には幸福な 人であり、 本人もそう自覚 している。 | 客観的には幸福で あるにもかかわらず、 本人は不幸だと 思っている。 |
(客観的に) 幸福でない | 客観的には不幸な 人だが、 本人は幸福だと 思っている。 | 客観的にも不幸 であるし、 本人もそう自覚 している。 |
うん。面白いですね。これで言うところ多くの日本人は右上ということになりますね。逆に左下は、前に話題になった幸せの国ブータンとか?
でも、これには注意が必要です。例えば、某近隣国の国民もここに当てハマる可能性があるのです。洗脳され、幸せだと教育され、周りの情報が隔離された世界においては、幸せだと思ってしまうこともありえます。しかし、それは勘違いでしょうか?そもそも、客観的な幸せとは、西欧近代的な考え方では無いでしょうか。もちろんその可能性も十分にあります。ここも、いつか解説できたら嬉しいです。
左上は、スイスとか北欧諸国でしょうか。羨ましいですねぇ。スイス戻りたい。(実は、僕はスイスに1年住んでた)
先程にもチラッと言ったみたいに、実は、客観的な幸福と言うのは、そもそもあるのかという問題もありまして、議論の余地がある所なので、そこも、またいずれ時間がある時にでも解説します。(誰が聞くんだろう...)
とまぁ、こんな感じですが、
これと同じように人生の選択肢についても考えていきます。
認識論上→ 実在論上↓ | 最適な選択肢に 出会えたと 満足している | 最適な選択肢には 出会えていないと 不満に感じている |
実在する無数の 選択肢の中で、 最適である | 実際に最適な 選択肢に出会い そう感じている | 本当は最適な選択肢 に出会えているが、 本人はそう思っていない |
実在する無数の 選択肢の中で、 最適ではない | 最適な選択肢は他に あるにもかかわらず 最適だと思っている | 実際、最適な選択肢に 出会えておらず、 本人もそう感じている |
いやちょっと待てよ、無数の選択肢の中で、分母が無限に近い中、最適な1つの選択肢など実際にあると言えるのか?
という疑問は、ありますが、ここは例えば、最適度合い上位10%のように一旦解釈して貰っても構いません。
んー、やっぱり左上みたいな運命の出会いをして生きれたらと思いますよねぇ。でなくとも、左下であればいいような気もするし勿体ない気もしますね。
逆に右上の人は高望みし過ぎでしょうね。多くの人は右下なのではないかと思います。
そう、私たちがしたい事とは、右下にいる人を左上の世界へ辿り着けるように手助けをすることです。
その人に合う実際の選択肢自体を作ることは、私たちには出来ませんから、まだ出会ったことが無いような選択肢を認知する=選択肢に出会う場所を作ろうと頑張っているのです。
これでやっと、私たちのやろうとしている事の価値を説明出来た気がします。
ではいよいよ、次回は、最終回
新しい選択肢を認知する
をどのように叶えていくか?についてですね!
ではまたお元気で!