自由選択の必要性

【復習】ジェンダー単元

◎講義の内容

課題を通じ、普段は意識をしないような観点からジェンダー問題について検討することができた。特に課題内容に対する各班の発表で印象的だったのは、ジェンダー平等が実現されていない企業に対しては投資をしないという海外の仕組みがあるということだ。

このような強制的措置をとると、いやでも男女平等を実現していかないといけない。しかし、この方法は、女性優遇の逆差別や、女性だから雇用されたといった個人の属性の軽視などにつながりかねないなど問題が生じると思われる。そのため私はあまり強制的措置に賛成する立場ではない。

できれば自然な流れに従って平等を実現させていきたい。

しかし、今回の話を聴いて、現実を変えるにはもはや上記のような投資の制限やクオター制など、強制力を伴った措置を取らざるを得ない状況であることを、実感した。


◎講義やリフレクションを受けて

講義の中で最も印象的だったのは、次の二点である。一つは、ノルウェーと日本は40年前はジェンダー平等が同水準であったにも関わらず、現在はとても差が生じているということ、そしてもう一つは、外国の事例で、男性が大統領になった際に、子どもが「男の人でも大統領になることができるんだ」と驚きの言葉を出したという事例である。以下それぞれについて詳しく述べていく。

まずはノルウェーと日本の比較についてである。40年前は両国ともに同水準であったジェンダー格差が、現在はかなり開いてしまっている。このことは、ノルウェーと比較した際に日本がジェンダー平等に向けて有効的な措置を怠ってきたこと、また日本においても有効的な措置を講ずることで平等を実現することは十分に可能であるということを如実に表している。また班員の感想にもあったが、「日本でジェンダー平等を実現するためには、40年くらいかかるのかもしれない」という不安も同時に覚えた。

次に子どもの発現についてである。「男の人でも大統領になれるんだ」という発言は、日本ではまず考えられたい発言である。ではなぜこのような差が生じたのかというと、それは言うまでもないが、前提となる環境とそれによって形成された価値観が違うからである。この事例から、日本において価値観を変えてジェンダー平等を実現するためには、まず環境を変えていく必要があると考えた。環境が変わらなければ価値観はなかなか変わらず、ジェンダー平等が実現しづらい環境が再生産されてしまうという悪循環に陥ってしまう。講演の以前は、私はジェンダー平等に向けた強制的措置に否定的であったが、講演が終わった今では、強制的措置の必要性をひしひしと実感している。

環境を変えることの必要性について、最も卑近な例を挙げるならばコロナである。数年前までは日本においてテレワークは最も実現されないだろうと常に評価されれてきたが、コロナという外圧による強制的な環境変化のおかげで、現在ではテレワークが当たり前と化している状態である。このように環境の変化は人々の価値観に大いに影響を与えるため、ジェンダー平等においても環境の強制的変化が必要であると実感した。

最後に講演を通じて考えたことをもう一つだけ述べる。

松田さんは講演最中に、木の実を取ろうとする身長の違った3人の絵が示されて、平等とは何かを説明された。それは端的に言えば、機会の平等と結果の平等のことであるが、わたしにとってはとても印象的であった。

私は障害をもっている。障害名は視神経委縮。文字通り、資格情報を伝えるための視神経が委縮してしまい、目が見えないという障害である。

私はこの障害ゆえにいろいろな差別も受けてきたし、また不利益もたくさんあった。

しかし現在は国際的な条例の動きや、国内の障害者差別解消法など法的整備の充実化によって、障害者を差別しないこととに加え、積極的に障害による不利益を解消することが義務化されつつある。

ここで言う「差別しないこと」が機会の平等、「積極的に障害による不利益を解消すること」が結果の平等にあたるといえる。また後者については想像しにくいと思う人もいるために例を挙げる。それが合理的配慮である。

合理的配慮とは、障害者個人に対して行われるものである。障害者というくくりで一括的な支援を行うのではなく、障害の特性・個人の特性に応じて、障害をもつ個人が社会において不利益を被らないような措置を講じてもらうのが、合理的配慮である。目が悪い私の例でいえば、小さな文字だと見えづらいためにプリントを拡大してもらったり、遠くだと見えないので講演会やセミナーの際は最前列の積を確保してもらったりといった配慮をしてもらっている。

そして合理的配慮の特徴的な部分は、その出発点にある。つまり、「障害」から出発するのではなく、「あなたはなにができないのか」から出発するのである。この出発点の差が、個人を意識した適切な配慮へと結びつき、結果の平等を実現している。

ここまで合理的配慮という例を挙げた。なぜ合理的配慮について書いたのかと言うと、私が今回の講演を通じ、ジェンダー平等においても、ジェンダーと言うくくりに対する機会の平等を実現する支援だけではなく、ジェンダーの枠を超えた一人ひとりに対する結果の平等を実現する支援が必要だと考えたからである。

例を挙げるならば生理である。女性におこる生理、一概に生理といっても、人によって軽いこともあれば重いこともあり、またその人がいる環境によっても悩むことは違う。このような人や置かれた環境によって悩みがことなる生理に対して、単一的な支援は通用しえない。一人ひとりのニーズや悩みを踏まえた支援でないと意味をなさない。

このように、ジェンダー問題も、女性や男性の問題といった感じに枠組みで捉えるのではなく、個人に焦点を当てた支援が必要だと考える。

そのためには「みんなの」問題として、このジェンダー不平等をとらえる必要がある。

そして、その場にいるみんなが、価値観や先入観に縛られず、自由な意思決定・自己選択をできる環境を作り上げる必要がある。

障害に対しては個人を軸においた支援が日本においても実現されている。ならば、次はジェンダー平等に向けた個人に対する支援を実現していく段階である。

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