私がカンボジアに渡航に行く理由、それは「目の前のあなたと友達になるため」です。
1年生の6月、将来国際協力に関する仕事に就きたいと考えていた私は、その第一歩として東南アジアの教育支援をしている風の会に入りました。
子どもたちと実際に会って、教育を通じて少しでも手を差し伸べられることにわくわくしていた2年前。しかし、コロナを理由にカンボジアに行くことができなくなってしまい、ついに今回の渡航が引退前最後のチャンスになってしまいました。
オンラインで現地となんとか繋がりを保ち続けていたこの数年で、なぜ国際協力をするのか、なぜカンボジアの子どもたちなのか、大学生の自分たちに何ができるのか、幾度となく迷い、メンバーと考えをぶつけてきました。
そんなオンラインで活動する中、ひとつ気づいたことがあります。
それは、「目の前のあなた」がいない国際協力は、自分本位になってしまうということです。
活動をしていく中で、
「カンボジアの子どもたちに会いたい」
「子どもたちが可愛い」
「カンボジアの子どもたちの助けになりたい」
という言葉を何度も聞いてきたし私自身も言っていました。
けれども、聞くたび言うたびに何か違和感がありました。
本当に会いたいと思っている?
本当に可愛いと思っている?
本当にカンボジアの子どもたちのために活動してる?
この違和感の正体に気が付いたのは、去年の11月です。たった9ヶ月前、、、。
今まで「会いたい」「かわいい」「支援したい」と言葉にすることで、自分たちの活動が意義のあるものだと感じたかったのだと気づきました。
具体的に何が違和感だったのかというと、「カンボジアの子どもたち」「サムダッチ高校の子どもたち」という「概念」に対して活動していた、ということです。
「風の会」対「カンボジアの子どもたち」という概念同士の関わり合いでしかなく、「私」と「サムダッチ高校の〇〇ちゃん、〇〇くん」という個と個の関係性は3年間活動してきた今も皆無です。
風の会の活動中、「サムダッチ高校の〇〇ちゃんがね、」という会話をしたことがないことに寂しさを覚えます。
「子どもたち」という概念に対して愛を持つのは私には難しいです。
目の前の「あなた」に対して愛を注ぎたい。
だから、私は今回カンボジアに行き、目の前のあなたとの関係を築きたいと強く思っています。それも、「支援する」のではなく、「友達になりにいく」ためです。
相手から何かお願いされたわけでもなく、命に関わる喫緊の課題があるわけでもないのに、何の力もない大学生の私達が「支援」するというのは違うと感じます。
むしろ学ばせてもらっている。
助けなきゃいけない存在
じゃなくて、
友達という存在だから助け合う
という方がしっくりきます。友達なら、困っているときもそうじゃないときも、お互いに支え合おうとするし、大切に心から想うことができます。
たしかに学生にできることはたかがしれています。
大きなインパクトは残せない。
でも目の前にいるあなたのためになら行動できます。
目の前のあなたと友達になるために、私はカンボジアに行きたいです。
オンラインしか経験していない自分達の代だからこそ持ち得た視点や想い、立ち止まって考える時間も確かにあると思う。
俺たちの代だからできる目の前のあなたとの向き合い方をしたい。今回の渡航では。
全くその通りだ。
友紀恵が入ってきて、大変な広報部長も務めて、今まで色々なことを経験してきたよね。
ずっと頭の中で考えてきたからこそ、目で見て、目の前の相手を感じてほしいと私も思います。
想いを改めて文字として見ると、心を動かされた。
概念ではなく、「目の前のあなたに対して」
素敵な想いをシェアしてくれてありがとう!!
僕も国際協力の道に進みたく風会に入りました。途中で断念はしたのですが、だからこそ皆さんを応援したいと思っています!大変なこともあるけど、悔いのないように頑張ろう!
たしかに「子どもたちのため」と「友だちのために」は違いますね、、、どこか外から見ているような。中に入って一緒に考えたいです。概念として捉えていたっていう言葉、すごくグサッときました。
私も友だちつくって、隣で支え合えるような存在になりたいです!
友紀恵さんの愛をものすごく感じる想いだなと思いました。
目の前の「あなた」との関係を築き、愛を注ぎたい、私も異文化の活動を通してまさにそのように感じています。
オンラインで交流すると尚更感じるこの距離感。自分本位になっていく国際協力。
そうじゃなくって、目の前の「あなた」としっかり向き合いたい。そして友達になりたい。そして友達として当たり前の助け合い。そういう関係性を私も作りたいです。
今まで子どもたちとオンライン上でかかわってきた友紀恵さんだからこそ感じる想いだなと…!
友紀恵さんの想い、しっかりと受け止めました。ありがとうございます。