カンボジアに行く理由

渡航に行く意味

昨年、ラオスに関する会の活動に参加した経験から、現地に赴く必要性は漠然とわかった
つもりでいました。ラオス関連の活動で出会った方から、口をそろえて「現地にいかないと君たちを相手にできないよ」という言葉を投げかけられ続けたから。

今回のカンボジア渡航も、次期からカンボジア関連の活動を始めるのだから、
現地に行くのは必須だ。そのようにしか考えていませんでした。

しかし、現地に行く危険を冒さずとも、お金を渡せば支援は達成される。
客観的にみれば、カンボジアは間違いなくお金を出した自分達のおかげで良い方向に変わったことは明白。むしろ現地にある、支援のプロ団体に任せれば、自分達が支援をするよりずっと目に見える形で支援は達成される。
その言葉に、違和感を感じるものの、返す言葉もでず。

この違和感を明確にするために、本当の支援について考えました。

お金だけの支援。これを主流にした団体はどうなるのか。これが主流となった世界はどうなるのか。
全く論理的でもなく、感情論ですが、そんな支援が横行する世界、その支援は虚しすぎるものだと感じます。
確かに、お金を送るときは現地の人を思って、そしてそのお金は目に見える形でカンボジアの発展につながって、中身のある意味あるものに思われます。しかし、送るお金を送る当事者に、本当に現地の子どもたちを思う気持ちが芽生えるのか。見たことも、実際それが誰のために使われるのかも見ていないのにも関わらず、そこに本当に現地の子どもたちを思う気持ちがあるのか。そしてそのような気持ちがない状態で、継続的な支援・活動など可能なのか。

話が飛躍しますが、そもそも現地の子どもたちは、私たち日本の学生に、わざわざ支援をしてほしいなんて考えたこともないと思います。
加えて、私たちも支援という活動に携わらなければ、支援する人を実際に頭に思い浮かべながら活動できないという、虚しい気持ちなど感じることもなく済みます。
これを踏まえた上で、私たちから支援をさせてほしいと働きかけている時点で、それは支援の押し付け、一方的な支援になっているのです。
支援を続けるために、実際に会わせてくれというのは、自分本位の行動に他なりません。

じゃあ、やめればいい。
支援をやめれば、子どもたちはこれまで通りいつも通り生活するだけだし、私たちも虚しい気持ちを抱えたまま支援活動をしなくて済みます。
何もしないことが1番良い。

しかし、それでは何も生まれません。
何かカンボジアの子供たちに、知ってほしい、新たなものをつかんでほしいと働きかけるのは、どんな時でも私たちです。
そのため、自分本位の、押し付けの支援という形はどうあがいても変わりません。
それを承知の上でも、子どもたちに何かをつかんでほしいのです。


私自身が渡航に行く意味

高校時代の恩師が次のような言葉をひたすら口にしていました。
「最後の最後は人」
この言葉の重みを今だからこそ理解できます。
人と人が直接面と向かって、直接言葉を交わさなければ、何も生まれません。
私は「人と人とが直接つながる支援」を実現したいと考えて、風の会に入会しました。
早稲田大学には、本当にたくさんの国際支援・協力団体が存在します。
それらの団体の中で風の会を選んだのは、まさにその「人と人とが直接繋がる支援」を実現していたからです。現地に赴き、現地の子どもたちと交流し、人との交流の中で本当に必要な支援を見つけ出す。この、目には見えない、言葉にはできない心のつながりを作り出せる唯一といってもいい会だったのです。

今ではそれを全く目にすることができません。
しかし、以前の風の会の姿を取り戻すことは、渡航を実現させれば可能になると思います。
今回の渡航を通して、以前の風の会の姿を取り戻すとともに、自分自身で「最後の最後は人」という言葉を体現したいと考えています。


もう一つ、私個人が渡航に行きたい理由があります。
それは”虚無感”に打ち勝つこと。
この半年間、私はバイトもインターンもせず、自分と向き合い多くのことを考えることに時間を割きました。本を読んだり、映画を見たり、友人とおしゃべりをしたり、1人でもくもくと考え事をしたり、将来どんな人になり何をやりたいのか想像してみたり。
それぞれ何もテーマなしにしては、考えがまとまらないので、何か1つテーマを決めてそれについて考えていました。
そのテーマの1つに”虚無”というテーマがあります。

虚無は無駄とは全く違ったものだと思っています。
無駄には、中身があり、それは意味あるものです。
しかし、虚無は何も中身がなく、全く意味をなしません。
一部の政治や世の中の仕組み、また私たちの身近なところでいうとSNSなどに対しては、時に虚無感を感じてしまうことがあります。一見意味あるものに見せて、そこに意味や中身はないと感じるとき。
世界には、自分だけでは抗えない虚無の部分があることは必然だと思います。
だからといって全てを諦めて不幸になることは馬鹿らしいので、人は逆風に抗うことをせず、その不条理から目を背けがちです。この世界で生きる上で、幸福に生きるためにそれは絶対に必要なことだと思います。普段生きているときはその生き方でも十分だと思いますが、時には目を背けてはいけないで立ち向かうべきものがあると考えます。
それが今回の渡航。
支援先である現地を知らずに活動を続けるという虚無感は絶対に感じたくないです。
2022夏WC 渡航への想い
16件
はるか
2022.08.10

1対1で話したことがない真知は、関わったつもりでいたけど全然関わりのなかったメンバーの1人で。
何を経験してきて何を考えているのか全く知らなかった。

「自分本位の、押し付けの支援という形はどうあがいても変わりません。
それを承知の上でも、子どもたちに何かをつかんでほしいのです。」
自分達が経験して掴んできた現在は機会を知っていて、その機会を生かせる状況にあったから。そもそもその機会を知らず、生かせる状況はあるのに知らないからと言って選択肢が狭まるこの世界の条理に、私はやらせない気持ちを持っている。それに近い感覚なのかな??

子供たちに何かを掴んでほしい。
教育自立支援を行う者として、この思いはずっと忘れたくないな。

一緒に立ち向かっていこう!!

大前 友紀恵
2022.08.10

真知がプレで何で立ち向かわずに、はい、と受け入れるのか、と語っていた時、その目に力強さを感じました。

真知の周りへの優しさと、物事を深く考える力、それらの根底にある軸の強さ、沢山兼ね備えちゃってるあなたは最強だねっ

もっともっと色々話したい!一緒に渡航したい‼︎

三浦紘花
2022.08.10

人と人とが直接繋がる支援の重要さ、必然性、私もすごく感じる。国際協力は、人やその人の人生について考えることだなと思う。
虚無感。難しいけど、感覚的に私の中にもその言葉がつい最近まですごく長い間あった気がする。
渡航に行ったあとも、メンバーの思いや考えを根っこまで問い詰めて、自分が納得できるその時点での自分なりの答えを語り合ってほしい!
現地に知ったあと、もう一年活動できる真知と、一緒に渡航に行きたい!
真知の深い考えの共有ありがとう!