神々が見ている、私の生き方

私の好きな、とても古い話があります。

期限前500年に彫刻家フェイディアスは、ギリシャのパンテオンの屋根に立つ彫刻群を完成させたことで知られています。そして彫刻の完成後、フェイディアスの請求書を見たアテネの会計官は、『彫像の背中は見えない。誰にも見えない部分まで彫って、請求してくるとは何事か』と言った。それに対して、フェイディアスは次のように答えた。『そんなことはない。神々が見ている』

日本でいえば、最近は聞かなくなりましたが『おてんとう様が見ている』になるのでしょうか?働く者の心構えとして、たとえ誰にも見えない場所でも、手を抜くようなことがあっては絶対にならない。自分自身への約束・仕事への使命感として教訓にしています。

神は居るのか?私は居ると思います。宇宙の真理というか、宇宙の法則というか、一番しっくりくる表現は「Something Great」。これが私の考える神です。

そして神は人の形もしておらず、超自然的なものではなく、自分自身の中にある価値観・使命感だと思います。自分に嘘をつかない。他人から見た目ではなく、自分自身が納得できる生き方であると思います。それぞれの中に神がいる。

とんでもないアイデアやひらめきが突然起こったと聞くことがよくあります。夢の中や、風呂でボーッとしているとき。悩んで答えを求めれば、自分の中の神(潜在意識)が宇宙の真理につながって降りてくると理解しています。今まで積み重ねられた人類の英知と繋がるのだと思います。これが神の仕業。

この記事を書いているときに、上司から「1日1話、話せば心が熱くなる365人の仕事の教科書」という本をお借りしました。なんとそこには、1ページ目に稲盛さんの「成功し発展したのは私の才能ではない。宇宙のどこかに「知恵の蔵(真理の蔵)」があり、そこと繋がり発想やひらめきとなった。」とありました。そして「神々が見ている」のネタ元であるドラッカーの話が4ページ目に。そしてこれも偶然ではなく神の仕業。求めるものは与えられる。

心の底から疑問を感じ、また答えを見つけたくて悩みぬいたときにふと答えはやってきます。それは電車の中吊りであったり、たまたま入った飲食店であったり、地下街のポスターであったり。普段、普通に目にしているのに悩んでいないから気づかない。

私はイチローが大好きです。野球経験者として、彼の技術に惚れ惚れとします。彼は紛れもなく野球の世界では天才です。その天才が、毎日悩んでいる。答えを求め、より高みを求め苦しんでいる。彼は3,000本のヒットではなく、6,000打席の失敗を見ていました。

その姿を見れば、自分は悩んで当然だと思います。また、彼のその姿に勇気付けられます。そして自分に問い続けることはできます。諦めずに問い続けなければなりません。もがき苦しまなければ一歩すら進めない。幸い、私は今その環境にいる。この環境を生かさなければならないと強く思います。

最近社長と顧問に教えていただいたことがあります。人生はいづれにせよ思い通りにはならず、努力や訓練が必要とされ、苦悩も多いものだ。 会社に入り生きる目標をもって楽しく生きても、仕事だからと夢を捨てて生きても、どちらの生き方にも嫌なこと・辛いこと・我慢すること・勉強することが起こってくる。残りの部分を絶望するか、遊び心で楽しむか?どちらの人生がより良いか?遊び心は遊ぶのではない。心の余裕であり心に余裕があれば、仕事が俯瞰的に見えアイデアも湧く。 より楽しくワクワク考えることができる。

その道を選ぼう。せっかく生まれてきたのであれば、日々を楽しく生きなければ!自分が自分の人生を生きなくてどうする!?本当にその通りです。もっと悩み、もっと考える人生を歩もう!


松下 耕三
2021.03.10

まさに、まさに。篠田さんの思い、魂に響きました!

篠田圭介
2021.03.10

ありがとうございます。ありがたいお言葉をいただき、恐縮です。今後ともご指導宜しくお願い致します。

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