はじめに
1年後期のころから3、4年生が団体をフェードアウトするのは団体にとってのかなり大きな損失だと考えていた。なぜなら、経験と知識を蓄えた人材の流出、成果を生み出せる人材の流失は理念達成を遠のけるからだ。その考えに基づき、メンター制度などの構築を行ってきたが、いざ自分が大学4年となると、当時の先輩方の考えや想いがなんとなくわかるようになった。本記事はその心境記述とそれを踏まえたうえで後輩の皆さんが先輩とうまく接するためにいくつかのヒントを提案する。つながりの否定と責任回避
題名にもあるように沈黙はつながりの否定と責任回避という機能を持つ。つながりの否定とは、SFTからの責任が問われることその可能性を根本から否定することである。責任はつながりがあって初めて存在する概念である。被害者に対する加害者の賠償責任、子に対する親の監督責任といった具合である。沈黙は責任を問うSFTからの問いかけ、コミュニケーションが成立することを拒む。あたかも聾のように振る舞う態度、もう私には関係ないという態度である。しかし、つながりはそう簡単に切れるものではないし、切ると言い切れない人がいるのも事実だ。特に4年まで活動しているような人であれば、思考回路や生活の中にSFTが深く染み付いており、簡単に拭い去ることはできない。別の人は活動したいわけではないが、つながりを切りたくないということもあるだろう。これらの場合も、沈黙という選択を取ることになる。それは後輩のサポートを頑張る、困ったことあったらいつでも連絡してねといった言葉に換言される。経験上、こうした言葉は沈黙者なりに配慮した言葉である。そうした意味において、SFTメンバーは優しいと思う。沈黙に至るいくつかの思想
上記の記述は、沈黙の機能であるが、もう少しそれに至る思想を省察しよう。なお、機能は背景の裏返しでもあるため、少々前節と被る部分はある。①私の仕事ではない、後輩がやることに意味がある
これは私(23.3月卒業予定)が23.1月時点で最も感じていることである。俗的な言い方をすれば、老害になるからと言い換えてもいいかもしれない。この思想は後輩の育成を念頭に置いている。4年が卒業年の3月までリーダー職を引き継がないのは引き継ぎ教育の不足等を引き起こす可能性が高く後輩と団体の利益にならない。加えて、卒業予定の人間が後輩の代にまで影響を及ぼす決定に参与したとき(たとえば来春の春販売の目標金額の設定等)、振り返りの際の学習量は後輩だけで決定した際と雲泥の差がある。それくらい自身で決定する、経験するという行いは重要である。これらを考慮した結果、沈黙を選択することはよくあるように思われる。しかし、そもそも先輩が後輩を育成しきれていないという点においてこの考えは批判されるべきものである。
加えて、まったく引き継ぎをしない場合もこれに該当する。引き継ぎがされないといった不合理が再生産されるのは、引き継ぎをされなかった本人がその状況を乗り越えられてしまうからである。その場合、本人はその問題を自覚できないがために丸投げが生じる。
②特権的な無責任:「私はもう十分やった」
特権的な無責任とは、J・C・トロントが『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』で使う表現である。その中では、特権的な地位にあるがゆえに自身は責任を問われないことを正当化する態度を指している。SFTにおいてはこのような態度を意味する。つまり、自分は支部長、執行代、合宿係、事務局等でもう十分頑張ったから後は後輩たちが頑張るべきだ、頑張ってほしいといった具合である。この態度のさらに一段階奥には、団体の活動がルーティーンであったり、課題が毎年変わらない(メンバーのモチベが、広報が、、、)ことも寄与している。長いようで短い4年という大学生活を変化が少ないことに割くのが惜しいというのは自然な反応であると思われる。別の角度から見れば人は苦しみの意味と価値を見いだしたとき、その苦しみを乗り越えようと努力することが出来る。しかし、SFTでの苦しみが乗り越えるに値しなくなったと判断したとき、特権的な無責任を獲得することになる。苦しみの価値については、以下の記事も是非参照して欲しい。
その願望は、その為に払う苦痛に値するか
北野昂大
STUDY FOR TWO
なお、無責任という言葉に不快感を示す人がいるかもしれない。しかし、自身の持つ経験や思想といった知財を団体に残さないことは、後輩の教育支援を妨げているように思われるのである。加えて、自身の持つ能力はSFTを通じてそれが開発されたり、価値が付いたものも少なくないはずだ。その能力をSFTに恩返しとして使わないことは不義理ではないだろうか。
③私は別のことで忙しい
先述したように大学生活は長いようで短い。今だに私は大学入学当初のことを鮮明に覚えている。気が付けばもう卒業年である。加えて3年以降は就活や院試といった自身の人生選択の色が濃くなってくる。その際に、SFTに時間を割く価値を見いだせないといった思想は上回生に頻繁に襲い掛かる。
④配慮の結果
先輩がいれば後輩としての役割を演じるし、自身が後輩を持てば先輩としての役割を演じるように、人間関係は演劇である。上回生が沈黙する最後の理由は、後輩としてではなく、執行代として、先輩として伸び伸びと活動してほしいといった配慮の結果である。後輩の皆さんからすれば、この思想はあまりにも無責任に思われるかもしれない。「配慮ではなく、放任ではないか」と。実際、引き継ぎとは言えない引き継ぎは残念ながら実在している。そうしたとき、配慮とは言えないことは確かだし、そのとき、後輩の皆さんには先輩を批判する正当な理由は確かにある。そうした事態を防ぐために、先輩のマネジメントの仕方を後述する予定だ。
先輩と協働する
先輩に何かをお願いするということはかなりハードルの高いことであることはたしかだ。こんなことを聞いて失礼ではないか、忙しいのに手と頭を煩わせないかと色々不安になる。さらに、沈黙の理由を知るとますます不安に拍車がかかるかもしれない。しかし、色々考えた結果、自分たちだけで考えようとしてはならない。なぜなら、それが同じことの繰り返しを生むからだ。先輩の知識や経験は一つの判断基準となる。それらを踏まえたPDCAを回していかなければ、支部もメンバーも循環から脱却することはできない。逆に言えば、先輩はそうした循環からの脱却に入るか否かの見極めを行える可能性が高い唯一の人物であることを意味する。先輩の役割が見極める人とわかったとき、少しは相談しやすくなるのではないだろうか。これは私自身後輩から教わったことであるが、上記の不安が生じるのは先輩が「具体的な関わり方を提示しない」ためだ。したがって、後輩の皆さんが先輩と接するために、最低限度の引き継ぎと接し方を求めておくことが重要となる(引き継ぎに関しては支部長マニュアルや地区代表を通じてよりそれを義務化していく予定だ)。これから先輩となるあなたは、その逆で接し方を提示しておいたり、過去の資料と当時考えていたことやアドバイスを記録に残しておくといいだろう。無論、接してもらった際の感謝は必要である。接し方を求めるという書き方は何でも頼っていいといった誤解を生じさせるかもしれない。もちろん、頼ることは失敗を繰り返さないためにも大事だ。しかし、沈黙の思想①で確認したように一定限度は自分たちが主体となる必要はある。レポートと同じで、実際の活動や意思決定においては執行代が主で、先輩のアドバイスは従である。だが、先輩との関係は先行研究を行った研究者とのそれとは異なり道徳的な人間関係である。親しき中にも礼儀ありというように、感謝や礼儀は必要である。君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない。接し方を提示するのに加えて、接し方を考えるのであれば沈黙の理由を踏まえることが課題になる。なぜ沈黙をしているのかを踏まえることで、何を訴え、求めるかは考えやすくなるはずである。それもまた、後輩の皆さんが考えることに意味がある。
イマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』