利己性と利他性、及び個人理念再考ーよく活動するためにー

はじめに

 SFTという自由ゆえに不自由な環境を最大限活用するために、私は個人理念という概念を提唱してきた。その定義は、依然として曖昧なものではあるが、「利己性と利他性を止揚した、自分自身の活動理念」としておくのがよいだろう。その必要性は、団体の活動理念の存在から認めることができる。それらの詳細な説明は省く。過去資料を是非参照してほしい(https://drive.google.com/file/d/18CdvRnx3JPnF0R5mson-3hPuSLl79dH9/view?usp=sharing)。本文は、個人理念を再考するにあたり、その構成要素となる利己性と利他性を考察することを目的とする。

個人理念省察

個人理念概要 

個人理念は、自身の利己性と利他性から成り立つ。利己性とは、成長したいとか、交流したいとか、自己実現欲求である。それに対して、利他性とは、団体に貢献したいとか、メンバーに活動を楽しんで欲しいといった他者に向けられる欲求である。この利己性と利他性は完全に分離したものではない。例えば、教育支援をしたいという欲求を考える。これは、どちらに分類されるだろうか。教育支援が本人の自己実現に繋がる場合、それは利己的かもしれない。しかし、教育支援というもの自体が利他性を含んでいるため、完全に利己的であるとは言い切れない。利己性と利他性の組み合わせは以下である。本稿での利己性はaであり、利他性はdである。

  1. 利己的な利己性:服が欲しい
  2. 利他的な利己性:平和を保ちたい
  3. 利己的な利他性:緩い貢献(成長が目的)
  4. 利他的な利他性:厳しい貢献(貢献が目的)

利己性と利他性の狭間にあるものが私たちの個人理念である。利己性と利他性を止揚した先にあるこの概念は自身の活動目的となる、自身のモチベーションとなる。理解度をあげてもらうために、もう少し具体例を出そう。例えば、A氏は本を読むのが好きであり、知的好奇心も高い。本が好きなA氏は本で社会課題を解決するSFTに加入した。A氏はその中で、SFT本棚というpjを考案した。本を読む人が広がってほしいという自身の利己性に加えて、読者が増えることによってメンバーの成長、つまりは団体の成長に繋がるのではないか、と考案した。A氏の場合、利己性は、自身が本を読むのが好き、そうした人が増えて欲しいという内容が含まれる。利他性は、社会課題を本で解決したいという加入理由や、団体を成長させたいといったものが含まれる。利己性と利他性を止揚、あるいはアウフヘーベンしたものが結果としてSFT本棚というpjを誕生させている。これはpjの説明であったが、pj自体が本人の利己性と利他性を含めたものであることは確認できるだろう。個人理念は、利己性と利他性を止揚することで、自身の活動指針を与えてくれる。

利己性と利他性の遷移

 利己性と利他性の区別が厳密ではない事を上記したが、ここでは、利己性と利他性の時間的なずれについて記述しようと思う。結論として、利己性と利他性は以下の推移を辿る。
①利己性の追求②利他性の追求③利己性と利他性の追求。

①利己性の追求
まず、動物は自身の欲望充足をする生き物である。それは人間においても同様である。そのため、私たちは自身の欲望を満たすことから始まる。それは生まれたときからそうである。また、コロナによってマズローの欲求階層が揺らがされたため、特に人々は自身の利益を求める傾向性が高まったと私は考えている。利己性はそれ自体卑しいものかもしれないが、重要である。3大倫理理論の一つである義務論では、自分自身に対する義務がかなり強く設定されている。

②利他性の追求
社会に生きる我々は、様々な責任に囲まれている。それは、自身の目が届く範囲に留まることを知らず、グローバルに広まっている。我々は自身の生活圏内において許容された制度にしたがって、良い意図をもって活動している。そのプロセスが折り重なることで構造的不正義を引き起こしていることも事実である(ファストファッションや、配送料無料のネットショップ等)。そうした無限に広がる責任に囲まれる我々は、利己的な行為だけを行い続けることに不安を感じるようになる。なぜなら、利己性の追求は、自身によってしか自身の存在意義を確保することができないからだ。そこに他者性が存在しないからだ。私たちは、一般的に道徳的に善い行為を行うことができる道徳的行為者という前提を共有している。利己性の追求という自身の結果が、自身に対する反面教師として利他性の追求を掻き立てるようになる。その結果として、道徳的行為者としてその責任に対する応答責任を果たそうとする。道徳的であろうとする。それが、利他性を追求する段階である。

③利己性と利他性の追求
ところが、利他性の追求だけに自身のエネルギーを使うのはふさわしくない。なぜなら、それは自身への配慮を欠いているし、そうしたエネルギーの使い方は相手のためになっていないこともしばしばあるからだ。献身的な貢献は、時に相手を抑圧する、相手の成長を妨げてしまう。私たちを取り囲む責任は一時的なものではない。それは生きている限り共存しなければならない責任である。そのとき、自身の利己性なき利他性は自身を疲弊させてしまう。社会は他者と共生するためにあるのであって、私一人のために、相手一人のために、組織一つのために生きているのではない。自分の人生を歩めるのは自分だけであるにも関わらず、利己性を放棄してしまえば、それは相手の人生を歩んでいるのと同じである。我々は、自分の人生というレールから外れて歩くことはできない。出来るのは、そのレールを他者と同じ方向に向けることだけである。また、共生する以上、相手の利他性と自信の利己性を同定することも出来る。私の美味しいご飯を食べたいという利己性が、誰かの美味しいご飯で人を幸せにしたいという利他性とかみ合うことを我々は、経済活動を通じて日々体験しているように。

上記のプロセスは自身の個人理念を定義するうえでの課題を同時にも提示してくれる。つまり、①、②、③の中でどこはすでにもっていて、どこが欠如しているのかを照らし合わせたらいいのである。大学生となった今、利己性を追求する能力をある程度有しているだろう。だからこそ、今必要なのは利他性の問いである。「何をやりたい?」という問いよりもより利他的な解を求める「誰のためになりたい?」という問いである。注意したいのは、利己性、利他性の射程である。SFTでの活動を考えるときの個人理念と就活で考える就活軸といったものはそれぞれの射程が異なっている。就活でいきなり、就活軸を考えるのは難しい。しかし、理念と事業を持つSFTでの個人理念は、就活軸や未来を考えた結果とそこまで大きな差異はないように思える。

倫理的な観点から見る個人理念

個人理念は「よく活動するためにはどうしたらいいか」という問いに応答する概念である。これから社会に出る学生という立場は、就活においてこの問いを拡大することになる。つまり、「よく生きるためにはどうしたらいいか」という問いである。この問いに答えるために存在する学問が倫理学である。
 道徳、倫理、正義が求められるのは私たちが他者とともに在るからである。道徳や倫理を考える際の前提の一つは、人間の利己性と利他性ではないだろうか。利己性は自分のためになることを叶える態度や行為であるのに対し、利他性は自分以外のためになる態度や行為である。二者間A、Bにおいて、利己性と利他性の組み合わせは以下の三種類である。①Aの利己性とBの利己性、②A(B)とB(A)の利己性、③Aの利他性とBの利他性。①は対立の状態である。お互いに自身の利益を獲得、保持する関係である。②は他者を目的とする限りにおいて貢献関係である。③は協働である。ここでは、A、Bに共通する第三者Cに対して行う貢献や、社会への貢献などが含まれる。
②において、他者を目的とする限りというのは、カントが残した道徳的に重要な一つの指針である。そうした利己的な利他性は、利他的に見せかけているという点で、被支援者をより落胆させる。貢献を目的とする貢献は厳しい貢献であり、成長を目的とする貢献は緩い貢献である。あなたの利他性は利他的な利他性か、利己的な利他性のどちらだろうか?加えて、利己性と利他性は補完しあう関係にあるということも指摘しておきたい。それは私たちが日々経済活動をするなかで、需要と供給という言葉にも置き換えられるかもしれない。例えば、Aの美味しい食事をしたいという利己性が、Bの美味しい料理で喜んでもらいたいという利他性とかみ合うことで、BはAに貢献することが出来ている。私たちは、利己的な存在でもあり、利他的な存在でもあることは、多数の責任を負っていることを知った際の困惑という感情に裏付けられている。逆に言えば、人々は利己的な幸せだけではなく、利他的な幸せも加えることで幸福になるということではないだろうか。利他的な幸せは、他人の利己性を叶えることで成立する。利己性の多くは自身の能力によって満たすことが出来るだろうし、それに加えて他者の利他性によって満たされることになる。だからこそ、私たちは利他性の追求から始めるべきである。その始動因となる問いは、「何をしたい?」ではなく、「誰のためになりたい?」から始まるべきである。人を手段としてではなく目的として扱うことによって、私たちは他者への責任を獲得することになる。SFTに限らず、人は存在するだけで道徳的行為者かつ道徳的被行為者としての責任を持つ。普段私たちは他者からのニーズを見ないように意図せずとも両手で覆い隠している。しかし、かの問いによってその両手を払いのけることから始めるべきである。他者への責任は、他者が存在する限り続く。それは、私自身の存在意義を確立する。換言すれば、それは私自身の居場所を作ることになる。ここにおいて個人理念は、他者への貢献と自身の存在意義という利己性と利他性を再び獲得することになる。だからこそ、私は個人理念を強く推奨する。

SFTにおける共有地の悲劇

たとえば、共有地(コモンズ)である牧草地に複数の農民が牛を放牧する場合を考える。農民は利益の最大化を求めてより多くの牛を放牧する。自身の所有地であれば、牛が牧草を食べ尽くさないように数を調整するが、共有地では、自身が牛を増やさないと他の農民が牛を増やしてしまい、自身の取り分が減ってしまうので、牛を野放図に増やし続ける結果になる。こうして農民が共有地を自由に利用する限り、資源である牧草地は荒れ果て、結果としてすべての農民が被害を受けることになる。 ウイキペディア「コモンズの悲劇」
上記の引用は共有知の悲劇という経済学や環境倫理学においてよく知られたたとえ話である。私が言いたいことは、SFTもまた利他行為は共有地の悲劇をもたらすということである。個人理念は利己性と利他性から成り立つが、利他性から始まらなければならない。そして、利他を受け利己が満たされた人間は利他をリターンする必要がある。利己と利他の相互性は信用に基づいている。利他行為はその行為が行われた時点で相互行為が返ってこなくても、長い目で返ってくることを信用して行われている。しかし、利他行為を受け取るだけのようなフリーライダーが増えてしまうと、利他行為はいずれ減少してしまうだろう。なぜなら、信用できないからだ。個人理念の脆弱性は利己性と利他性から成り立つがゆえに、他者を目的としていても利己性が邪念を引き出す点にある。他者を目的としていても、それに対するリターンが返ってこないとわかった途端、利己性が自身を保身に走らせる。利己性は他者を手段として扱うため、その時点で利他行為は利己的な利他行為となる。相互性が成立しない際に「利他行為が足りない、不適切だったのかもしれない」と思えればいいが、それは一般的に見てかなり要求ラインが高いのかもしれない。優秀な人ほど辞めていくという言葉があるが(私はこの言葉は他の人を暗に批判していると思う)、その理由は利他の相互行為が満たされていないからである。
「他者のニーズをかなえることのみを善と考える自分の理想を実現したいと願う一方で、なぜ誰も私にも同じようにしてくれようとはしないのかわからないというアンビバレンス」エヴァ・フェダー・キテイ(2010)『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』p.73
利他性と利己性の相互性を満たすことは想像以上に難しい。なぜなら、我々が利他行為を受け取る時間は一瞬であるが、それは利他行為のほんの一部分でしかないからだ。支部長、合宿係などの苦労は半年以上であり、その苦労は毎日、今この瞬間も続いているのである。

最後に

他者のニーズは無限であり、永続的である。そうしたニーズへの応答すべてに応えることは出来ないが、そう割り切りたくても割り切ることができないのが人間の常である。それでも、私たちは生きている限りその責任を果たすことを求められている。責任からの逃避として、責任を果たすだけの機械的な人間になりたいと思うときもあるだろう。心さえなければ、と思うときもあるだろう。しかし、私たちは苦しみから逃げてはならない。なぜなら利他的な人の苦しみを理解する人がいなくなれば、利他的な人を助けるひとがいなくなってしまうからだ。自身も苦しむことで私たちは相手の立場にたって考えることが出来る。苦しみは他者理解の共通言語である。自身を苦しめ続け、人に貢献し続けた生き字引が己を再定義してくれるその日まで、生きろ。

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