その願望は、その為に払う苦痛に値するか

プロローグ

 SFTでたくさんの方と出会ってきた。周りを見ずに一匹狼で走り続ける人。何をやるにも民主的な人。続けるのか続けないのかの意志がはっきりしない人。理想と現状の果てしない壁に嘆き、立ち消える人。私自身、2年の秋にSFTに絶望して一時離脱していたときもある。これは、そうした出会いと経験を踏まえたうえでの苦しみについての話。

成長と貢献

 昨今、成長という言葉をよく聞くが「どのように成長したいか?」と聞いて具体的な回答が返ってきたことはあまりない。成長を目的とするなら、現状と理想の2点を明確に設定するべきだ。なぜなら、それがなければ諸々の変化を成長と呼ぶことが出来てしまうからだ。2点なき線というそもそも存在しないものを目的としているからだ。成長は改善のみを指し、変化は改善改悪両方を含む。基準なき変化は改善か改悪かの判断を付けることが出来ない。我々は二点間の間に意味を見出す。今読んでいるこの文字もそうだ。この二点間の間の関係性は、どこに点と点を描くかによって変わってくる。二点なくして意味を、変化を見出すことはできない。だからこそ、単に成長したいと叫ぶのは未熟だ。「どこか」を求めるのではなく、「そこ」を求めるべきだ。どこに行こうと君はどうせ君だ。人間は過去を美化する。なんとなく過ごした一日一日を以て成長したと言ってはならない。努力することと成長することを同定してはならない。成長するために必要なのは、理想と現状という具体的な2点だ。

また、個人としての成長と組織人としての成長は違う。個人としての成長の基準は自身で設定される。例えば資格の取得、知識の獲得等である。それに対して組織人としての成長の基準は組織や評価者によって設定される。基準の性質は組織への貢献度合いである。なぜなら、組織が個人に求めるのは組織としての利益追求のための仕事だからだ。組織人としての成長における組織というのは、利他的な目的を存在意義としている組織を指す。SFTはたしかにサークルかもしれない。しかし、他のサークルと異なるのは「教育で人生が、世界が、未来が変わる」という社会的使命と「勉強したいと願うすべての子どもたちが勉強できる世界に」「FOR ME, FOR TWOのボランティアが身近になる世界に」という活動理念である。巷のスポーツサークルが廃止されるのと、SFTが廃止されるのは意味が違う。SFTが消えることによる価値の喪失は前者の廃止と規模も意味も違う。利他的な組織に入った以上、求められるのは組織として貢献したい対象への貢献と組織そのものへの貢献だ。

だから私は、組織に属する人間が個人としての成長を第一目的に置くことに複数の点で批判的である。一つは自分が主語になっていることである。求められているのは個人としての成長ではなく組織人としての成長であることを成長が目的の人は見逃してる。その観点を捨象してどんな環境が成長できるかばかり考えていては、その組織での評価は納得いかないものになるだろうが、それは必然の結果である。一つは、成長を目的とする限り自身が成長するために必要な苦しみにブレーキをかけてしまう点である。貢献を目的とするときそこには組織を含む他者が存在する。他者が存在するということは、あなたは倫理的である責任があり、非難の可能性を抱えることになる。それに対して、個人としての成長を目的とすると倫理的である責任を回避することが出来る。つまり、自分に対して言い訳ができる余地が生まれてしまうということだ。この考え方は、外的コントロールの側面が強いのは事実であるが、価値提供をしなければ金銭が発生しない資本主義社会に生きている以上、必要な観点である。最後に、成長欲求は組織自体を劣化させる点である。組織はあなたの成長も勿論期待しているが、第一に求めていることは組織への貢献である。組織の目的がある限り、組織人はそれに従い続けなければならない。そのために仕事をしなければならない。しかし、成長を目的とするとgiverではなくtakerに周ってしまう。なぜなら、成長するための環境を選択することが当人にとっては大事なように思われるからだ。裏を返せば自身に機会提供をしてくれる人がいない限り、成長できないということに無自覚だということだ。成長欲求を持つ人の規模が大きくなればなるほど、貢献者は同士がいないことを嘆き疲弊するだろう。成長欲求を抱える人は機会の量と質が下がることに対して不満を覚えるだろう。これは互いにとってあまりにも悲劇だ。しかし、貢献欲求があればそんなことにはならない。誰もが組織のための行動を取り、そして高め合うことが出来るだろう。だから私は成長を第一目的に置く考えに批判的である。
 
この記事はSFTのみなさんを対象として書いているので、以後、組織人としての成長について記述である。個人としての成長は自分で取り組んでいけばいいし、2種類の成長は互いに相互作用を生み出す関係にあるからこそ、組織人としての成長について記そうと思う(たとえば、自身で勉強した知識がSFTに役立つということは大いにあるだろう)。組織人としての成長において何よりも重要なことは、組織において成長したかどうかを決めるのはあなた本人ではなく、組織や評価者であるということだ。その判断材料となるのが行動である。だから行動せよという言論が生じる。組織人としての成長は結果論に過ぎない。成長したいなら組織をどうしたいのか、換言すれば利他的な願望を持つことが成長のためのスタートラインだ。組織人としての成長は組織への貢献度で測られることを忘れてはならない。なぜ成長したいのか、という問いは大事だが、それを自分だけの範囲で考えてはならない。その時点であなたは組織人としての成長概念を捉えられていない。成長は貢献の副産物である。貢献が成長に先立つ。貢献するために成長するというのが組織人としての成長概念だ。組織を手段としてではなく、目的として扱わなければならない。求められるのは組織に、組織人に対してどのように貢献したいか、組織をどうしたいかという問いである。その解があなたの持つべき願望だ。自分主語の成長ではなく、組織主語の貢献を原動力とすることで行動する手段はその願望を持てるかどうかが、SFTという自由ゆえに不自由な環境においてあなたを「そこ」へ導いてくれる。

貢献の侵襲性

 しかし、貢献という願望は残酷だ。能力なきものの願望は非力だし、その願望の侵襲性に無自覚な人間はその願望が周りを困惑させるだろう。また、願望がある限り苦しさは続く。SFTには社会的使命と活動理念がある限り、子どもたちに対する我々の責任は分有され続ける。自明だが、貢献という願望が達成される確率は、支部<地区<全国と規模が大きくなるにつれてますますその確率は狭まる。全国規模の成功率など、1%もないだろう。なぜ、叶わないのか。さまざまな理由が存在するが、最も根本的なのは願望がその為に払う苦痛に値しないと判断したからだ。苦痛を受け止めきれなくなったからだ。貢献には苦痛が伴う。なぜなら、それは自身を差し置いて相手や環境の至らなさや不利益を改善する行為だからだ。経験上、貢献を重ねていくと自分と相手、自分と環境との境界線が融合していく。自分自身ってなんだろうというアイデンティティの喪失を感じるようになってくる。自分を助けることすら出来ていない人間が周りを助ける資格があるのかと不安が何度も襲う。それが貢献の副作用だ。貢献を語る人間は自身への貢献を蔑ろにしてしまうのだ。これは私自身もまだ解決できていない問題ではあるが、現在の所感を書いておこうと思う。結論としては、その苦しみを飼いならすまで自身を苦しめ続ける、私が私に歯向かうことにないように、自身を支配・抑圧し、徹底的に貢献するというものだ。苦しみもまた私の本質である。すべての事象は私の意志の表象であり私を基底するものだ。つまり、私を苦しめるものも私を基底するものである。この苦しみから逃れようとすることは私が私から逃れることである。だからこそ苦しみは苦しみとなる。その点で、貢献者は苦しみから逃れてはならない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというように、自身を苦しめ続け、貢献した先に自身の生き字引が己を再定義してくれるだろう。貢献者が苦しむのは当然であるが、貢献を止めた時被貢献者は報われない。自身の願望も実現されない。それを私は避けたい。これは組織のいいなりになることとは違う。常に組織をどうしたいか、他者にどうなってほしいかという意志を持ち続けることでキャリアも自律出来ると私は考えている。

いかなる願望も周りから見れば自己満に過ぎない。成長を目的とする利己的な願望は当然だが貢献を目的とする利他的な願望でも同じである。なぜなら、被貢献者が自身の目指すものに価値を感じない限り「いつも頑張ってるよね」で終わってしまうからだ。願望は現状ないものを反映しておりそれが叶うまでの間は価値が見えないからだ。あなたの善意も、熱意も、誰かを助けるとは限らない。むしろ、その善意や熱意が周りを苦しめることもある。貢献は貢献者と被貢献者の二人でゴールするものであるにも関わらず、そうした現状が貢献という願望実現を拒む。だからこそ、利他的な願望という糸を組織に縫い合わせていくことは非常に難易度が高く、苦痛を伴う。逆に言えば、価値が見えていない中で一緒についてきてくれる人は貴重な存在だとも言える。そうした存在を探すのも大事だろうが、私はそれを推奨しない。なぜなら、そうした存在は極めて稀であり、また自身の願望は自分で叶えに行くしかないからだ。常に他者と協働する必要はない。学級委員長のような態度は願望実現という文脈とは別の場面で使うべきだ。

 我々には社会的使命がある。活動理念がある。それがある限り、我々は貢献の願望を持ち続けなければならない。子どもたちに、SFTに貢献し続けなければならない。苦痛を払い続ける必要がある。それが願望を持ってしまった我々の責任である。責任ということは、どのような行動をするかは自分自身で規定する自由があるということだ。これも貢献の苦しさの一部ではあるだろう。逆に言えば、苦痛が伴わない貢献など、貢献と呼ぶに値しないのだ。それは、ただの応援であって貢献ではない。他力本願な願いごとであり、あなたの本心ではない。では、私は何をしたらいい?と思う人もいるだろう。ここに日本の問題解決型の教育の恩恵をここに見出すことが出来る。論理的に解を導出することに慣れ過ぎた我々は、自身の本心を解とすることに違和感を感じてしまう。しかし、自身の願望というものには正解はない。現時点でわからないものに正解の基準など存在しない。だからこそ、必要なのは決断である。自分の願望は自分でしか叶えられない。天は自ら助くる者を助く。願望の解は未来のあなたという存在だ。つまり、解は現時点で存在していない。その中で解を求めることなど無意味だ。悩む時間があるなら実行した方がいい。あなたが悩めば悩むほど、悩んだ末に決めたことを実行する時間は減っていく。周りに困っている人はどんどん困り事が深刻化していく。必要なのは決断だ。

その願望は、その為に払う苦痛に値するか

 あなたの何かを求めるその想いが、その願望が、苦しさの正体だ。苦しさに苛まれる自分を不幸だと憐れみ、可愛がる。なぜ、こんなにも苦しいのか?それはあなたが望んだからだ。不自由を常と思えば不足なしというように、自ら求めることがなければあなたのその苦しみはなかったのだ。逆に、それでも、あなたが何かを求めるなら、それは苦しみを覚悟した上での行いということだ。自らを苦しめてもそれは求めるに値するということだ。与えられることを待つ限りあなたは幸せにはならないし、待っている間の苦しさは意味や価値を持たない。人は苦しみがあって初めて過去を美化出来るのであって、苦労のないように過ごしているだけでは「SFTにいて良かった」と思えないのではないだろうか。どうせやるなら、時間を使うなら使ったことに対するリターンを勝ち取れるまでやった方がいい。組織と結婚することはできないが、組織と心中するくらいの覚悟は必要だ。

 生きている限りどうせ苦しい。生誕の災厄に対する報復は、意味と価値のある苦しさを得ることだ。苦しさに飼いならされるのではなく、苦しさを飼いならすのだ。何かを求めるなら自身を苦しめる覚悟が必要だ。自分の願望は自分で叶えに行くのが最速だ。それを繰り返していくことで自信に繋がる。自分で考える勇気を持て。今、あなたが求めるものは自身を苦しめてでも得るに値するものか?もし値するなら己を苦しめ、願望を実現することによって己に貢献せよ。
苦痛を味わうのなら,その果てまで行かねばならない。苦痛をもはや信じることができなくなる瞬間まで。E・M・シオラン『生誕の災厄』(東京:紀伊国屋書店)p.123

エピローグ

 私自身、苦しんでいる人向けの新書などは全くもって興味がないし、何度か読んでみたが読んで救いを得られた感覚もあまりない。だからこの記事は今、苦しんでいるあなたにとっては貢献性がないかもしれない。どうせ苦しむならば、その苦しみの価値を最大化しようではないか、というのが私の態度だ。そうした意味では、何かしら得る部分があれば幸いである。私は冒頭にて成長欲求を批判した。その一方で成長したいと思えない環境を、成長したことを後悔するような環境を作ってはならないと思う。なぜなら、成長する人間がいなければSFTはその使命と理念を叶えることが出来なくなるからだ。しかし、貢献が成長に先立つという観点は忘れないでいて欲しい。

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