教育・育成の侵襲性

こんにちは。HRの北野です。団体の中では、採用・教育・育成・組織開発を担当しています。今回は、自分が担当していたNEXTリーダーゼミとフレッシャーズキャンプが終了したので、その振り返り記事になります。

目次
  1. 教育・育成にこだわる理由
  2. 教育・育成をどう捉えているか
  3. 教育・育成の侵襲性
  4. 被教育者から教育者へ
教育・育成にこだわる理由
HRに携わって久しいですが、その中でも特に教育・育成にこだわる背景を簡単に残しときます。大まかに理由は2つ。1つは自分自身のビジョン達成のため。1つはそれが最も効果的であると信じているため。
 ビジョン達成のため、ということで私のビジョンを紹介します。私は人生レベルとしてのビジョン「各人の本質が開花し、各人が自分自身の人生を生きる助けになる」を掲げています。これには、1人1人が生きる理由、働く理由、潜在能力といったその人の本質的な部分を開花させる、人間開花を引き起こすことが人々にとって最高善であるという考えから来ています。この人生レベルのビジョンをSFTのレベルに落とし込んだものが「SFTでの経験という種子が人生という風に乗ってどこかで花開きますように」という個人理念です。この理念を達成するために、私は1人でも多くのSFTメンバーに対して良い出会いと良い経験を提供したい。それが教育・育成に尽力する1つの理由です。
 
もう1つの理由はHR領域が効果的であると信じているからです。経営は4つの資源で回っていると言われています。それは、ヒト、カネ、モノ、情報です。大谷翔平が草野球選手のバットを使ってもおそらくホームランを打てるけど、草野球選手が大谷翔平のバットを使ってもホームランを打てるとは限らないように、人はモノ、カネ、情報の価値を自ら変化させることが出来ます。ヒトの価値は変数ですが、他の3つは定数です。だからこそ、効果的なのです。逆に言えば、ヒトの価値が上がらないのであれば、他の価値をどれだけ上げても結果としての価値は目減りするかもしれません。高級飲食店の接客が雑だったら多くの人は残念だと思うはずです。ヒトの価値は測れるものではありませんが、天井もありませんその価値を最大化すれば、他の価値は総じて上がります。それが団体の成長に繋がります。
つらつら書きましたが、北野は自身の使命感や想いとその客観的合理性からHRやってるんだなって思ってもらったら大丈夫です。

資源についてもう少し詳しく書くと
SFTというちょっと特殊な団体は、特にこの中でヒトの価値が優位にあります。それはなぜか順に確認しましょう。現在、カネは活動上そこまで必要ありません。回収や販売に失敗しても皆さんがその分のお金を払っていないように、支部の活動上支出はほぼない、逆に言えば活動上の収入もほぼないからです。この背後には支援団体であるという性質と、売上金の絶対的収入が少ないという課題がありますが、すぐに解決するものではありません。次にモノ。私たちはモノ:教科書の絶対的な価値(=価格)は私たちで上げることは出来ません。中古教科書が定価以上の値段したら誰も買わないですよね。つまり、モノの価値上昇は我々のコントロール下にないのです。ここに、私たちは投資する理由はないでしょう。次に情報。先ほど、情報の価値も定数と書きましたが厳密には情報の価値はとても変則的です。なぜなら、情報の価値を決めるのはその情報に増れたヒトだからです。芸能リポーターにとっては芸能人の恋愛スクープはとても価値ある情報でしょうが、それをSFTが保有していても何の価値もないですよね。しかし、チョコはある程度皆にとって100円ほどの価値でしょう。それほどまでに情報は価値の相場を判断しにくいのです。
教育と育成をどう捉えているか
 教育は0→1であり、育成は1→2であると考えています。それらの違いについて説明します。何もわからない被教育・育成者と教育・育成者の土台を同じ立場に持っていくことが教育で、被教育・育成者の成長を促すことが育成です。ここでの成長は現状から理想へ進むことと定義します。理想は本人が望む形であっても、教育・育成者が設定したものでも構いません。ここに教育と育成に曖昧さがあります。なぜなら、教育も成長を作るものだからです。つまるところ、教育と育成を定義上で区別するのは、基礎となる土台をどこに設定するか、だと思います。私の定義上、中学校まで義務教育とされている日本では中学校までが教育で、高校以降は育成となり、小学校までが義務教育となっている国では中学校から育成となります。

 教育と育成それぞれにおいて責任のバランスからそれらを区別することも出来ます。団体の人的資源に関する課題として、引き継ぎ教育や、成長マインドセットの教育、売るということの本質理解の弱さなどがあります。ここで私が気になるのは、それは誰が解決するのか?という問いです。結論として、解決すべき課題が教育によって解決するならそれは組織に責任があり、育成によって解決するなら1人1人の責任が大きいと考えています。なぜなら、教育は基礎に導くものであり、基礎があって初めて活動が可能になるからです。このとき、教育が不十分な状況で当人を批判することは出来ないでしょう。皆さんも、バイト1日目に仕事できないって怒られても困ると思います。だからこそ、教育は組織に責任がすべてあると言っても過言ではないでしょう。しかし、育成は被育成者の成長を促すことです。成長するのは、被教育者本人の選択課題です。勿論、育成者も成長しなければ、成長機会を提供しなければ周りの成長を促すことなど出来ないというのは大前提です。しかし、そうだとしても成長には被育成者のコーチャビリティが成長に対する変数としてかなり大きな影響を及ぼすと考えています。人の成長モデルの1つに「7:2:1」というものがあります。このモデルでは、人を育てるのは7割が自身の経験や苦労であり、2割が周りからのサポート、1割が座学での知識であると説明されます。 テストで差が付くのは、もともとの地頭の良さなどはあるでしょうが、得た知識を自分で使うという7割が未充足だからです。だからこそ、育成は個人の責任範囲が大きいように思えます。

 ところで、私含むSFTの教育・育成機会提供者はプロでもなんでもありません。第3者からのチェックを受けたわけでもなく、自ら得た知識と経験と持論によって周りの成長機会を作っているだけです。ここにSFTの脆弱性があります。そんな人間が教育・育成機会を提供して、それで周りが成長するかどうかは彼らの責任が大きいというのは無責任だという批判はもっともであり、私はそれに反対する気もありません。しかし、私が成長するまで待つというのは機会損失が過ぎます。ならば、教育・育成者も被教育・育成者もともに成長しあう。それが今のSFTにおける最適解でしょう。
教育・育成の侵襲性
 そういったバックグラウンドがあって、NEXTリーダーゼミによる育成とフレッシャーズキャンプによる教育をつい先日終えました。ゼミに関しては20冊以上の知識と自身の思考回路をまとめた30時間ほどのものになり、フレキャンは係のみんなが半年の準備期間を費やして最大限の価値提供をしてくれました。教育・育成を行った中で一つ気付いたことがあります。それは教育・育成の本質は侵襲性ではないか?という仮説です。侵襲という言葉には馴染みがないかもしれません。これは医学用語で、「生体の内部環境の恒常性を乱す可能性がある刺激全般(投薬、注射、手術など)」を意味します。医学用語を教育・育成の文脈で使うことは違和感があるかもしれませんが、ご理解ください。私は医学用語の定義をそのまま教育・育成に応用することが出来ると考えています。

私は教育も育成もその本質は侵襲性にあるのでは?と現段階では考えています。なぜなら、教育も育成もどちらも相手の内部環境の恒常性(自身の持つ知識からの判断や思考)を侵すものだからです。解の方程式を習うととりあえずそれを使ったという人も少なくないのではないでしょうか?1つのアドバイスで自分でも思いもしなかった変化が起きたことはないでしょうか?そのように、何かを与えられることによって起きる変化、それが教育・育成の侵襲性です。怪我をしたときに、治癒するのは自身の回復力であるように、教育・育成の侵襲性に対する受け手の吸収力とコーチャビリティという名の回復力が成長に大きく関わるというのは理解に難くないはずです。

では、教育や育成によって具体的にどのような侵襲をしているのでしょうか。血栓を除去することで血の巡りを良くし脳梗塞を防ぐように、思考法を提供することで思考の流れをよくして膨れ上がった悩みを解決することが出来ます。血の質をよくすることで身体全体が健康になるように、知識を提供することで、思考の質と行動の質を上げる、マンパワーの成長を促せます。定期的に健康診断を実施して、生活習慣を見直してもらうように、定期的な振り返りをすることによって人間性を深めることが出来ます。他にも教育・育成には様々な種類がありますが、私が行ってきたものに関して言えばこれらに落ち着くと思います。簡単に書いてますが、知識、思考法と言っても一口に収まるものではありません。相手の技量を測り、適切なものを提供しなければ過度な侵襲行為となり「すごい」という感覚で終わってしまいます(7:2:1に従えば難しさを理解するというのは7割に含まれるのではないかも思いますが)。また、侵襲を与えるのは必ずしも教育・育成者だけではありません。共同学習者も侵襲を与える存在です。アクティブラーニングや共同学習が叫ばれていますが、そうした学習法が叫ばれているのも様々な角度からの侵襲を与えることによるメリットを重視しているからでしょう。共同学習は1つのものの理解を深めるうえでとても役立ちます。また、共に悩み成長したという経験はチームビルディングと今後の頑張る理由を醸成する機能も持ちます。そうした意味で、共同学習はとても意義ある学習方法でしょう。

しかし、侵襲とあるように教育・育成は倫理的、道徳的である必要はあります。被教育・育成者の考えをすべて貶して、否定してそれを上から塗り替えるやり方は教育・育成ではなく洗脳に近いと思います。カント「何時の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段としてではなく、つねに同時に目的として扱うように行為せよ。」という言葉にもあるように、教育・育成者に驕りは許されなく、常に被教育・育成者を尊重する謙虚な態度が求められます。決して、「私が育てた」などと驕ってはいけないのです。その時点で自身の欲求を満たすために受け手がいるという人の手段化が隠れています。
被教育・育成者から教育・育成者へ
人材輩出団体として社会にインパクトを与えるというHRのミッションはまだまだ一歩目を踏み出したにすぎません。教育・育成は1人で1回で完了するものではありません。教えたことを周りの人と分かち合うことで初めて教育・育成は一つのサイクルを終えます。与えられただけでは、ただの借りものです。それを自分なりに使ってみて初めて自分のものになります。だからこそ、被教育・育成者には色んな人とわかちあいながら教育・育成者を目指して欲しい。そこまでして初めて成長を感じることが出来ると私はゼミ生と過ごしていて痛感しました。そうした気付きを与えてくれたゼミ生・フレッシャーズキャンプの参加者に感謝です。この記事もまた、分かち合いです。私はこれからも貢献するために成長していきます。教育・育成を通じて周りの人たちに翼を授け、より高く翔び立てるように。個人理念、そして自らのビジョンのために。長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

関連記事