楽観的だった僕へ

先日、自家用車を大破させてひさびさに冷や汗をかいたどいまんです。みなさん事故には気をつけましょう。

そんなことは置いといて、最近悩んでいたことに対して、なんかいい感じの答えが出たのでいっそのこと記事にしてしまおうと思って書き始めました。

タイトルにもありますが、僕は最近、以前ほど楽観的に物事を考えることができなくなりつつあります。さすがに車のミラーが折れた時は、かなり落ち込みました。いや、そんなときに楽観的になってる場合じゃないんですけどね。

先日の記事で、「いろいろ楽しそうにやる」というビジョンに至った経緯を書きました。それを書いている僕は、悲観的という言葉とは対極にいたと思います。自分の身の回りにある全てのことに対して、わくわくしていました。自分が作り上げる環境に大いなる期待をしていました。漠然と、なにか変化を生み出すことができるかもしれない、と楽観していました。

もちろんまぁ、それを否定するつもりはないんですけど、そういうわけにもいかないですよね、はい。アクセルばかり踏んでいては重大な事故につながります。たまにはブレーキも必要ってことです。

そんな状況下で、文字通り壁にぶつかりました。最近気づいたんですけど、僕はアクセルもブレーキも踏みすぎる傾向にあるっぽいです。前回の記事を書いている時は、なにごとにも悲観的な人の気持ちがあまり分かりませんでしたが、今は過去の自分含め、楽観的な人の思考回路を理解できません(え?)

いままでの人生の中で「言動に一貫性がない」とか「発言に責任感がない」とか言われたことが何度かありましたが、最近やっとちょっと自覚しました。

いまは、結構悲観的にものごとを考えています。が、それが問題だとは思ってません。むしろ、楽しそうにすること=楽観的に考えることだと思っていた自分に警鐘を鳴らしたいぐらいです。まぁそれはそれでよかったところもたくさんあるとは思いますが、やや思考を放棄気味だったと思います。

当時の僕は、「余裕」や「努力」は楽観することから生まれるものだと思っていました。でも多分違います。物事を悲観し、先回りし、トラブルを未然に防ぐことで余裕が生まれます。そのための行動が努力と呼ばれるわけです。

本題ですけど、過去の自分に何かを伝えるのは無理ですが、楽観的だった僕に伝えたいのは、「気持ちは楽観でもいいから、理屈は悲観して考えましょう」ということです。

プラスに考えれば結果もプラスになる、という考え方に根拠がないように、マイナスに考えれば結果もマイナスになるという考え方にも根拠はありません。しかし、僕はそう考えていました。そんなわけないのに。むしろマイナスに考えたほうがより良い方向に進んでいくんだと思います。

「事故を起こしてしまうかしれない」と、マイナスなことを考えている人が、事故を起こすわけないじゃないですか。事故を起こさないように、法定速度を守って、巻き込み確認をしながら運転してくれると思います。

僕にはおそらく、物事を楽観する力に対して、悲観する力が圧倒的に足りてませんでした。だからミラーを折ったんですね。楽観には期待や願望が含まれていますが、それだけでは正確な未来予測などできません。悲観するということは、そのような期待や願望に対し、自制の気持ちをもって、理性的に考えることです。

なんでもかんでも楽観的に考えれば解決すると思ってましたが、それは解決した気になっているだけで、本質的な問題や課題から目をそらしているだけでした。楽観には期待や願望が含まれるので、多くの人に受け入れられやすく、それで満足していたところはあったと思います。

それだと、あとあと自分が困ります。実際困ってます。2,3か月前の自分に、どうしてそんなに楽観的だったんですか?と聞きたいぐらいです。

長々書いてきましたが、要するに、「きっとうまくいく」の楽観視と、「きっとだめだろう」の悲観視のバランス感覚ってやっぱ大事だよねってことです。そして、困ったことに僕はおおよそ、悲観しなければならない場面で楽観し、楽観しなければならない場面で悲観してしまいます。これは深刻な問題です、まじで。

そんな深刻な問題に対して、今の時点で僕がたどり着いている解決策は、あらゆることをポジティブに悲観してみることです。ちょっと気持ち悪い日本語ですが、ニュアンスとして結構納得はしてます。

みなさんにも、ポジティブな悲観が必要な場面があると思います、たぶん。
悲観的な自分に対して、あぁもうだめだとなる前に、ポジティブな悲観という言葉を思い出してみてください。そして、楽観と悲観を使い分けながら、安定した生活を送ってほしいです。いっしょにポジティブに悲観しましょう。

​(こんなふうにまとまると思わなかったけどまあいいです、読んでいただいた方、ありがとうございました。)

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