僕と後輩 14.残夢すら悪夢

 部室の窓にベタベタと、赤い手形が強く貼り付けられる。彼女の顔を見るとどうもうなされているようだったから、あわてて肩を揺らして起こした。
「……おはよう」
 目覚めた彼女が額を抑える。窓の外の手形はいつの間にか消えていた。怪奇現象の類だろう。また悪夢を見ていたようだ。
 彼女は悪夢を見た時、それが現実に現れてしまうらしかった。例えば、どこか遠い国の戦争、小学校で虐められている小さな女の子、果ては世界が終りかけた事さえも。だからそうなった時、彼女を起こすのが僕の役目だった。彼女が目を覚ませば、もうそれ以上悪くはならない。
 けれど、それとはまた別に、彼女を苦しめているものがもう一つある。他でもない、僕自身だ。
「……先輩」
 目が覚めて開口一番、彼女が僕を呼ぶ。その頬に一筋の涙を伝わせながら。
 彼女の悪夢の中で一度、僕は殺されてしまった。なんて事のない通り魔事件だった。生前の僕の記憶もそこで止まっている。そしてまた別日、彼女の見た悪夢で幽霊として復活してしまったのだった。彼女に僕は見えないいし、彼女から触れる事もできない。ただ、僕から触れる事はできるらしい。ここ最近で分かった事だ。
「また寝るの?」
 聞こえないと知っていつつ、驚いて訊ねてしまう。彼女はまた机に突っ伏して寝てしまった。
 ここ最近、彼女は寝る回数が異様に増えていた。悪夢を見るかもしれないのに。悪夢を見てしまえば、それが現実になると彼女自身も分かっているのに。何もできない僕は、部室の隅で彼女を見つめる。また苦しそうにすれば、僕が目覚めさせるだけだ。
 しばらくすると、廊下の外から生徒達の喧騒が聞こえてきた。下校の時間だろうか。そろそろ起こした方がいいかもしれない。そう思ってふと壁掛けの時計を見ると、まだ帰宅には少し早い。
「どこか行きたい場所はある?」
「強いて言えば海に行きたいですかね」
「いいね。行こう。うんと遠くの海に」
「私はそのまま帰って来れなくなってもいいですよ。先輩となら」
 聞こえてきた声に驚き、部室の扉をすり抜けて廊下を見る。
 部室の前にいたのは、紛れもなく僕と彼女だった。手を繋ぎ、楽しそうに会話をしている。どうやら今から下校するタイミングだったらしい。
 その場から動く様子のない二人を見て、僕は溜め息をつく。分かっている。これも全て、彼女の見ている夢なのだろう。この世に同じ人間は二人と存在しない。
 現実に影響するのは悪夢だけだ。そして夢が終われば、それ以上は何も無い。きっとあの二人も、彼女が目覚めれば消えてしまうだろう。
 部室に戻り、静かに寝ている彼女を見る。悪夢に苦しめられているなら、また彼女を起こせばいいだけだ。でも今の彼女は、悪夢を見ているとは思えないくらい安らかで幸せそうな寝顔を浮かべているから、目覚めさせるべきなのか分からない。
「ねえ、先輩」
 廊下の外から声が聞こえる。
「先輩は生き返らないんですか」
「僕はここにいる」
「私が先輩を生き返らせる夢を見れば、先輩は生き返りますか」
「何の話だよ」
「でも、それって悪夢なんですかね。私にとって悪夢ってなんでしょう」
「もう悪夢なんて見せないよ。だから、海に行こう。うんと遠くの海に」
「……そうですね」
 楽しそうな二人の声が、どんどんと遠ざかっていく。
 死んだ人間が生き返らない事。生き返る夢は悪夢ですらない事。幸せな夢を見ている事。だからこそ、全てが悪夢である事。このままでいいのかもしれないと思ってしまう事。
 誰にとっても、どれもこれも、全部全部。ささやかな幸せを孕んだ悪夢なのだろう。