数年前に眼が見えなくなったという彼女は、最近刺身にハマっているらしい。わざわざ学校に持ち込んで食べている。おかげで部室には濃い醤油とツンとしたワサビの香りがほんのり漂っていた。
「箸の使い方とかはもう慣れたの?」
「見れば分かるでしょう。まあ、ワサビの量だけは未だに掴めませんが」
ワサビ醤油を付けた刺身は少し辛かったらしい。いつも通り「ケホ」と小さく咳をした。食事の手伝いくらいしてやってもいいのだが、彼女はそれが気に食わないらしく、何度か拒否されている。そうでなくても、眼が見えないとは思えないほどに生活はできているらしいから、手伝いなんていらないのだろうけど。
いつも通り、彼女の眼が見えないのをいい事に刺身を一枚盗み、小皿からワサビを多く取って一枚頂く。多分気付かれているだろうなと思う。手伝われるのは嫌と言うくせに、辛いものはそれよりも嫌いらしい。嘘つきだなと、いつも思っている。
鼻を通るワサビに顔をしかめ、刺身を飲み込んだ後、ふと思い出したように僕は口を開いた。
「今日は少し寄り道しながら学校に来てさ。海沿いを歩いてきたんだけど」
ところで、彼女がここに入部してきた日から、僕は一つだけ習慣付けた事がある。眼が見えないという彼女に向けて、世界がどんな風になっているかを言語化して伝えているのだ。
春に花を咲かせる桜の桃色。夏に陽を返して光る海の青色。秋に山を覆い尽くす紅葉の赤色。冬に空から舞い散る雪の白色。それ以外にも、この街の事や、この学校の事、今日の空模様から中庭にある池の濁り具合まで。世界の事を、全てを言葉にして懇切丁寧に彼女へと届けている。
それに彼女が何を思っているかは分からない。嫌なのかもしれないし、悪い気はしていないのかもしれない。ただ、僕が話を終えた時、感情の読み取れない声でごく稀にこう呟くのだ。
「世界ってそんなに綺麗なものでしたかね。私はもう忘れましたけど」
果たしてその言葉がどういう意味を持っていたのか。僕にそれが分かるのは、もう少し後の事だった。
彼女が眼の手術をするという日の昼、僕は部室で何をするでもなくぼうっとしていた。眼が治ったら、彼女は喜ぶだろうか。いや、僕の前では嬉しくとも喜んだりしないのだろうな。強情な彼女が想像できてしまって少し笑う。
そして、部室の扉を勢いよく開けた彼女は、まず扉付近でしばらく硬直していた。思えば、学校に入学するより前から眼の見えなかった彼女は、僕の姿を目に入れるのも初めてなのだ。どうやら手術は成功したらしい。
「世界がどれだけ綺麗だったか、思い出せた?」
「……いいえ。ちっとも綺麗なんかじゃありませんでした」
そう言いながらいつも通りの席に向かう彼女に、僕は「どういう意味?」と訊ねる。
「先輩の言葉があんまりにも綺麗だから勘違いしてました。世界は想像より大した事ありません」
「それ褒めてるの?」
「いえ、貶してます。嫌味です」
言葉の意図しているところが分からず、僕は眉をひそめる。彼女はわざとらしく溜め息をついて、そして僕に向かってこう言った。
「この最低最悪の、嘘つき」
そう言っていつも通り、刺身を食べ始めるのだ。部室に、濃い醤油とツンとしたワサビの香りがほんのりと漂う。僕はそんな彼女に向かってこう言ってやる。
「お互い様だろ」
「何の話ですか」
「もう盗み食いができなくなった」
僕が軽く笑うと、彼女は腹正しそうに舌打ちをする。そして、僕の前にワサビ醤油の入った小皿が置かれた。そういう意味ではなかったのだけど。
僕は知っている。この醤油に溶かされたワサビは、きっと適切な量なのだろうという事を。
「どうしてこんな嘘をつき続けたんですか」
「想像力だけが僕の取り柄だからだよ。世界はどんなに綺麗なのか。僕はまだ知らないけど」
いつも通り、刺身をワサビ醤油に付けて口へと運ぶ。ワサビがちょうどいい具合で、刺身はとても美味しい。なのに、彼女は感情の読み取れない声でこう呟いたのだ。
「辛くないですか」
そんな彼女の言葉を、僕は優しく否定してやろうと思う。
「箸の使い方とかはもう慣れたの?」
「見れば分かるでしょう。まあ、ワサビの量だけは未だに掴めませんが」
ワサビ醤油を付けた刺身は少し辛かったらしい。いつも通り「ケホ」と小さく咳をした。食事の手伝いくらいしてやってもいいのだが、彼女はそれが気に食わないらしく、何度か拒否されている。そうでなくても、眼が見えないとは思えないほどに生活はできているらしいから、手伝いなんていらないのだろうけど。
いつも通り、彼女の眼が見えないのをいい事に刺身を一枚盗み、小皿からワサビを多く取って一枚頂く。多分気付かれているだろうなと思う。手伝われるのは嫌と言うくせに、辛いものはそれよりも嫌いらしい。嘘つきだなと、いつも思っている。
鼻を通るワサビに顔をしかめ、刺身を飲み込んだ後、ふと思い出したように僕は口を開いた。
「今日は少し寄り道しながら学校に来てさ。海沿いを歩いてきたんだけど」
ところで、彼女がここに入部してきた日から、僕は一つだけ習慣付けた事がある。眼が見えないという彼女に向けて、世界がどんな風になっているかを言語化して伝えているのだ。
春に花を咲かせる桜の桃色。夏に陽を返して光る海の青色。秋に山を覆い尽くす紅葉の赤色。冬に空から舞い散る雪の白色。それ以外にも、この街の事や、この学校の事、今日の空模様から中庭にある池の濁り具合まで。世界の事を、全てを言葉にして懇切丁寧に彼女へと届けている。
それに彼女が何を思っているかは分からない。嫌なのかもしれないし、悪い気はしていないのかもしれない。ただ、僕が話を終えた時、感情の読み取れない声でごく稀にこう呟くのだ。
「世界ってそんなに綺麗なものでしたかね。私はもう忘れましたけど」
果たしてその言葉がどういう意味を持っていたのか。僕にそれが分かるのは、もう少し後の事だった。
彼女が眼の手術をするという日の昼、僕は部室で何をするでもなくぼうっとしていた。眼が治ったら、彼女は喜ぶだろうか。いや、僕の前では嬉しくとも喜んだりしないのだろうな。強情な彼女が想像できてしまって少し笑う。
そして、部室の扉を勢いよく開けた彼女は、まず扉付近でしばらく硬直していた。思えば、学校に入学するより前から眼の見えなかった彼女は、僕の姿を目に入れるのも初めてなのだ。どうやら手術は成功したらしい。
「世界がどれだけ綺麗だったか、思い出せた?」
「……いいえ。ちっとも綺麗なんかじゃありませんでした」
そう言いながらいつも通りの席に向かう彼女に、僕は「どういう意味?」と訊ねる。
「先輩の言葉があんまりにも綺麗だから勘違いしてました。世界は想像より大した事ありません」
「それ褒めてるの?」
「いえ、貶してます。嫌味です」
言葉の意図しているところが分からず、僕は眉をひそめる。彼女はわざとらしく溜め息をついて、そして僕に向かってこう言った。
「この最低最悪の、嘘つき」
そう言っていつも通り、刺身を食べ始めるのだ。部室に、濃い醤油とツンとしたワサビの香りがほんのりと漂う。僕はそんな彼女に向かってこう言ってやる。
「お互い様だろ」
「何の話ですか」
「もう盗み食いができなくなった」
僕が軽く笑うと、彼女は腹正しそうに舌打ちをする。そして、僕の前にワサビ醤油の入った小皿が置かれた。そういう意味ではなかったのだけど。
僕は知っている。この醤油に溶かされたワサビは、きっと適切な量なのだろうという事を。
「どうしてこんな嘘をつき続けたんですか」
「想像力だけが僕の取り柄だからだよ。世界はどんなに綺麗なのか。僕はまだ知らないけど」
いつも通り、刺身をワサビ醤油に付けて口へと運ぶ。ワサビがちょうどいい具合で、刺身はとても美味しい。なのに、彼女は感情の読み取れない声でこう呟いたのだ。
「辛くないですか」
そんな彼女の言葉を、僕は優しく否定してやろうと思う。