僕と後輩 12.Meine kleine Musik für dich

 廊下を歩いていると突然、ピアノの音が聞こえた。
 それは最初、一つの小さな音だった。でも、そこから組み立てられていく旋律が僕でも聞いた事のある曲だとすぐに気付いた。音の発生源は音楽室らしい。
 僕はなぜか、引き寄せられるようにしてそちらの方へと足を進めていた。理由は分からない。その音があまりに綺麗だったからかもしれない。
 階段を上って音楽室の前に辿り着き、扉を開ける。すると、彼女が静かな表情でピアノと向かっていた。流れるような指先は艶めかしく、綺麗だった。窓の外から見える空は呑むような夜で、その空間がまるでこの世から断絶されているかのようにすら思えた。
「アイネクライネナハトムジークです」
 ピアノから指をそっと離し、こちらを向きながら言う。この曲にも曲名があるのだという当たり前が、なんだか不思議に思えた。
「名前の意味は?」
「ドイツ語で、直訳すると『小さな夜の音楽』です」
「夜って言うにはあんまり向いてない気がする」
「そうかもしれません。元々は祭事や贈り物として野外演奏されていたそうです。親しい人、大切な人に向けて、この曲を捧げていたのだとか」
「だから、僕に向けてこの曲を弾いてたって言いたいの?」
 いつもの彼女なら、「バレましたか」といたずらっぽく笑うところだった。しかし彼女は、僕の言葉を聞いて愛想笑いを浮かべた。「そう言いたいんですが」というような意味合いを感じた。
 ゆっくりとピアノ椅子から降り、鍵盤蓋をそっと降ろす。「今日は星が綺麗ですね」と、小さく呟くように言った。その声すらも、旋律を奏でているかのように綺麗だった。
「作曲者はモーツァルトです。けどこの曲、彼が何の為に、誰の為に作ったのか分かっていないんです。だから、先輩に向けて、とは少し違うかもしれません」
 窓の外から見える星々を眺めながら、「寂しいですね」と呟く。
 もしかするとこの曲は、誰かを弔う為の曲だったかもしれない。あるいは、人生に絶望して作られた曲だったかもしれない。でも、そんな曲がたった一夜の催しに使われたと知ったら、モーツアルトは何を思うだろう。ちゃんと届いて欲しいのに、届かない。寂しいだろうか。でもその曲はそのくらいに、どうしようもなく綺麗なのだ。
「星が綺麗な夜に聴くには、少し騒がしいのかもしれません」
 綺麗なものはいつだって、ほんの少し寂しいのだと、僕は思う。
 彼女はこちらを振り向いて、僕の顔を見た。そしてまた綺麗で、ほんの少しだけ寂しい微笑みを湛えるのだ。
「だから、この場所、この瞬間、この夜のこの曲に。少し違う名前を付けましょう」
 その後で彼女は、日本語でも英語でもない、どこか知らない場所の言語を使って何か言った。僕には聞き取れなかったが、おそらくドイツ語だろう。それが曲名だという事だと思う。
 いや、聞き取れなかった理由はそれだけじゃない。彼女の声が、ピアノのように美しかったからだ。それに聞き惚れてしまったからだ。
「できればこの曲だけは、先輩にだけ届いて欲しいんです。たった一夜だけの、この一夜だけの、私の小さな音楽です」
 
 廊下を歩いていると突然、ピアノの音が聞こえた。
 それは最初、一つの小さな音だった。でも、そこから組み立てられていく旋律が僕でも聞いた事のある曲だとすぐに気付いた。音の発生源は音楽室らしい。
 僕はその曲を耳に入れながら、帰宅の為に階段を下りた。なんとなく、いい曲なんだろうなとは思った。でも、この時間帯に流すには少し騒がしくて、あまり綺麗じゃなかったかもしれない。
 窓の外を眺める。呑むような夜空に、淡く光る星々が浮かんでいる。ほんの少し寂しくなるくらいに、あまりに綺麗だった。