「それ」は突然に現れた。
いつものように部室の扉を開けると、部屋の中央に居座っていた。
真っ黒で、モヤモヤしていて、輪郭が不鮮明で。「ばけもの」という言い方が正しいかもしれない。
「それ」は姿以外にも、感情とか言葉とか知能とか、様々なものを持っていなかった。
けれど、ただ一つだけ、とある欲求を持っていた。「それ」はどうにも、人間になりたがっているらしかった。だから僕は、それに協力してやろうと思った。
まずは姿を与えようと思った。部室の窓から、帰路に就く生徒たちを眺めさせ、それを模倣させた。
結果的に「それ」は、眺めた生徒達の容姿の平均値を取ったらしかった。この学校の制服に身を包んだ「それ」は、どこにでもいるような、どこかで見かけたような、そんな普通の女子高生の姿になった。
次は感情を与えようと思った。なんとなく優しそうな表情をしているから、優しい人間になって欲しいと思った。だから、誰かを愛しいと思う感覚や、大切にしたいと思う感覚、守りたいという感覚、傍にいたいと思う感覚、助けたいと思う感覚。そういうものを、とても丁寧に「それ」に伝えた。
少しずつ、「それ」はとても暖かい感情を得ていった。愛とか恋とか慈しみとか温もりとか、そういうものを学んだようだった。
僕が「それ」を「それ」と呼ぶのはいささか優しくないような気がして、僕は一人の人間として「それ」を「彼女」と呼ぶ事にした。加えて、僕にとっての「後輩」という人間じみた立場を与えてみた。つまり、彼女は僕の後輩だった。
次に言葉を教えようと思った。持った感情を言葉にして音にして、口にして欲しかった。彼女に教えた様々な感情を、一緒くたにしてしまうのはあまり良い事ではない。でも、便宜上でも名前を付けるのは大切だろうと思って、僕はそれを「愛」だと教えた。
でも、彼女が最初に音に乗せて口にした言葉は「愛」ではなかった。僕を指差してこう言ったのだ。
「先輩」
僕は驚いた。僕はそんな言葉を一度も教えていなかったから。大方この学校の誰かから見聞きしたのだろうと思って、彼女には既にある程度の知能があるのだと気付いた。
彼女にはたくさんの知識と言葉を教えた。優しい人間になって欲しくて、愛を守って欲しくて、誰かを愛して欲しくて、「愛」をたくさん教えた。そうしていくうち、彼女は不自然なくらい、怖いくらいに優しい人間になった。人間と呼ぶには、あまりにも愛に満ち満ちていた。
「先輩はまだ、私に教えていない事があります」
ある時、彼女が言った。僕は「何の事?」と首を傾げた。
「私が先輩に抱くこの感情の、名前が分かりません」
「愛じゃないの?」
「いいえ。今まで先輩が教えてくれたどの感情にも当てはまらず、むしろ真逆であるような気すらします。愛に対義語は存在するのですか」
僕は気乗りしなかったが、愛の対義語である「憎しみ」についてを少し説いた。誰かを嫌う感情とか、殺したくなる感情とか。そういうものを伝えた。
次第に彼女の表情が変わっていくのが分かった。安堵しているような、喜んでいるような、それでいて寂しそうな。なんの根拠も無いけど僕は確信した。彼女は今、人間になったのだ。
彼女は一つ息をつき、僕と距離を取った。どこまでも人間じみた姿だった。
「……よかったです。私は、先輩の事が嫌いだったんですね。愛とは、気持ち悪い感情なんですね」
僕がたくさんの感情を言葉にしたのに、彼女が初めて得てしまった感情は僕への「嫌悪」らしかった。
僕が教えてきた、伝えてきた愛を、彼女は何一つ知らないままだった。言葉なんて飾りだった。彼女に無理やり押し付けて飾り付けようとしていた愛は、彼女にとって憎しみの範疇だった。彼女は、愛を憎んでしまったのだった。
翌日、彼女はいなくなった。
もう戻ってくる事もなかった。
いつものように部室の扉を開けると、部屋の中央に居座っていた。
真っ黒で、モヤモヤしていて、輪郭が不鮮明で。「ばけもの」という言い方が正しいかもしれない。
「それ」は姿以外にも、感情とか言葉とか知能とか、様々なものを持っていなかった。
けれど、ただ一つだけ、とある欲求を持っていた。「それ」はどうにも、人間になりたがっているらしかった。だから僕は、それに協力してやろうと思った。
まずは姿を与えようと思った。部室の窓から、帰路に就く生徒たちを眺めさせ、それを模倣させた。
結果的に「それ」は、眺めた生徒達の容姿の平均値を取ったらしかった。この学校の制服に身を包んだ「それ」は、どこにでもいるような、どこかで見かけたような、そんな普通の女子高生の姿になった。
次は感情を与えようと思った。なんとなく優しそうな表情をしているから、優しい人間になって欲しいと思った。だから、誰かを愛しいと思う感覚や、大切にしたいと思う感覚、守りたいという感覚、傍にいたいと思う感覚、助けたいと思う感覚。そういうものを、とても丁寧に「それ」に伝えた。
少しずつ、「それ」はとても暖かい感情を得ていった。愛とか恋とか慈しみとか温もりとか、そういうものを学んだようだった。
僕が「それ」を「それ」と呼ぶのはいささか優しくないような気がして、僕は一人の人間として「それ」を「彼女」と呼ぶ事にした。加えて、僕にとっての「後輩」という人間じみた立場を与えてみた。つまり、彼女は僕の後輩だった。
次に言葉を教えようと思った。持った感情を言葉にして音にして、口にして欲しかった。彼女に教えた様々な感情を、一緒くたにしてしまうのはあまり良い事ではない。でも、便宜上でも名前を付けるのは大切だろうと思って、僕はそれを「愛」だと教えた。
でも、彼女が最初に音に乗せて口にした言葉は「愛」ではなかった。僕を指差してこう言ったのだ。
「先輩」
僕は驚いた。僕はそんな言葉を一度も教えていなかったから。大方この学校の誰かから見聞きしたのだろうと思って、彼女には既にある程度の知能があるのだと気付いた。
彼女にはたくさんの知識と言葉を教えた。優しい人間になって欲しくて、愛を守って欲しくて、誰かを愛して欲しくて、「愛」をたくさん教えた。そうしていくうち、彼女は不自然なくらい、怖いくらいに優しい人間になった。人間と呼ぶには、あまりにも愛に満ち満ちていた。
「先輩はまだ、私に教えていない事があります」
ある時、彼女が言った。僕は「何の事?」と首を傾げた。
「私が先輩に抱くこの感情の、名前が分かりません」
「愛じゃないの?」
「いいえ。今まで先輩が教えてくれたどの感情にも当てはまらず、むしろ真逆であるような気すらします。愛に対義語は存在するのですか」
僕は気乗りしなかったが、愛の対義語である「憎しみ」についてを少し説いた。誰かを嫌う感情とか、殺したくなる感情とか。そういうものを伝えた。
次第に彼女の表情が変わっていくのが分かった。安堵しているような、喜んでいるような、それでいて寂しそうな。なんの根拠も無いけど僕は確信した。彼女は今、人間になったのだ。
彼女は一つ息をつき、僕と距離を取った。どこまでも人間じみた姿だった。
「……よかったです。私は、先輩の事が嫌いだったんですね。愛とは、気持ち悪い感情なんですね」
僕がたくさんの感情を言葉にしたのに、彼女が初めて得てしまった感情は僕への「嫌悪」らしかった。
僕が教えてきた、伝えてきた愛を、彼女は何一つ知らないままだった。言葉なんて飾りだった。彼女に無理やり押し付けて飾り付けようとしていた愛は、彼女にとって憎しみの範疇だった。彼女は、愛を憎んでしまったのだった。
翌日、彼女はいなくなった。
もう戻ってくる事もなかった。