ごみのような変わらない毎日を

「五味」という印鑑を強く押す。朱印の赤が滲んで、「味」という文字の真ん中辺りが少し潰れる。
 毎回上手く印鑑を押せないのが、私の細々とした悩みの一つだった。それに付け加えるなら、印鑑を押す度、潰れた「味」を眺める度、あの日を思い出すのも悩みの一つだ。
「五味」の読み方は「こみ」とも「ごみ」とも呼べるわけで、高校時代から大学生にかけて私は「ごみちゃん」と呼ばれていた。それは親しみを込めてだったし、実際そこから会話が生まれる事もあったから、私はこのあだ名に奇妙な愛着を持っていた。
「おい、ゴミ」
 講義室でその一言が宙に舞った時、場の空気が一瞬で冷たくなった。それは傍から聞けば、ただの侮蔑にしか思えない言葉だ。実際私も「大学生にもなって」と驚きながら声の主を探した。声の主が私の方を見ていた時はもっと驚いたが。
 彼は「早く出せよ」と、私の提出し忘れていた課題を急かす為に手を差し伸べてくれていた。要は親切心だったらしい。初っ端この苗字を呼ぶなら「こみ」の方、いや、せめて「ごみさん」というものだろう。もし「ごみ」なら、名字だけを呼べば悪口になってしまうと一瞬躊躇するのが普通だ。でも彼はそうじゃなかった。後で理由を訊いたら、「正当な理由で人を悪く呼べるチャンスだと思った」と訳の分からない事を言っていた。私は「それのどこに正当性があるんだ」と疑問に感じた。ともかく、それが彼との出会いだったのだ。
 彼はそれからも、意地でも私の事を「ゴミ」と呼び続けた。私は特に何も思わなかったが、周囲の人間が遠回しに指摘してくれる事があった。でも彼はその度に、人の意見を凝固剤にしてどんどんと自分の立ち回りを固めていったようだった。だから彼といる時、私は変わらず「五味」と書いて「ごみ」の方の自分だった。
「ゴミの毎日を、これから俺が変えたいって、そう思って」
 出会って数年が経ち、そう言われてプロポーズをされた時、私は思わず笑ってしまった。彼にその意図は無かっただろうが、「ごみみたいな毎日を、俺が変えてやる」とも受け取れて、なんというか、上手いなと思ったのだ。突然笑い出した想い人を見てキョトンとする彼に、私はその両方の言葉に応える意味でこう返事をした。
「貴方さえいれば、変わらない毎日でいいんだよ」
 
「五月三日」
 印鑑をしまいながら、その日付を呟く。テーブルを挟んだ先の彼は、少し冷めたコーヒーに口を付けていた。食後に私がコーヒーを淹れたのは二、三年ぶりだと思う。これが最後なんだと、当たり前の事も同時に思う。
「それがなんだよ」
 カップから口を離した彼がぶっきらぼうに言う。私が「何の日か覚えてる?」と訊ねると、彼は少し嫌そうな顔をした。それだけで充分だった。
「私は嬉しかったよ。その日だったのが」
 五月三日。彼が私にプロポーズをしてくれた日。私が彼のプロポーズに大きく頷いた日。彼が、私の間違った苗字呼びを止めた日。あの日から確かに、私の日々は変わった。変わってしまった。
「由美は『変わらない毎日でいい』って言ったのに、それを俺が躍起になって変えようとしたから、それがなんか、違ったんだろうなとか」
 彼は語尾を弱めて、少し言いづらそうに言葉を漏らした。迷った末に数年ぶりに私の名前を呼んでくれた事と、あの日の私の言葉を覚えてくれていた事。そのどちらもがほんの少しずつ嬉しかった。嬉しくて、悲しかった。
「私だって、『貴方さえいれば』とか言ったのにね」
 お互いが、どこか少しずつ間違ってしまったのだ。せっかく取れた休日に私は家でゆっくりしたいとごねてしまった。帰りの遅い彼を待って一緒に食事する習慣をいつの間にか止めてしまった。「止めて欲しい」と言ってるのに黙って吸殻を捨てるのは私の役目だったし、「味が濃い」と言っても変わらない味付けの弁当を食べるのは彼の役目だった。
 トイレ掃除の当番、空なのに冷蔵庫に入れられるポット。勝手に捨てられていた雑誌、プッシュしても出ないボディソープ。多めに買った食器は半分以上未使用だし、せっかく買った軽自動車の後部座席は埋まらなかった。
 ふと足を止めて目を凝らすと、何となく後ろを向いて耳を澄ますと、そこら中に転がっている。すれ違いの摩擦で欠けた何かが。摩耗してくたびれた人生が。多分、どこにだって転がっている。
「どうしようもなかったんだよ」
 彼が、空になったカップの底を虚ろ気に見つめながら言った。ずるい、と私は思った。そんな事を言われたら、私は「そうだね」としか言えなくなるじゃないか。
「でも私は」
 そこまで言って、私は言葉を止めた。注がれたコーヒーの水面に、波紋が広がったのが見えたから。滲む視界に、私が泣いているのだとようやく分かったから。
 でも私は、なんだろう。何を言おうとしたんだっけ。忘れた。いや、忘れた言葉なら、あの日にたくさん置いてきたはずだ。そうだ、それを言いたかったんだ。多分、そうだ。
「たった一つでも言葉があれば、たった一度でも差し伸べられた手があれば、何か違ったのかなって、思うよ」
 言った瞬間に分かった。違う、これじゃない。もっと言うべき事はあったはずだ。ほら、大切な時に限って私は言葉を間違う。だからこうなる。だから、こうなった。
「……言葉って言うなら、あの日俺は由美の名前は呼ばなかった。手って言うなら、あの日俺は由美に手を伸ばさなかった」
 それが何の事か、私にはすぐに分かった。涙を拭いながら、「名前どころか苗字ですらなかったじゃん」と言うと、彼は「そうだった」と苦笑いをした。
「私に出会わなければよかったって、言いたいの?」
 こんな事になるなら、出会わなければよかった。純粋な憎悪、もしくは好意故の裏返しの憎悪。後者であって欲しい。そう願いながらも前者だろうなと思っていた私は、「そういう事じゃない」という彼の言葉にまた驚かされた。
「俺さえいなければ、変わらない由美のままだったのになって、ちょっと思って」
「まあお互いだけど」と、また語尾を弱めながら言う。大切な話ほどそうしてしまうのは、強く断定をしないのは、変わらない彼の癖だった。
 話す時の癖、綺麗な箸の作法、寝起きの機嫌の悪さ、煙草を吸っている横顔、家を出る前の「じゃあ」、笑う時は隠す口元、でも食事の時は大きく開かれる口元、本を捲る時の手付き、運転している時の緊張した表情、控えめなくしゃみ、言いにくい事を言う時に強く閉じられる目蓋、帰ってきた時の「疲れた」、寝る前の「おやすみ」、起きた時のぶっきらぼうな「うん」。全部全部、思い出せるのに。全部が愛おしかった彼。大好きだった彼。変わらない彼と、変わらず一緒にいられたら、それだけでよかったはずなのに。
「……一番変わったのは、私だったのかも」
 鼻をすすりながら私は言った。聞こえなかったのか、それとも聞こえないふりなのか、彼は何も言わなかった。
 離婚届に押された「五味」の「味」は真ん中が潰れている。手汗か何かで湿気った人差し指でそっと触れてみる。このまま強く擦れば、文字は赤く滲んで汚れる。そうすれば、新しい用紙を貰いに行かなきゃいけなくなる。少なくとも、彼といる時間はもう少し増える。そんな、何の意味も生産性も無い思考が生まれる。
「早く出せよ」
 ふと、彼がテーブルを挟んだ正面から言った。
 私はそれに、幻覚を見てしまったのだ。
 あの日の彼を。私を「ゴミ」呼ばわりした彼を。
「ねえ、一個だけ我儘言っていい?」
 離婚届からそっと指を離し、私は言った。上手く印鑑を押せないのは治らないかもしれない。それでも、この文字を見てあの日を思い出すのは、これで最後にしよう。そう思いながら。
「最初に私を呼んだ時の言葉、もう一回言ってくれない?」
 彼は私の言葉に「は?」と素っ頓狂な返事をした。「なんでだよ」と。だから私は、こう言ったのだ。
「今の貴方には、私を悪く呼べる正当性があると思うから」
 暗に、私を悪いと思えないなら、あの呼び方はしなくてもいい。そういう意図もあった。
 彼がその意図に気付いていたかどうかは分からない。でも彼は悩んだような表情を見せた後、一度目蓋を強く閉じた。そして私の眼を真っすぐに見つめ、はっきりとこう言ったのだ。
「『おい、五味。早く出せよ』」
 彼は、そちらを選択したのだ。
「……そっちなんだね」
 私にはそれが嬉しくて、悲しくて、苦しくて、切なくて、そして、愛おしかった。私は、彼が大好きだった。
 私はただ、ごみのような変わらない毎日でも、貴方さえいればそれでよかったのに。