神様、僕を赦さないで

「全人類を平等に愛する。それが私の宿題です」
 誘拐から一か月後、彼女は初めて口を開いた。
 けれどそれは、十歳の女の子が発するにはあまりに残酷で、大人びた子供が小説の一文を抜き出したみたいに浮いた言葉だった。
「……どうして?」
 彼女の背に置かれた置時計の秒針が半回転した後で、ようやく僕はそれを言った。僕の頭に渦巻く無数の感情、思考、疑問。それらを全て凝縮した一言だった。
 どうして今更口を開いたのか。どうしてそんな事をするのか。どうして僕にそれを言ったのか。何より、他でもない君が、どうしてそんな事を言うのか。そんな「どうして?」だった。
 彼女は僕の言葉には応えず、一度口を開いたきり黙ってしまった。その先を聴きたい気持ちはあったが、あまり急かすような事はしたくない。僕は何か言おうとして、でも何を言っても不正解な気がして、結局目の前のテレビゲームに顔を戻した。
 その言葉から無理やり年相応のものを探すとしたら、それは「宿題」という単語かもしれない。自分に課せられているもの、逃れられない宿命。上手く言語化できない彼女はそれに「宿題」という言葉を付けた。そこに至るまでの思考がやっぱり十歳のそれではなくて、僕は悲しくなった。
「……あ、死んだ」
 僕が呟いてリモコンを手渡すと、彼女は控えめに頷いてそれを受け取った。ゲームオーバー毎に交代する。それがこの一か月でようやく築き上がった暗黙の了解だった。
 彼女は頭が良いのに加え、要領も良い。ゲームに触れた事すらなかったというが、あっという間に上手くなってしまった。僕がゲームオーバーした地点を難なく通り過ぎ、次々とゾンビを撃ち殺していく。
 しばらくして、銃を持ったキャラクターがゴール地点に辿り着く。感情の読み取れない彼女の表情を見て、「飽きた?」と訊ねてみた。彼女はまた控えめに頷く。一か月前と比べれば、素直に頷いてくれるようになっただけ良かったのかもしれない。
 こんな風に、ただゲームをしているだけで悲しい事もある。彼女はあまりに大人びていた。
 接待プレイと言うべきか、僕は彼女の為にわざと負けるようにしている。一番初めにゲームをした時に彼女はそれに気付いて、僕と同様の事をした。お互いにわざと負け、わざとリモコンを手渡す。それだけで充分に大人なのだが、しばらくした時から彼女はわざと負けなくなった。素直になったのかと思ったが違った。彼女は、「わざと」勝っていた。僕の気遣いを無下にしないよう、年相応の子供として振る舞った。気遣いの為の気遣いなんて、これではどちらが大人か分からない。
 他にまだやっていないゲームはあっただろうかと、カセットを詰め込んだ段ボール箱を漁ってみる。その時だった。
「お兄さんには多分、私が世界を嫌っているように見えているのだと思います」
 また、彼女が口を開いた。二度目の出来事に、彼女の声色を聞き取る余裕も僅かながら生まれていた。十歳の女の子にしては少し低い、なんだか安心感を抱かせる声だった。神様が何かを言う時、きっとこんな風な落ち着いた声を発するのだろうと思った。
「そうだね。少なくとも僕にはそう見えてるよ。学校も家族も、恨んで当然だと思う」
 学校と家族。子供というのは、それを世界の全てであるようにしか思えない。そのどちらもを好きになれなかった時、その子は世界の全てを嫌ってしまったのと同義なのだ。世界そのものを嫌ってしまうなんて、二十歳になった僕にすらその想像はできない。
「君の同級生も、父親も母親も。嫌いになっていいと思うし、君にはその権利がある」
 だからまずは、「嫌ってはいけない」という思考を取り除くべきなのだ。嫌いになっていいという確信と安心を与えるべきなのだ。そう思って、僕はその言葉をかけた。
 けれど、彼女は首を横に振る。「そうかもしれませんが、そうじゃないんです」と。
「お兄さんの言う通り、私は人間を嫌ってもいいのかもしれません。実際、そうできると思います。けれど、それでは駄目なんです」
 なるべく何でもないように話した方がいいだろうと思って、僕は格闘ゲームのカセットを取り出しながら「どうして?」とまた訊ねた。ディスクをゲーム機本体に入れる。
「それでは、何も解決しないから。私は、嫌悪も憎悪も厭悪も憎しみも、全部受け入れて笑わなきゃいけない。平等に微笑みを向けなきゃいけない。愛さなければいけない。そうやって全部を受け入れて赦してあげる。そうする事でしか、人は救われない」
 ああ、本当に。この子はどれだけ世界から虐げられてきたのだろう。
 多少の迫害なら恐怖できる。それを避けられる。あるいは、我慢もできる。それが収まるまで静かに耐えて生きる方法もある。
 でも、たった十歳の女の子が、「全ての罪を赦さなければならない」なんて、一体どうしたらそんな事を想えるだろう。その言葉はとんでもなく苦しくて残虐で、でも、そう宣言する彼女は少しだけ綺麗だった。
 僕は涙を堪えながら、二つ目のコントローラーを手渡した。彼女はそれを受け取り、また静かに頷く。
「じゃあ君は、何も嫌わないんだね。全部の味方をするつもりなんだね」
 彼女は主人公キャラを選択して静かに頷いた。「子供ならヒーローを選ぶのだろうな」という想像の上での僕への気遣いだった。もうどこからどこまでが気遣いなのか分からないまま、僕は悪役のキャラを選択する。
「でも、お兄さんの事は好きです。助けようとしてくれたから。味方とか敵とかじゃなく、お兄さんが好きです」
 試合が始まる。お互いの動きを探る為に一旦二人とも距離を取る。彼女はそれに気付き、子供らしく無鉄砲に突っ込んできた。それに甘え、僕は悪役らしくダメージを負い続ける。このまま負ける。
 僕は彼女を助けたのだろうか。分からない。全人類を愛そうとする彼女の邪魔をしただけなのかもしれない。なら、どうすれば僕は彼女を救えるだろう。
 それで、僕は思ったのだ。
 だから僕は、僕だけは、彼女の敵になろうと。
 彼女が理由なく忌み嫌い、恨み、憎しむ事のできる存在になろうと。
「君は、神様みたいだね」
 僕が呟いた言葉に彼女が気を取られた一瞬の隙に、僕は逆転した。攻撃なんてさせない。ただ一方的に、ヒーローにダメージを与え続けた。
 僕の勝利を告げる文字が画面いっぱいに表示される。隣の彼女を見ると、「負けちゃった」と悔しそうな表情を作っている。本当は悔しくなんてないくせに、悔しがろうとしている。
 全てを救おうと、必死にもがいて戦うボロボロのヒーローを見て、一体誰が笑えるというのだろう。
 画面の中で、彼女の動かしていた主人公が死んだような目をこちらに向けていた。
 
 一年後、僕は悪役らしく警察から逃げ続ける日々を送っていた。顔を見られぬよう帽子を被り、田舎のコンビニ前で煙草を吸っている。
 顔を隠して行われた記者会見で、彼女はやっぱり年相応らしからぬ質疑応答を淡々と繰り返していた。虐待をしていた親と離れて親戚に預けられた事、転校先では誘拐をされた子として距離を置かれがちだが、それでも数少ない友達はいるという事、以前と比べればそれなりに幸せという事。彼女は無感情にそれを言っていた。
 とある記者が、「誘拐犯とはどんな生活をしていたのですか」というような、意地の悪い質問をした。彼女の傍にいた弁護士らしき人も「黙秘でお願いします」と質問を遮る。
 その瞬間、彼女は透かしガラスの向こうで酷く、泣き叫んで取り乱した。目を逸らしたくなるような、耳を切り落としたくなるような、残酷な断末魔のように強く喚いていた。それをなだめようと大人二人が優しい言葉をかけ、背中をさする。
 僕はスマホと煙草を地面に落とし、その場にうずくまった。イヤホンを引きちぎりたかった。もう見たくなかった。聴きたくなかった。それでも、そうしなければいけなかった。いつまでも生き続ける敵として、彼女を怯えさせる必要があった。もう彼女が、僕を赦してくれないように。
 会場が騒めく中、彼女はマイクを持つ。震える手で、酷い声で、それでも強く、神様のような声で、神様のような言葉をかける。
「私は貴方を、貴方も、赦します。貴方を救います」
 ああ、神様。どうか、僕を赦さないで欲しい。