ヒストリー

出身地

熊本県

幼少期の暮らし、体験

家庭環境
2002年生まれ。兄弟・姉妹なし(一人っ子)。
アニメ・漫画・ゲームなどが好きな、いわゆる「オタク」の父と母のもとに生まれたため、幼少期から両親の所有する漫画を読んだり、両親に薦められたアニメ(そこまでメジャーでない深夜アニメなども含む)を見たりすることが多かった。
また、両親の大学時代の友人が週末に遊びに来ることがあり、その際は、大人たちに混ざってボードゲームやTRPGなどで遊んでいた。その影響もあり、小学4年生ぐらいのころからは地元のTRPGイベントにもたびたび参加している。
両親は特に厳しい教育方針などを持っておらず、自分に対して何かを強制することは少なった。さらには、共に遊んだり趣味を共有したりしていたこともあり、自分と両親の関係は良好で、ときは友人のように接することもある。
こうした家庭環境が一般的でないことは、小学校に入学して同級生と交流していくうちに気付いていったが、なかなか味わえないような経験ができるこの家庭に生まれたことは幸福であったと思っているし、自分の自由意思を尊重して育ててくれた両親には今でも感謝している。
周囲からの評価
幼少期から大人と一緒にゲームをしていたためか、ルールや規則に従うことは得意であり、周囲を困らせるようなわがままなども言わなかった。また、大人に対してある程度は礼節をわきまえて接することができていたこと、比較的勉学に優れていたことなども相まって、周囲の大人(親戚や学校の先生)からは「真面目」「優等生」「良い子」といった評価をされていた。
当時は周囲から褒められることが素直にうれしかったため、こういった評価を自分でも誇りに思っており、周囲の大人が良いとすること(積極的に発言や発表をする、他人の手伝いをする、など)をがむしゃらにやっていたように思う。
また、自分が制作・表現したものを褒められた経験は頭に深く刻み込まれており、小学校高学年のころのキャンプファイヤーで「火の女神」という点火役を演じた際に、先生から「一瞬、青木さんじゃないのかと思ったよ。すごいね」と言われたことなどが印象に残っている。
交友関係
小学3年生のころに一番仲の良かった同級生が転校してしまって以来、常に一緒にいるような友人はおらず、休み時間なども一人で過ごすことが多かった。
しかしながら、積極的に表に出ようとしていたせいか、学校内では少なからず知名度があったらしく、性別問わず様々な人から一方的に声をかけられることがあった。その中には半ばからかうようなものもあったが、自分としてはそこまで嫌な思いはしておらず、深入りされない関係性が心地よかったように思う。
友人が少ないことについて、どうやら学校の先生は心配していたようで、小学校、中学校、高校のそれぞれで、担任から呼び出されて「友達はいるか?」と聞かれた経験がある。そういったこともあり、自分の交友関係が軽薄であることは自覚しているが、それを改善する方法もわからず、特に問題だとも思っていなかったため、意図的に友達を作るようなことはしなかった。

中学・高校時代

熊本県立熊本高等学校 2020年卒業
自分の特性との出会い
中学時代、宿題が期限までに提出できないことがたびたびあった。自分としては、内容に分からないところなどは特にないのにもかかわらず、周囲が当たり前のようにこなしてくる量の課題を消化できない理由が分からなかったため、大いに困惑していた。生徒としての自分はテストの成績も良く、授業態度も真面目であったため、先生たちも宿題が提出されないことを疑問視していたが、分かりやすい問題を抱える他の生徒への指導などもあり、自分の問題は半ば放置され、そのまま高校に進学した。
進学した高校はいわゆる進学校であったため、授業ごとに大量の課題や予習・復習などが課され、自分は早々についていけなくなってしまった。このままでは授業内容が理解できなくなると思ったところで、自分が幼児のころの検診で発達の遅れを指摘されたという話を母から聞いたことを思い出し、一時期読んでいた精神疾患に関する本の内容などから、自分が発達障害を抱えているのではないかと推測した。その旨を担任に伝えると、地元の支援センターを紹介され、そこで診断を受けることとなった。
知能検査(WISC-IV)なども含めた検診を受けた結果、自分にはADHDの傾向があることや、他の能力と比べて処理速度指標が極めて低いことなどが判明した。その結果を受けて、自分はそこまでショックを受けることはなく、むしろ、自分が周りと同じようできない原因が判明したことが嬉しいと感じていた。
この診断の中では趣味や思考の偏りなども指摘されており、そうした自身の個性に通ずるものが障害によってもたらされているのであれば、この障害は自身を構成する重要な要素になると考えており、例え後天的に障害を消し去る技術が生まれたとしても、自分はこの個性を失くしたくないと思っている。

誰しも完璧でないという気づき
幼少期は「大人の言うことさえ守っていれば評価される」という思想を持っていたが、だんだんと精神が成熟していくにつれ、親や先生の未熟な部分を認識できるようなったり、彼ら彼女らの発言に違和感を持つようになったりしていった。また、宿題が出せなかった中学時代の自分への先生の対応が不十分であったことや、発達障害が判明した後も先生たちから自分に対する配慮等がされなかったこともあり、大人に対する不信感を抱くこともあった。
しかし、大人たちにも尊敬できる部分があることや、自分自身にも欠点があることなどを知るうちに、「完璧な人間など存在せず、それぞれに得手不得手があるだけだ」という結論に落ち着いた。この経験から、誰かが失態を責められている場面を(インターネット上も含めて)見かけても、「まあ、完璧な人間なんて存在しないからな」と冷静になることができるようになっていると思う。
また、中学時代の文化祭において、発表や運営などの役割を多く担いすぎたせいで、自分自身の体調を崩してしまった経験があり、そのとき両親に「できないことはできないと言うべき」「ときには人を頼る必要がある」と教えられたことで、自分自身も完璧ではなくできることには限界があるのだということを知り、それ以来、限界以上の仕事を請け負わないように気を付けている。

学校での部活動
中学時代は、気軽に課外活動をしたいという理由で最も活動日数が少ない書道部に所属した。途中で顧問の先生が代わり、活動内容や指導が厳格になったため、一部の生徒はついていけずに辞めていったが、真剣に書道の技術を教えていたことや、成果が出たときはきちんと評価していただいたことなどから、自分はその先生に対して好印象を持っている。また、字を書くということを通じて、その字の美しさや自分らしさを表現するという行為は素直に楽しかった。
高校時代は放送部に所属した。主な活動内容は、日々の校内放送や学校行事でのアナウンス及び撮影、大会に向けた朗読やアナウンスの練習と短編ドラマの制作であり、ドラマ制作という活動の目新しさに惹かれて入部を決めた。
発声や活舌の訓練を積んだことでハキハキとしゃべることができるようになったほか、朗読の練習では、作者の意図や登場人物の思いをくみ取り、それをどうやって魅力的に伝えるかを研究していくということを繰り返すうちに、作品に対する読解力と自身の表現力が向上したと感じている。
また、短編ドラマの制作では監督・脚本・編集をすべて担い、初めて映像制作に触れることとなった。自分の伝えたいことを物語に組み込んでいくことや、細かいところまでこだわって調整していく作業などは、自分との相性が良かったのか楽しく行うことができ、作品自体を評価された際は、嬉しさと同時に誇らしさを感じていたようにも思う。

インターネットとの関わり
中学時代に当時放送されていた特撮作品を好きになり、その作品の第三者の感想をもっと知りたいと思ったことをきっかけに、インターネットと深く関わるようになった。最初のころは他者の感想を眺めたり、それに対してコメントしたりするだけで満足していたが、次第に自分も発信する側になりたいと思い、二次創作小説を書いてpixivに投稿した。見返してみると拙い部分もある作品だが、今でもときおり「すき!(pixivにおける高評価を示すボタン)」が押されたという通知があり、初めて公に発表した創作物としては、それなりの出来だったのではないかと思っている。
また、他者の二次創作作品からニコニコ動画などの動画投稿サイトの存在を知り、ゲーム実況、ボカロ曲、MAD動画などを視聴していった。そこから次第に、「ゆっくりボイス」や「ボイスロイド」と呼ばれるような合成音声によって製作されたコンテンツを知り、セリフやストーリーラインが独特である投稿者の動画を好んで視聴するようになった。
高校3年生の後半になると、楽しかった部活から引退することになり、大学受験に向けた勉強が本格化していったが、勉学にはついていけなくなっていたことからモチベーションが沸かず、自分が周囲についていけずに精神的にも落ち込んだ結果、自主登校になっていたのをいいことに、動画サイトにのめりこんでいった。その際に、当時登場したばかりだったVtuberの存在に触れ、今でも活動を応援しているようなVtuberや、楽曲を必ず発売日に購入するようなバーチャルシンガーソングライターと出会った。その期間は、当時の精神状態を思えば必ずしもいい時期だったとは言えないが、もし自分があのとき受験勉強に取り組めるほど順調な人生を送っていれば、ここまで自分に影響を与える「推し」に出会うこともなかったと考えると、あの時期があって良かったと言わざるを得ないと思う。

大学・専門学校時代

東京デザイナー・アカデミー
大学から専門学校への方向転換
地元の私立大学に入学することはできたが、第一志望ではなかったためにモチベーションが低かったこと、受験勉強による精神的な落ち込みから回復しきれなかったことに加え、新型コロナウイルスの流行によりほとんどの授業がオンラインになったこともあって、大学の授業へは満足に出席することができず、進級もままならないような状況になった。そうしたなかで自分の今後の人生について改めて考えた際に、「どうせなら自分が楽しいと思えることをしたい」「今のまま大学の授業に苦慮するのは楽しくない」と考え、入学から2年半で大学を中退した。
それと同時に、高校時代に放送部の活動で触れた映像制作の楽しさを思い出し、「映像制作を仕事にできたら楽しい人生が送れるかもしれない」という思いから、映像に関する技術を学べる専門学校への進学を決意。地元の専門学校に行く選択肢もあったが、せっかくなら本格的に学びたいと思い、学費の補填のために1年半ほど派遣社員として働いた後、東京デザイナー・アカデミーへ入学した。

精神薬の影響
大学時代、授業への出席率が低いことが教員に問題視された結果、スクールカウンセラーとの面談をすることになり、そこで地元の精神科を紹介された。その病院の先生にこれまでの経緯を話したところ、正式に発達障害の診断が下され、精神薬が処方されることとなった。
その精神薬は、完全に障害を打ち消すわけではないが、脳の働きを助けたり、不安感を和らげたりする作用があるというもので、服用するようになってから、自分の思考がはっきりするようになったと感じている。服用し始めたころは、自分の思考や周囲から感じることの情報量が増えたことに困惑したこともあったが、次第に様々なことに対して余裕をもって考えられるようになり、また精神的な疲労感も減ったことから、一日に活動できる量も増加したように思う。
そうしたことのおかげで、前述したように自分の人生について考えたり、進学などに必要な手続きなどを行ったり、趣味としての活動を行ったりできるようになったと思っており、この薬はこれからも自分の人生に欠かせないものだと考えている。

「ミカミミラ」としての動画投稿活動
大学時代、授業へのモチベーションが沸かない中で、それよりも楽しいことがしたいという思いから、当時よくニコニコ動画などで視聴していた「ボイスロイド劇場(合成音声を用いて物語を描写する動画。今はソフトウェアトーク劇場ともいう。)」というジャンルの動画を自分も投稿してみたいと考え、ミカミミラという名義で動画投稿活動を始めた。
短編のストーリーを自分自身で考え、有志が配布するフリー素材を使って映像を作り上げていく行程はとても楽しいものであり、ときおり自分の作品を好きだと言ってくれる視聴者もいたため、モチベーションは高く、大学時代は特に精力的に活動を行っていた。
派遣社員として働くようになったあたりから、映像編集の時間がなかなか確保できずに投稿ペースは落ちているが、それでも自分の考えた物語を世間に発表できることは楽しいと感じており、現在も活動は続けている。

専門学校生としての現在の自分
現在、自分は東京デザイナー・アカデミーに在籍しており、カメラでの撮影における基礎や、各種ソフトウェアの扱い方、デザインの基本的な原則など、様々なことを授業から学んでいる。実際に作品を制作するような課題も多く、自分で手を動かして制作していくことに喜びを感じる機会も多い。
また、映像制作が好きであるという共通の思想があるからか、思いのほか同級生たちとも交流を持つことができ、ときおりお互いの自主制作作品の制作に付き合うこともある。
専門学校での自分に対する評価を分析する限り、どうやら自分はストーリーを生み出すことに長けているようなので、そういった要素を生かした作品の制作をしたいという思いをもって、課題や自主制作に取り組んでいる。

職歴

大学時代の短期アルバイト
大学時代に休学していた時期があったため、その際に、年末年始の年賀状仕分けバイトや、百貨店のバレンタイン特設コーナーの販売員などの短期バイトを行った。
黙々と作業することはそこまで負担ではない一方、その場の判断が求められる場面が多い接客業は、瞬時の判断が苦手な自分には不向きだと感じた。

派遣社員としてのコールセンター業務
大学を退学してから1年半ほど、専門学校の学費を補填するため、派遣社員としてコールセンターのオペレーターとして働いた。はじめは顧客とのコミュニケーションに不安を感じていたが、電話越しのマニュアル的な会話であればそこまで苦戦することもなく、数か月程度で業務には適応できた。
また、顧客に対してわかりやすい説明を行うように心がけた結果、相手は何を理解していないのか、そのためにはどのような順番で説明をすべきかといったことを考えられるようになり、論理的な説明を行えるようになった。この能力はメールでのやり取りでも活かされ、読みやすく筋の通った文章を書くことができるようになったと自負している。
この職場で働くなかで、職種と自分の相性が良ければ、働くこと自体はそこまで苦ではないのだという感想を抱き、少し楽に人生を考えられるようになったと思う。