自分と他者の弱さをみつめる。

いつも、もっと時間があれば、もっと余裕があれば、あんなことができるのに、こんなことができるのにと考えながら、日長の足りないをボヤいている。でも、この数ヶ月はこれまでと比べ物にならないほどに時間が溢れている。だが、これまでのように本を読むことも、文章を書くこともできない。その理由はハッキリとしている。単に落ち着かないのだ。いつもなら顔を合わせて挨拶する隣人とも会うことがきっぱりとなくなった。行きつけの定食屋で飯を食い、友人と談笑することもなくなった。これまでごく当然のように過ごしてきた日々が失われている。その状況に落ち着かないのだ。大学までの長い一本の通学路を飾る桜並木は、いつもなら初々しい学生を華々しく出迎え、新世界への旅立ちを祝う象徴であったが、今年は誰のために咲いたのか。学生を中心に若い人で群がる豚骨臭いラーメン屋。その匂いは、学生の腹を満たしているか。 

 一人で暮らしていると、誰とも話さない日も少なくない。それでも時間は刻々と過ぎていく。気づけば日が傾き、心のどこかでその日の終わりを感じ始める。梅雨が明け、外で蝉が凛々しく啼くなかで、部屋の中は毎夏のように快適だ。空調をつけ、汗ひとつかかない時間を過ごす。それでも、落ち着かないのだ。快適の中に余裕を感じない。むしろ胸が締め付けられるような気がしてくる。私は弱い。自分が考えていたよりもずっと弱いことに気づく。無理をしているからだというのは明らかだ。こうしたときは、強くあらねばと、どこかで思い込んでいた自分がいる。孤独が孤立に変化するのが恐ろしく、身体の変調に一人で対処する自身も万全ではなかった。

 先行きが見えないとき、私はミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳)を読む。モモは脅威である「灰色の男たち」から逃れようとする。だがふと、これまで「逃げ回ったのは、自分の身の安全をはかってのことで」あり、また「じぶんのよるべないさびしさや、じぶんの不安のことだけで頭をいっぱいにしてきた」ことにも気がつく。あまりに利己的であることに気が付いた途端、どこからともなくモモにまったく違う現実を照らし出す光が訪れる。本当に危険が迫っているのは、自分だけでなく、仲間たちであることをまざまざと感じ始める。そのとき、読者は次の言葉に出会う。

『そこまで考えてきたとき、モモはきゅうにじぶんのなかにふしぎな変化がおこったのを感じました。不安と心ぼそさがはげしくなってその極にたっしたとき、その感情はとつぜんに正反対のものに変わってしまったのです。不安は消えました。勇気と自信がみなぎり、この世のどんなおそろしいものがあいてでも負けるものか、という気もちになりました。というよりはむしろ、じぶんにどんなことがふりかかろうと、そんなことはちっとも気にかからなくなったのです。』

 

 私たちは、強くあるために勇気を振り絞ろうとする。だが、いくらそうやって強がってみせても、勇気は湧いてこない。それは自分の「弱さ」と向き合いつつ、大切な人のことを思ったとき、どこからか湧出してくる。