旅ってなんだろう。観光とは違うのだろうか。
旅の魅力を伝えるには、まずそれが自分の中にはっきりとしたイメージで抱けていないと話にならない。その一方で、旅とそれ以外とが分かたれる境界は、考えるほどに揺らぐ。
よく言われるのは、旅は現地により入り込むことだ、ということ。その土地に暮らす人との対話を通して、「わたし」の非日常が「かれら」の日常と重なり始める。しかし、「わたし」がやってくること自体「かれら」にとって日常的でない時点で、この幻想は崩れる。旅で見えたと思った誰かの日常は、自分が居るということのせいで「見られるもの」に変容している。
そうやって考えていると、旅なんてないんじゃないか、という気になってくる。観光をかっこよく言い換えたのが、旅なのだろうか。見えるはずのない日常を、見た気になっていることは傲慢とも言える。しかしそれは、目を向けなくて良いということとは同義ではない。
ローマの数多くの有名な観光地の一つに、スペイン広場という場所がある。かつて『ローマの休日』でヒロインがそうしたのを真似るように、観光客が大階段に腰をかけ、ジェラートを嗜む。こういうと聞こえはいいが、実際は幅広い石の階段は我が物顔で鎮座する観光客に埋め尽くされる。優雅どころの騒ぎではない。
それが昨年、保全のために広場での飲食や座り込みが禁止された。警察官の見張りを前に、ジェラートを持った観光客が顔をしかめる。
観光客にとって、観光地は非日常的な空間に過ぎない。普段暮らす場所から離れ、普段より着飾った自分は、その非日常の中では個別的な存在として認識されない。そのことが、日常の中で蓄積した鬱憤を忘れさせ、開放感を与える。しかし同時に、その場所に日常を見出す人の個別的な人生にも目が瞑られる。
「旅」なんてものはないのかもしれない。でも、その「旅」を追い求めることで、それまで見えなかったものに目が向き始める。それを信じて、そして体感しながら、そこに魅力を感じ、僕は旅に出る。そして、そこで見え始めたものをみんなにも見て欲しくて、必死でそれを伝えようとしているのかもしれない。
そして、個人の個別的な人生に目を向けることは、社会の構造の中で埋もれていく悲痛なものを取りこぼさないことに繋がることに繋がるんじゃないか、と思う。それは、あまりに途方もなく、効率の悪いことで。でも、だからこそ、学生の間に時間をかけたい。なんの役にも立たないかもしれないけど、その信念だけで没頭できるのが学生であり、それを体現していくのがS.A.L.の価値だと信じて。