わたしは幼い頃から本が好きだった。
ランプをつけて、夜更かしをして一気読みしたり、同じ小説を何度も何度も読んだりしたものだ。
しかし、成長するにつれて、前ほど活字を追うことが少なくなってしまった。
夜は時間があればすぐに寝てしまいたいと思うし、布団に入っても眠れない夜は、眼球がブルーライトに攻撃される罪悪感に苛まれながらも、次々とおすすめされる動画を見て気を紛らわせることが多くなった。
中学生までは決まって本を読んでいた長い通学時間にも、お気に入りのプレイリストでシャッフルされた音楽を聴くことが多くなった。
自分が何もしなくても止まることなく流れていく動画や音楽自体も、おすすめを次々と提案してくれる動画サイトも音楽アプリも、とても「やさしい」。効率的で親切であり、労力をかけず、ラクで容易に楽しむことができる。
しかし物語を読むことはそれとは違って、能動的な行為だ。
でもだからいい、とわたしは思う。
表紙やフォント、紙質などの装丁を楽しみ、自分がページをめくっていくことで初めて、ことは動き、展開していく。
そして、実在するかもしれないし、しないかもしれない、実在する人の「一部」が集まったのかもしれない「誰か」の「リアル」を疑似体験すると同時に、自分の「リアル」から抜け出していく。
そのこと自体が、理屈なしに心地よいのだ。
それは単なる現実逃避ではないし、新しいことを知り、知識や視点が増えるだけでもないように思う。
そして、自分の世界へ帰ってきたとき、自分の世界にある沢山の「リアル」をみる目が少し変わっている。そのことに気づく。
そしてそれは大抵、不安や不満もたくさん抱いていたはずの自分の日常が愛おしく見えるという変化であることが多いように思う。
わたしにとってこの感覚は、旅に出ることに似ている。
まず、自分から一歩を踏み出すことで始まり、知らない世界でずっと自分で足を動かし続けなければならない。
そして、自分の知らない遠いところに確かにあるものたちの存在、一歩踏み出さなければ知らなかった、自分の知らない世界で確かに息をしている存在を知る。
例えば草花は自分の住むところでは見ないような鮮やかな色をしていたり、街中にいるのは、身近にいるのよりも野生味の強い犬や猫たちであったりする。
そんな存在とは人であったり、動物たちであったり、草花や、景色、生き物だけではないものだってそうだ。
彼らに出会えるだけで、そんな存在がそこにあることを知るだけで、彼らと、大袈裟にいえばこの世界が愛おしく感じられるのは、わたしだけであろうか。
なんだか、わたしも自分の世界でまた生きていくことへのささやかな希望が湧いてくる気がする。
旅でのいろんなモノとのたちとの遭遇は、それが自分の中の何かを変えるほどインパクトの大きなものでなかったとしても、わたしがこの世界を愛おしく思う気持ちが増していくのには十分なのだと思う。