「認識」と「行動」の一致~代表引退にあたって~②

(「認識」と「行動」の一致~代表引退にあたって~①から続く)
https://pando.life/corsstudentproject/article/36191

「認識」と「行動」の一致~代表引退にあたって~①

小島 瑶平
学生団体CORS Project

立ち上げと活動の意味
不寛容がはびこり、互いに傷つけ合う状況が続いていた4月上旬。以前からボランティアについての思いを共有していた正村と一緒に、学生団体CORS Projectを立ち上げました。
誰もが痛みを抱える状況の中で思いついたのは、「心が安らぐ発信を行う」ことでした。そして、家にいる時間が増えている中で「考えるきっかけ」を届けるということ。
その後、吉田にも声をかけ、3人で活動をしています。

我々は、新しく立ち上げた小さな学生団体です。そういう意味では、社会的な影響力や発信力は限定的かもしれません。しかし、そうであるならば、発信を見てくれた方を確実に笑顔にできる投稿、勇気を与えるような投稿をするべきではないか。むしろ、そのような投稿ならばできると思いました。

活動していて、何度も勇気づけられることがありました。毎回の投稿を見てくれているだろう方や、エンゲージメントなどの回数も確実に増えてきました。そして、株式会社クインテット様からは、取材のご依頼をいただき、Pando様にてその様子を記事にしていただきました。(https://pando.life/ppm/article/32214
その他にも、多くの励ましの言葉をいただきました。「行動」すること、誰かのために「考える」ことの楽しさを感じていた次第です。

【インタビュー】コロナ禍で沈んでいるあなたへ 心安らぐ発信を CORS Project

【公式】Pando運営


「考える」こと自体の放棄の現状とデータの重要性
しかし今、「行動」どころか「認識」を生むことの必要性や重要性すら意識されなくなっているのではないでしょうか。つまり、この国全体が「考える」こと自体を放棄しているのではないかと、私は思うのです。
特に今般のコロナ禍。いったいどれだけの人が、自分の頭で考えて行動をとってきたのでしょうか。

この度、毎日新聞に掲載された、日本総研の藻谷浩介主席研究員の論考を拝読した時、その違和感が現実になった気がしました。(「コロナ禍の最適解 ゼロか100かを脱しよう」時代の風、『毎日新聞』2020年8月2日、朝刊、13版、2面)

<厚生労働省の試算によると、20代以下の陽性判明者の死亡率は0.0%、重症者割合も0.0%なのに、キャンパスを閉鎖し各種行事を中止するとは、「知の拠点」のはずの大学がインフォデミックに陥っているのではないか>
また、巷でささやかれているウイルスの強毒化についても疑問を呈し、<感染の最初の山だった3月後半~5月前半には累計1万5000人超の陽性判明者があり、半月のタイムラグを置いた4月~5月には830人の死亡者が出た。だが感染再拡大が始まった6月下旬以降、7月上旬までの20日間の陽性判明者3300人に対しては、半月後の7月6日~25日の死亡者が19人>であるとし、<両期間を比べると、(中略)単純計算した死亡率は10分の1程度にまで下がっている>と批判します。
これは世界全体でも似た流れで、<大量の犠牲者には胸が痛むが、死亡率の低下は明確だ>とデータに基づいた説得力ある論理を展開しています。また、高齢者の感染抑止も進んでいることを指摘しています。
そして論考の終盤で、<手洗いを行う限り、ウイルスの感染経路は「飛沫(あるいはエアロゾル)を介して口から口へ」に限られる。(中略)静かに鑑賞するタイプのコンサートや舞台を中止すべきでないし、大学も、飲んだり遊んだりを禁止すれば、講義を再開してよいはずだ。旅行も同じで、宿泊施設や公共交通機関内で「他人と近接して、マスク無しで大声を交わす」ことを避ければ危なくはない>としています。

私は毎日新聞紙上の藻谷主席研究員の論考を、2月からずっと拝読してきました。その度に、データを見る重要性を教えられてきた気がします。実際に、WHOやCDC、ジョンズ・ホプキンス大などのデータを見たり、場合によっては電子辞書を使って英文和訳もしたりしてきました。
感染症対策を疎かにしろと言っているのではありません。でも、ここまでデータを見てきた私から言わせれば、特に大学側のキャンパス閉鎖の対応や、後期も原則オンライン授業にするという対応には、納得ができません。ここまで学生を縛ることにどこまでの正当性があるのか。感染症対策をしっかりとしたうえでのサークル活動であっても、つい最近まで一切禁止にしていた私が所属する大学の措置は、過剰な対応とのそしりを免れないでしょう。致死率や重症化割合のデータを冷静に分析すれば、むしろ若い世代の活動を徐々に再開させるべきなのは、火を見るよりも明らかです。

さらに、欧米よりも圧倒的に少ない死者数や公衆衛生国たる日本の現状を考えたとき、吉村洋文大阪府知事の会見を機に、うがい薬が店頭から消えなければならない理由は、どこにあるのでしょうか。吉村知事を擁護する意味で言っているのではありません。感情的に行動してしまった人々を咎めているのです。付け加えれば、うがいというのは、国際的に推奨された予防法ではありません。WHOが一貫して推奨してきたのは、手洗いです。これもまたデータを見ていない、感情的な動きだといえそうです。

データは今後、どのような変化をたどるかは誰にもわかりません。でも、こうして客観的な証拠に基づいて対応を考えることは、政策や措置に納得してもらうための最低限の条件ではないでしょうか。命を数字で表すことに抵抗感がある方もいるかもしれませんが、今はこのデータに基づいて、説得力ある対応を考えていくしかないのだと思います。
そして、ここでいうデータとは、「~の可能性がある」という最悪な事態のみを提示する「可能性としてだけのデータ」ではありません。あくまで事実を的確に判断するための、「事実としてのデータ」であるはずです。何でもかんでも「可能性」を提示してしまえば、誰も活動できなくなってしまうでしょう。あえて言うなら、「蓋然性」を検討すべきではないでしょうか。


「考える」ことを失った日本が生み出したハンセン病問題
たしかに、「考える」ことは手間がかかります。
でも、問題を単純化し自分で「考える」ことを失った人間は、大きな過ちを犯してきました。
その一つが、私が取材しているハンセン病問題です。かつて、ハンセン病は、科学的合理性もないままに「恐ろしい伝染病」との恐怖を国があおり、国民がそれに迎合。ハンセン病患者を自分の住む地域から追放し、療養所に送り込むために官民一体となって、患者を差別してしまいました。これは、「考える」ことを失ったこの国の悲劇です。
このようにして「力」に流され、単純でセンセーショナルな言葉によって自分で考えることを放棄し、多くの人生を奪ってしまったという歴史。この事実を、「自分は科学的には誤っていたということを知らなかった」「私には責任がない」などと開き直ることが許されるのでしょうか。今回、この過去を生かせなければ、回復者の方々が人生を懸けてハンセン病問題という悲劇を訴えてきた理由が失われてしまいます。今こそ、この悲劇を思い出すべきです。問題を単純化せず、様々なデータをもとに、自分の頭で考えてみる。それが、悲劇を生まないために重要なことです。


「考える」ことは楽しいものでもある
一方で私は、「考える」ことは楽しいものだと思います。
私はこの度、オンライン環境にトラブルを抱え、約2か月間、まともに勉強できた記憶がありません。修理だけで時間が過ぎていくことに、とても落ち込みました。家族とも一緒に原因を探りましたが、頼れる人があまりおらず、原因がわかったのは試験直前。勉強が好きな自分だからこそ、つらかったです。
そんな状況でも、誰かの笑顔のために「安らぎを与える発信」を考えることは、とても嬉しく楽しいものでした。こうした取り組みを毎日続けることで、自分は誰かから必要とされているという実感を得られましたし、ぎりぎりのところで踏みとどまることができました。その実感が自分の存在根拠となり、苦しい中でも授業を受け続けられたし、この状況から逃げることはなかったのかなと思います。

この活動があるから頑張れたんです。本当に。

「認識」と「行動」とはいえども、「認識」の必要性すら今は失われているのではないか。でも、「認識」は過ちを繰り返さないという意味でも、自分の力になるという意味でも、必要で楽しいものだと私は思います。
だからこそ、「考えるきっかけ」を与える発信を続ける、学生団体CORS Projectの活動に、これからも期待してください。


マジックワードを疑う「平衡感覚」
今、この世界に必要なのは「平衡感覚」ではないでしょうか。色々な人の意見を柔軟に取り入れ、ラディカルな態度や設計主義的合理主義に陥らず、解決策を探る。
それは、人間としての「成熟」を意味することでもあり、決して簡単なことではありません。
でも、極端な主張や「わかりやすい」主張が、この世の中の大半を占め、砂上の楼閣ともいえるグラグラの理屈で、人々の営みが奪われていることがあまりにも多いような気がします。コロナ禍で表面化したのは、いかに日本がこうした現象に手を貸してしまっているかということではないでしょうか。
「命と健康を守るため」「大切な人のことを考えて」「感染させてしまう可能性がある」・・・こうした抽象的であり、十分な根拠がないにもかかわらず、一見するとわかりやすいマジックワードに、どれほどの人が批判的思考をしてきたでしょうか。「力」がある人が言ったことを鵜呑みにし、自分の頭で考えようとしない。もはやラディカルで設計主義的な合理主義に、日本中が手を貸しています。これらを批判的に考えず、後からになって「考えておけばよかった」と言っても遅いのです。我々大学生はすでに、貴重な時間を過剰な対応によって失ったといえるのではないでしょうか。各大学の措置に対して、私自身もっと批判的な声を上げるべきでした。
人生は一度しかありません。ならば、もっともっと「考える」べきでしょう。そして、「行動」するべきでしょう。

「平衡感覚」を手に入れれば、我々は同じ過ちを繰り返さないはずです。そのための第一歩は、「考える」ことではないでしょうか。

 

(続)認識と行動の一致~代表引退にあたって~③
https://pando.life/corsstudentproject/article/36194

「認識」と「行動」の一致~代表引退にあたって~③

小島 瑶平
学生団体CORS Project

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