「認識」と「行動」の一致~代表引退にあたって~①

こんにちは。学生団体CORS Project代表の小島です。
私は本日をもって代表を引退し、今後は週1回の日記ツイートのみの参加となる予定です。当団体の発信をご覧になってくださった皆様、メンバーの2人には心から感謝しています。
さて、なぜ私がCORS Projectの活動を始めたのか?それを紐解いていく中で、代表としては最後の問題提起をしたいと思います。


活動のきっかけとなった人生経験
活動を始めたきっかけは、私の人生経験です。
私は、小学生時代からのセクシュアリティーの悩みが原因で精神疾患を発症し(現在は完治)、大学は約4年休学しています。
セクシュアリティーについては、小学5年から違和を感じました。男性異性愛者であることには変わりがない。でも、ある部分についての違和は消えることがありませんでした。そこからが大変で、科学的に私のような人がいるということがわかるまで約20年かかりました。その間の孤独は本当につらかった。両親との関係は良く、信頼もしているのですが、そのことは言えない。母は「この子は何に悩んでいるんだろう?」と私が何かを抱えながら生きていることに気づいていたようです。
カミングアウトは、21歳の冬、相手は母でした。セクシュアルマイノリティーの方々の話をたくさん聞いてきた身としては、本当に恵まれていたと思います。母は、私をまったく差別せず受け入れてくれました。そして、それまで私が抱えた痛みを自分のものとして感じてくれました。
一方で、祖父母や父にはセクシュアリティーを理解してもらうためとはいえども、本当にきつい言葉を浴びせてしまいました。小さい頃には、一緒にキャッチボールをしたり、山菜を採りに行ったりした敬愛すべき人たちにも、なぜあんなことをしなければならないのか。今は関係が良好ですが、あのときに発した言葉は、私にとっても一生の傷となりかねない。だからこそ、差別は絶対あってはいけないのだと強く思います。

そして、精神疾患に関しては、それを理由にマンションの入居審査を断られたこともありました。発作的な異常行動を起こすことなどはなかったのですが、精神疾患に対する一面的な見方を理由に、審査を断られました。この出来事で最もつらかったのは、母がその差別を受け入れられず、台所で涙を流していたことです。差別は、私の最も尊敬する人をもこうして悲しませるのです。

実はこのほかにも、家族以外にはカミングアウトできていないことがあります。いつそれができるのか。この苦しみはいつ終わるのか。私自身、その件については未だに整理がついていません。「夢だったのではないか…」と。


差別を生んだ責任から得た結論
こうした事実から、私の人生を差別と切り離して考えることはできません。差別とは一生闘っていかなくてはならないし、その意味を考えさせられ続けることになるでしょう。
しかし、その差別は、私自身が関心を持つことなく見過ごしていたことによって、起こしてしまったものなのではないかとも思うのです。
セクシュアリティーに悩みを抱える前に、果たして自分はこうした差別に抵抗してきたか。精神疾患になる前には、病気や障害に対する差別を知ろうとさえしなかったのではないか。
その意味では、「自己責任」の面があるかもしれません。完全に社会を批判する資格があるのかと言われれば、そうでない気もしてきます。
だからこそ、こうした差別に向き合うのは私の責任だと感じるようになりました。今も、知らぬ間に差別を生んでいる一人であるのかもしれない。それならば、差別を知り、実際に苦しんでいる人に対して、できることをしていかなければならない。違和を抱えてから10年以上、一人で苦しんだ人生経験を生かすべきなのだと思いました。
「もう、自分のような人を出したくない」と。

そこで得た結論は、「認識」と「行動」の一致でした。頭で考えるだけではだめ。考えたことを実践する力がなければ、発信していかなければ、救える人も救えない、一人にさせたくない。「あなたのことを見捨てていない」と言い続けたい。そうして、私は様々な場所に足を運んでいくことにしたのです。


「行動」の意味
昨年から私は、ハンセン病問題を中心とした日本の差別問題を実地で取材・研究し、ルポルタージュやレポートを独自に執筆してきました。それらを発信し、日常生活の中でそこで得た考え方を実践してきました。実際にルポは好評を得ており、長年ハンセン病問題に取り組んできた方々にも新たな「気づき」を届けることができたようです。
また、徐々にではありますが、実名を使ってセクシュアリティーを詳細にカミングアウトする取り組みを始めています。そのおかげもあって、今は10名ほどの方が味方になってくれています。そうした中、嬉しいこともありました。「小島さんのような方がいるのは、聞いたことがあります。でも、当事者の方と実際にお会いしたのは、小島さんが初めてです」という声をいただけたことです。

「行動」の意味とは、こうした経験から裏付けられます。
もちろん、カミングアウトできない方を咎めるのではありません。カミングアウトできないのは、社会の差別が原因です。こうした差別と対峙し、一人でも多くの方が生きやすい社会をつくっていかなければなりません。そのために、私は「行動」しているのです。
また、「行動」には痛みも伴います。いいことばかりではなく、セクシュアリティーを理解されずに苦しむことだってあります。毎回の証言にはエネルギーが要りますし、自分の伝え方もまだまだ研究していかなくてはなりません。
そのうえで、動いていることで少しずつでも何かは変わってきています。それを実感することが徐々にできています。


「何もしなくていいのか」
3月下旬から自粛生活が続き、我々学生も自宅待機を迫られました。
そして、私の目に飛び込んできたのが、悲しい出来事の数々でした。感染者や医療従事者への差別、「日常」が失われていく事実、文化の危機、失業者の増加、センセーショナルな言葉の跋扈、「自粛警察」「マスク警察」・・・
不寛容がはびこり、人を傷つけ合うような状況が生まれている。
「何もしないでいいのか」「かつての自分のように、今にでも人生を諦めてしまいたいと考えている人がいるのではないか」・・・
そのときの自分に、「動かない」という選択肢はありませんでした。


(続)認識と行動の一致~代表引退にあたって~②
https://pando.life/corsstudentproject/article/36192

「認識」と「行動」の一致~代表引退にあたって~②

小島 瑶平
学生団体CORS Project

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